3061 「よい子」という病 春日耕夫 岩波書店 ・「励まさないで受けとめる」ことの大切さ。 ・ぎりぎりまで頑張ってきた人にとって、励まされることは、自分を否定されることに等しい。 ●なるほど。うつ病のときの説明に使える。 ・受けとめる……存在を肯定すること。 ・よい子とは、社会と学校と教師と、なによりも親の期待に沿う子供。自分が本当は何を望んでいるか忘れてしまい、自分の本当に望んでいることは、親が望んでいることと同じだと錯覚してしまっている子供。それ以外に考えられなくなっている子供。本当の自分を抑えているという気持ちさえない。 ●北口外来に来ている女子大学生に似ている。前回は母親が金沢から上京し、二人とも泣いて話していった。「母は面倒くさいことはお金で解決すると思っている。わたしが望んでいるのは、苦しんでいるのは、そんなことではない。そう言うと、じゃあ、どうすればいいのか。お母さんは分からないから、教えてと言われてしまう。そういうことではない。それを考えて欲しいということなのに。」 ●娘の苦しみを受けとめて、共苦する気持ちがない。「時間がないから」とわたしにも語った。では仕事の時間はあっても、娘の大切なことにつきあう時間はないのかということになる。「時間がないから。お金なら何とかする」そんな態度である。 しかし全体としては普通の人である。「一生懸命育ててきて、いまになってそんなことを言われるなんて、もうどうしていいか分からない」という。素直である。 ●「わたしが若い頃は、住み込みで働いたものだ。忙しくて厳しかった。あれこれ考えている暇なんてなかった。」「お母さんのそんな話、はじめて聞いた。」など。対話がない。 3062 「よい子」という病 春日耕夫 岩波書店 ・「励まし」は否定の言葉。「受けとめる」は肯定の言葉。 ・受けとめられることで、孤独から解放される。 ・苦悩に耳を傾け、共感し、共に分かち合おうとしてくれる誰かに出会うことができれば、孤独から解放される。「出会い」によって、他者とつながり、世界とつながる。 ・「もともとの問題」が「受けとめる」ことで解決されるわけではない。 ・親や教師が子供を指導することや教えることは、つまり否定する方向である。 ●うつ傾向の人は、「自分を作り変えたい。もっと別の自分になりたい」などと思う人も多いのではないだろうか?その一方で、他人に「変わらなければならない」などといわれると反抗したくなるのではないか。 もともと「否定」の方向になじんでいて、否定の方向が人生の基本スタンスであるという人もいるのではないか? ●このままの自分を受け入れてもらうことが治癒の一つのステップであることは確かだと思う。しかしそれだけではない。受け入れること(positive concern)が常にall goodとは限らないだろう。その点で著者の論は一面的である。 ●ありのままの自分では親に愛されない。だから別の自分を必死で作る。そこに無理が生じて、悩みが深まる。そのような言い方。しかし人は誰しもそのようにして自分を作るのではないだろうか? 3063 医者の仕事にも、死ななければいいという仕事と、もっとよく生きるよう手助けするという仕事とがある。 さくら病院に勤めていても、要するに生命を維持することを仕事だと思っている人と、生活の質を問うことを仕事だと思っている人とがあるようだ。 外来の精神科医の仕事は、今日がダメならもう死ぬということもない。その点では生活の質の問題を扱っていることになるだろう。 取りあえず生きているからそれでいいとする医療になれた人が看護に当たっているようでは、療養病棟として健全に機能するとは考えられない。 3064 「よい子」という病 春日耕夫 岩波書店 ●つまりは「子供と人格として出会うこと」を教師や親に要請しているとまとめることができる。 ・指導や教育や励まし。これらが負の価値評価として子供に突き刺さる。 ●確かにそうだろう。たとえば先日の女教師殺人事件。授業に遅れるなとか、「当たり前のことをしつける」教育をしていた。そのことで生徒は「キレた」。 抑圧のあり方から考えることができるだろう。抑圧を内在化してしまえればそれで問題は起こらない。そこから先はヒステリーの問題である。個人の、イントラサイキックな問題である。 しかしこの抑圧は、教師や親が何かのお先棒を担いでいる印象がある。もっと巨大で、悪しき抑圧の末端組織として教師と親がいて、生徒は現在も将来も、その抑圧のシステムに屈服し続けるしかない。そのような圧倒的な息苦しさが背景にあるのではないか。 (こうなってしまうといかにも新聞論調めいているが) ●多分、子供のそばに寄り沿って、肯定しているだけで、生徒は自分の内部に、よき自分を育てるだろう。そのようにしてない在化されたものは抑止力となるだろう。 たとえばドストエフスキーが、カラマーゾフで描いたような、友情や理想を子供は持たないのだろう。 人生は良いものだ、自分達はよいものになることができるのだと確信できないのだろう。 親と教師は人格肯定の価値システムを持たないというのか? よい子なら愛するが、悪い子なら愛を撤去する、そのようなギブアンドテイクばかりではないだろうと思うけれど? 3065 いかにして価値創造的に働くことができるか。そこに真の生きがいも生まれるだろう。 3066 「よい子」という病 春日耕夫 岩波書店 ・共感の大切さ。悪いことをした場合でも、説教されるようなことをした場合でも、事情を聞いて、共感できるものかどうか、試みる。指導するだけではなく、共感を試みる。それが大切。 ●なるほど。悪にも動機がある。そしてこの動機が理解できなかったり、状況からの共感が無理な場合、精神病が考えられるというわけだ。 その点では精神医学的なものの考え方でもある。 ●そもそも、子供は子供で価値の内的システムがある。それが壊れていない限り、共感は可能である。そのレベルでのつながりがない。それが現在の教育状況の中での最大の問題であるというわけだ。 ●倫理は言葉で伝えられるものではない。実際の人間の態度により、実際の人間に接することにより感化されて、倫理が染み込むのだろう。 司馬遼太郎「街道を往く」で、長州・薩摩を紹介していた。武士は公に仕えるものである、私心は厳禁である、能力のあるなしが問題ではない、私心のあるなしが問題である、このような風土があり、西郷隆盛の動きと関係しているとする。長州では現在でも、吉田松陰の言葉を学校で復唱して学んでいるという。 ●たとえよいこと・正しいことを教える場合でも、教える態度の如何によっては、反教育的である。子供は善悪の判断がつかないのではない。むしろ、悪いことだと知っているから、わざとやっている。それがなぜなのか、そこが問題である。どのようなメッセージがあるのか。あるいは病的な現象なのか。 ●教育(特に倫理教育)とはつまり、内的価値システムを形成することである。そのために何が役立つか。真に倫理的な人間を教育に従事させることである。 3067 「よい子」という病 春日耕夫 岩波書店 ●子供たちの欲求は何に向かっているのか。それが分かりにくいのか。「分かりにくい」というのは大人・体制側の否認なのか。 ・「よい子」であること、社会が要求する人物像であることが、本当に自分に利益をもたらせば、人はそのようになるだろう。脳内の利益の天秤とはそのようなものだ。 しかし、社会からの要請に真面目に応えていても、結局は自分のためにならないのではないかと気付いたとしたらどうだろうか。 自分の利益を守るためには別の道がよさそうだと感じたらどうだろうか?その時から、大人の指導に真面目にしたがうことはばかばかしくなる。現代は情報が洪水のようにある。優良図書ばかりを読んでいるわけではない。テレビもある。子供もその程度の「大人の事情」は承知しているのではないか。 特に、教師というものがどんなものであるか、人格について、子供は知っているだろう。そんな人にそんなことを言われたくないと感じる子供だっているだろう。 ●この本は精神医学の一歩手前の記述のようだ。精神医学の言葉でもっと深く語ることができるのではないか。 ●教師・親の態度として、CPだけが目立つのではないか。NPがもっと豊かに発揮されていればいいのにと思う。 ●つまり、筆者のいう「よい子」とは、ACが高い子ということだ。大人はもっぱらCPで対応している。それがいけない。大人はNPで子供に接する必要がある。また、子供はFCをもっと発揮しなさい。 典型的なよい子は、ACを発達させていて、同時に、CPも発達させている。社会のCPに合わせてせるのがこの人のACということになる。 3068 子供の生育環境 ・母親が外で仕事 ・育児に時間をかけず金をかける 3069 女性がおむつを当てていると便と尿が混じりあい、性器を大腸菌が汚染する。 おむつに工夫をして大便と尿が混じり合わないような工夫はできないか。 あるいはおむつに生理用ナプキンを組み合わせることで、ある程度汚染を防止できないか。 3070 老人用の薬剤の工夫。 ゼリーに混ぜて作っておく。 シロップを多用する。 セレネース水も万全ではない。入れるタイミングを逃したりする。 悪くすると粉薬をふりかけのようにして混ぜることにもなる。その場合には、ある程度味の濃い食品の方がいい。また、味の濃いふりかけと一緒にした製品があればとても好都合である。 多分、薬事法の関係で難しいと思うけれど。 3071 「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン ●語ることの禁止は、孤独の強要でもある。 ・曖昧さと共存して生きるすべを学ぶ。完全な想起は難しい。治療者も完全ではない。 ・治療者の役割をオープンな共感的な聞き手であり証人であって、探偵ではない。 ・現実全体の受容というものは人間の耐えられる限界を超えているのではないか。 ●なるほど。だからこそ、現実を作り変えたりする。仕方がないのかも知れない。現実は過酷すぎる。そんな現実を生きることができるほど強くはないとしても、仕方ないではないか。 ・真実を語ることの自然治癒力。 ・外傷物語を再話し、人格への統合を目指す。 ・語ることによって外傷ストーリーは証言となる。患者の個人的体験に新たな、より大きな次元を付与する。これを「らニュー・ストーリー」と呼んでいる。「もはや恥辱と屈従の物語ではなく」「威信と徳性の物語である。ストーリー・テリングを通じて、失っていた世界を取り戻す。」 ●ニュー・ストーリーとは懐かしい。ニヒルな唯物論はエックルスの認識論的次元のトラウマであった。それを語り直す治療の試みが必要であった。それがサイエンス・ニュー・ストーリーである。 ラッセルのような人は強いのか鈍感なのか、このような「癒し」は必要でなかったらしい。 ●語ることによって乗り越えられるとすれば、トラウマだけではなく、精神科の種々の領域で有効ではないか?小説を書くように、精密に体験を再構成することが癒しとなる。なぜなのだろう。 語ることができたとき、すでに乗り越えているのかも知れない。語ることができたとき、支配権を取り戻している。 3072 CPとNPと教育 親や教師の態度として、CPとNPの適切なブレンドがなされているか?例えば、日本の好まれる指導者像は、NPタイプだろうと思う。テレビで見かけた水戸黄門など。 NPの上に乗ったCPでなければ、反発を招くだけである。 教育は、裁判官や検事のようなCPを発揮するだけでは足りない。育てるという観点が不足しているのではないか。 育てる技術というものがあるだろう。「AさせたいならBさせる」技法。 女教師刺殺事件では、結局教師がCPだけを発揮していたという面がないか?NPで他人に接することは難しい。NPで接すると裏切られることも多いだろう。 親子の間では裏切られたとしても、長い間親子でいるわけだから、なんとか償いもつくというものではないか?親が損をすればするほど、子供は得をしているわけで、親としてはそれでも納得できる面があるかも知れない。 教育はNPとAを中心にして進められれば充分である。教育の立場の人がCPを発揮することはあまり有効ではないように思う。 教師自体が未熟で、CPをうまく発揮できないのかも知れない。 NPにつつまれた和やかな時間をいいものだと感覚している人が必要だ。「甘え」はこのあたりに関係があるのではないか。 3073 「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン ・外傷性記憶を変貌させる方法として、フラッディングと証言法がある。 ・フラッディング法。まず、リラクセーション・テクニックを教える。次に患者と治療者とは共同で慎重かつ周到に外傷事件を詳細にわたって記述するスクリプト(筋書き台本)をつくる。スクリプトには、文脈、事実、感情、意味の四つが含まれている。次に患者は声を出してスクリプトを治療者に読み聴かせる。動詞は現在形を使う。患者はできるだけ全面的に自分の感情を表現する。週一回、平均12〜14回行う。 ・証言法。話をテープレコーダーにとり、逐語的にテープから起こす。治療者と患者は共同でこの記録を校訂する。校訂の段階で、患者は断片的に散在していた回想を首尾一貫した一つの証言にまとめることができる。 ・語りというものの構造を利用して、安全な人間関係のコンテクスト内で強烈な再体験を行わせる。 ・「ストーリーを語るという能動的な行為」を保護的な人間関係の安全な状況で行うことは、外傷性記憶を異常に処理しようとしている過程に本当に変更をもたらすらしい。記憶の変貌と共にPTSDの症状軽快が起こる。言語を活用することによって症状が軽快する。 ●言葉とはそのような機能があったのか。伝達の道具や記憶の道具、また思考の道具としてだけでなく、記憶の再構成、外傷性記憶の癒し、心を立ち直らせる薬として役立つ。これは言語学での重要な発見となるのではないか? 体験を「語りうるものにする」時、体験を消化している。体験から何を学ぶべきかを知っていることになる。体験に対して支配の立場に立っている。 3074 「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン ・いくつかの断片がぴたりとはまって、絵の新しい部分が見えてくる瞬間。 ・紐やリボンをいじらせて過去に誘う年齢退行技法。 ・事件の新しい理解と意味。 ●事件に対して、新しい角度から光をあてる試み。別の角度からのスポットライト。 ・服喪追悼。悲しみを拒否することは加害者の勝利を否定する方法であり得る。しかし、服喪追悼を勇気を証する行為であるとすることが大切である。 ・悲しめなければ、癒しの重要な部分が抜け落ちてしまう。 ・悲しみも含めて、感情のすべての幅を感じる能力を取り戻すことが加害者に抵抗する行為である。 ●原著者の言語システムと、役者のそれとがずれている。それが問題である。 ・復讐、許し、補償により魔法のように一挙に解決する幻想。 ・現実には復讐空想を反復していれば苦痛が増すだけである。自己イメージを卑しいものにする。復讐は負わされた傷のつぐないにはならない。傷を変えることもない。 ・おとしまえをつけることは不可能である。 ・次第に正義の憤慨に変わる。他の人々と手を携えて加害者にその犯罪の弁明責任を問う過程が始まる。 ・復讐幻想は、加害者と被害者が共に入る牢獄である。 ●被害者は共同して告発の態度をとる。公共の場で償いが与えられるという発想が根底にある。それにしても何か悲惨なイメージである。 ●いずれにしても清算されることのない運命なのだ。マイナスをプラスに転換する魔法があれば別だけれど。魔法しかない。あるいは忘却。しかしときに傷は蘇り、被害者を苦しめる。 3075 「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン ・逆に許しの幻想もある。優越者としての愛の行為。しかし外傷を消し去ることは不可能である。 ・加害者が自分にとってつまらない存在になる。関心がなくなる。これは許しではない。 ・適切十分な賠償などありはしない。 ・償わせ幻想は回復の進行を遅らせる。 ・賠償のための闘争に入れば、成功するかどうかは加害者の気まぐれ次第となる。賠償を諦めたとき、患者は加害者から自由になる。 ・償いを、社会的、一般的、抽象的な過程と考えるようになる。 ●個人的な怨恨にのみ限定しない態度ということか。 ・患者が不安をコントロールするために治療者に抱きしめて欲しいと願ったとき。それは愛人か友人の役目だ、どうして治療者にそのような役割を期待するのか不思議だと返す。 しかしまた、治療者はその程度のことで役に立つならと思ってしまうこともある。そのようなことが治療になると思ったときは、全くものが見えていないということだ。 ・治療者の最善の方途は物語の誠実な証人になることである。 ●これが全体を貫く大切な方針。 ・患者には回復の責任がある。この責任を引き受けることが患者を強くする。 ・生存者は与えられた危害には責任がない。しかし自分の回復には責任がある。これが回復の主導権を自分で握ることにつながる。破壊されないで残っている自分の強さに気付く唯一の方法はそれを全面的に活用することである。 3076 「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン ・強圧に屈して他人を裏切った政治犯や子供を守れなかった被殴打女性は、自分が加害者よりもなお悪質な罪を犯したと感じる。 ●ソフィーの場合。 ・自分を被害者だとしか思っていない間は、途方に暮れるばかりだった。子供たちに対しては自分に責任があることを認めることによって始めておのれのパワーとコントロールを取り戻す道が開けた。 ●このあたりは不思議な心の動きである。自分のことについては途方に暮れていても、自分の子供に対して責任があるといわれると、現実的な対処能力を回復する。なぜか。 多分、保護者役割の回路と、自分で自分を律する回路とは別なのだろう。ある種の「ダブルスタンダード」状態であろう。 ・自分は死者であるという空想。愛の能力が破壊されたからという。 ●このあたりも聖書の文明の言葉遣いであろう。 ・愛の能力が残っていることの確認。動物や子供に対しての感情など。 ・外傷の再構成期に時間が停止する。この過程を避けて通ることはできないし、速めることもできない。 ・何度も繰り返しているうちに、外傷ストーリーを話してももはや強烈な感情がかき立てられなくなる瞬間が来る。それた生存者の体験の一部となったのである。それは体験の一部に過ぎない。今や外傷体験は他の記憶と変わるところのない記憶である。他の記憶が時間と共に色あせるように、色あせ始める。その生々しさが薄れる。外傷が人生のストーリーの中でもっとも重要な部分ではなく、もっとも興味ある部分でもないようだと生存者は気付く。 ・外傷を忘却し去ることはできないが、人生の中心を占めなくなることはある。 3077 「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン ●このようにして加害者の罪を不問に付すのか?償われることのない罪。清算されない罪。永遠に空間を漂うのか。そして傷ついた魂も、永遠に漂うのか。清算を求めて。しかし得られず。 ●忘れられるのは、結局現在にさして影響を残さなかったからだろう。現在に明白に爪痕を残している場合、また、あり得たはずの現在を失い、外傷事件の結果として現在がある場合、やはり埋めることのできない感情の虚空がある。人をも世界をも、許さない。 ・外傷事件により、人生を意味あるものとしてきた古い信条は掘り崩された。これからは自分を支える信念を改めて発見しなければならない。 ●本当に?このような信条や世界観の問題ととらえる人はどれだけいるだろうか?怪しいものだ。相当の知的能力を必要とするのではないか? このあたりはいかにも読書人好みの話題である。臨床的に普遍性があるかどうか怪しい。 ・近親姦の被害者は、強者は思い通りのことができて、決まりや取り決めなど問題にならないということをたたき込まれてきた。普通の親しい関係では何が正常で、健全で平均的で、典型的かをもう一度教育し直さなければならない。 ●圧倒的な力による支配に蹂躙された人。分裂病者の自明性の喪失の感覚に、こうした外傷性の要素が混入していないか? ●結局、分裂病という事態との対比で呼んでいるところがある。多分、分裂病という名で語られることはあらゆる雑多な人間的事象を含んでいるのではないか?およそどのような事態であっても、分裂病的側面を論じることができるのではないか。分裂病はそのように拡散した概念であるということになる。あるいは分裂病者を論じるのだから、人間のあらゆる面が話題になるというだけのことか。 3078 「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン ・心的外傷体験の核心は、孤立と無援である。回復体験の核心は有力化と再結合である。 ・自分が被害者であったこと、後遺症として何が起こったか、これらを理解する。これは外傷体験の教訓を人生に組み込む準備ができたということである。 ●まず準備として、事態を学問的に理解する方法があるだろう。その理解の上に立ち、感情を追体験する。そして体験を消化し噛み砕き、栄養とする。 ●しかしながら、患者にはこうした説明が有効でない場合もある。患者が何を求めているか、どのような疾病モデルと治療モデルを持っているか、そのあたりを把握することが大切だ。これが患者治療学の基本である。疾病治療学とは別の次元である。 ・わたしは世界の中にいても安心だ。わたしには力がある。そう感じること。 ・たたかうことを学ぶ。 ・生存者は自分の外傷後遺症は、危険に対する正常反応が誇張されて病的になったものだと理解する。 ・恐怖に積極的に立ち向かうことができる。これは外傷の再演ではない。意識的、計画的になされる。 ●劣等性のスティグマを捨てることができる。それは大切だ。 ●自分の人生を肯定し、享受するようになるまで。自分の人生を肯定して慈しむことができる。何て素晴らしいことだろうか。世界と人間に感謝することができる。 ・アドレナリンの湧いてくる感覚に慣れる。 ・プレッシャーを感じたとき、どのように落ち着き、どのように呼吸すればよいかを教える。自分の中にある貯水タンクは思ったより大きいことを悟る。 3079 シェークスピアを読むこと。これまでも読まれ、これからも読まれるであろう古典作品の持つ命に、自分も触れる、自分も参加するという感覚。そうした点で意味があるという指摘。 なるほど。そうかもしれない。人類の継続性の感覚、共有の感覚。参加の感覚。 3080 「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン ・トレーニング・プログラム。脅迫に対する反応の再条件化(条件付けのやり直し) ●強烈な体験の時には、一種の刷り込みが起こる。強烈な刺激に対して、正常反応の延長にあるものの、誇張され病的となった反応が固定される。 それを消去するのが治療操作ということになる。 ●これを単に、非合理的で、目的にそぐわない反応であるとしてしまえば、患者は救われない。 被害にあった上に、その後遺症を引きずるのは異常であると非難されたら、つらすぎる。 強烈すぎる体験に対しての、正常な反応であると定義する。異常と見えるのは、刺激(体験)が異常だったからだ。その異常さに対応するために、過剰な反応が起こっている。したがって、症状は、患者の異常を示すものではなくて、体験の過度の異常さを示すものである。 このように定義してやることで、「患者の、症状のとらえ方に起因する自己否定的構え」を解除する。 ・危険に対する正常な生理的反応を再建する。外傷が破壊した「行動体系」を再構築する。 ●行動理論である。 ・現実本意の対処行動を学び、その有効性を味わう。 ・恐怖にもいろいろな程度があることを学習し直す。 ・目標は恐怖を根絶することではなく、恐怖と共に生きることを学ぶことである。さらには恐怖をエネルギーの源泉、勉強の機会として活用する方法を身につけることである。 ●森田的センス。 3081 「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン ・「犯罪に対する責任があるのは加害者だけである」このことを明確にしておかないと、事件を検討することは、またしても犠牲者を非難する行為となってしまう危険がある。 ・肯定的・建設的な自己検討。破壊的な自己非難との違い。 ●グループ・ワークでの展開で、この二つの違いを見分ける必要があるのではないか。他者に対する「破壊的非難」と、「肯定的建設的検討」との区別。 ・自分自身と再結合する。 ・治療者に対する好感と理想化の違い。好感は他者との再結合の一つ。 ●なるほど。 ・自分の限界にも治療者の限界にも許容的となる。 ●治療者の限界を非難しているとき、理想化の裏返しと見る。また、もっと広く、現実検討の喪失と見る。 ・インティマシー(親密関係)の再建。 ・外傷体験者は、青春期に発達する対人的スキルが欠けていることが多い。 ●欠けているから補うと発想するか、欠けているままで生きていく方法を考えると発想するか。 ●分裂病者の場合、こうした意味でのスキルの欠損もあるはずである。つまり経験の欠如。その他に、基本的な認知システムの欠損に由来するスキル欠損もあるだろう。いずれにしても、分裂病全般に、外傷性成分の混入がある。外傷性とは、従来「神経症性」と呼んでいたものだ。 3082 「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン ・残虐行為を帳消しにする方法はないが、それを超越する方法はある。それは残虐行為を他者への贈り物とする方法である。生存者使命の原動力となるとき、外傷はあがなわれる。 ●なるほど。 ・社会行動により、公衆の意識を高める高めるために献身する。公衆の面前で真実を語る。 ●共同体の癒しの機能。共同体は真理の源泉となると同時に、癒しの源泉ともなる。この場合には、癒しは真実であることの認定に関係し、さらにその真理を共同体が共有し、役立てるということに関係している。 ・生存者は自分自身より大きな力に結びついていると感じている。 ●それが魂の売り渡しでないように。 この区別も大切である。魂の全面的譲渡と、偉大なものとの結合の感覚と。 ・他者に与えるのが生存者使命の本質である。そうするのは、自分の治癒のためであることを認識している。 ・「人と人との魂相互の結びつき」が自分を支え、力を与えてくれる。 ●「よき共同体」の作用。 ・生存者は外傷は取り返しがつかないこと、賠償の願いも復讐の願望も共に本当の意味では満たされないことを認識する。しかし被害者は社会正義の意味を再発見する。自分一人のものであった不幸を、自分以外の人々の不幸に結びつける。 ・勝つべきものは法であって原告ではない。勝つべきは法であって自分ではない。 ・加害者に罪に対する弁明責任を感じさせておくことは、社会の健康を維持するために重要である。 3083 外傷体験はいかにして乗り越えられるか。 この問題を軸にして、病気、文学、人生をまとめて論じることができるだろう。 よい切り口であると思う。 宗教も、この世で清算されない恨みや罪をあの世で清算してもらうための装置であるという面がある。 「この世の中に恨みというものがあるものかないものか」四谷怪談お岩はこう恨みを語る。清算されないならば、自分が化けて出ようというのである。 (精算ではなく清算である。) 3084 トラウマによって無力化された人。 トラウマではないが、ストレスによって無力化されている人。 そうかもしれない。わたしも。 3085 美人が境界例になりやすい理由 魅力ある女性は凌辱的性関係を強制される危険が高い。慢性的PTSDを経て、境界型人格障害に至る。若い頃の自分の魅力が、危険を引き寄せ、結果として対人関係と世界との関係の障害を残す。 3086 「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン ・有意義な社会行動に参加しているという感覚。 ・真実こそ加害者のもっとも恐れるものである。 ・生存者は自分自身と自分以外の人たちのために、公的に力を行使するということに心が満ち足りるのを覚える。 ・生存者が新しい発達段階にはいると、いったん解決されたと思われた問題が再び目を覚ますことがあるかもしれない。外傷後症状はストレスを受けたときには再発してもおかしくないことを告げておく必要がある。 ・外傷的事件の記憶が首尾一貫した語り物になっていること。それにふさわしい感情が結びついていること。 ・重要な対人関係が再建されていること。 ・悪を知ったことによって、よきものから手を離さずにいることの大切さを知る。 ●傷つけられた自分の人生を自分でケアしなければならない。それは大変なことだ。 ・共世界:外傷的事件は個人と社会とをつなぐきずなを破壊する。生き残った者は、自己という感覚、自己が価値あるものであるという感覚、自己が人間に属するという感覚は自分以外の人々との結びつきの感覚に依存し、それ次第であることを痛いほど味わう。グループの連帯性は恐怖と絶望に対する最大最強の守りであり、外傷体験の強力な解毒剤である。外傷は孤立化させる。グループは所属感を再創造する。外傷は恥じ入らせ、差別の烙印を押す。グループは証人になり、肯定する。外傷は被害者を堕落させる。グループは向上させる。外傷は被害者を非人間化する。グループはその人間性を取り戻す。 3087 「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン ・他者の示す愛他性によって、つながりの感覚、勇気、品性、信仰を取り戻す。他人の行動を鏡として失われた部分を取り戻す。 ●成育の過程と同じだろうか。 ・グループの価値。苦しみの共有から始まる。 ・グループへの参加は急がない。六ヶ月から一年をおく。全員が同じ事件の被害者である場合には、早期のグループ療法が有効である。 ・はじめは探索的にしない。個人の発言により一般原則を解説する。 ・匿名性と秘密厳守のルールとグループの教育的アプローチが安全を提供する。 ・自助グループにおいて搾取的リーダーが出現しないように配慮する。リーダーは交代するようにする。 ・短期間の教育的ストレス・マネージメント・グループ。症状軽減と問題解決能力向上、自己管理能力向上。当面の課題、具体的問題に対処する。 ・次の段階ではパーソナルな目標を設定する。 ・期間制限をすることで、気持ちが楽になる。 ・12週間が多い。ほかに4,6,9週間。 ・参加者それぞれの具体的な目標。外傷物語の分かち合い。語ることは記憶の主人となることである。 ・グループの中で支配と屈従の再演が起こらないように配慮する。 ・閉鎖グループは急速な愛着形成に役立つ。 ・メンバー選定は慎重に。動機と成熟が必要。 ・信頼する能力。他をケアする能力。自己を受容する能力。「何よりもわたしはある場所に帰属し、あるよきものの一部であるという感覚を獲得した」。 3088 役割としての出会いと、人格としての出会いの区別。人格としてで合うことはためらいがあっても、役割として出会うのであれば、納得できる場合が多いだろう。 3089 「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン ・構造化の弱いグループで、探索的に覆いをとる作業をするのは不適切である。 ・特殊性を解消する。自分の物語を多くの物語の一つとして眺める。自分の個別的な悲劇を人間の条件という一般的枠組みにおいて思い描くことができるようになる。 ●これを他人が押しつけてはいけない。 ●以上。フェミニズム的観点が強い感じはする。しかし、アメリカの風土では、「フェミニズム」と明確に表明することではじめて平等に近づくという事情もあるのだろう。 しかし一方でそれを悪い目的で利用する人もいるだろう。 ●現世での救いか来世での救いかといった問題は出ていない。現世で達成されない罪の償いの伝統的な解決は、来世での清算である。たとえば最後の審判、えんま様の裁き。こうした解決は、現実を変えるのではなく、心理を変えるという点では神経症的な防衛といってよいだろう。 「それでは何も変わらない」「これからも悲劇は繰り返される」「それよりも現実に行動して現実を変革し、悲劇を根絶するのが使命である、それが共同体的な生き方である」 そうかもしれない。これまではあまりに負け犬根性が染みついていたのかもしれない。 宗教とは、心理的支配の方法であるということができる。 3090 新井代議士の自殺。1998年2月20日(金) 在日韓国人であった。いわゆるいじめの構図のようなものがあったのだろう。村八分にされ、孤立無援の中で、追いつめられた。 とがって目立っていた分、周囲には「いいきみだ」という気分もあっただろう。 直接耳に入る声が、全国民の声のように感じられたのではないか。国民の大半は鈍感に無関心のままであったのに。ジャンプの原田の自宅に嫌がらせ電話が入るような風土だから、いろいろな人がいたであろう。 皇帝ペンギンのたとえが当てはまる。仲間の中でとがった奴がまず水に飛び込み、敵がいないことを確認してから他の大多数のペンギンたちが飛び込む。 守ってくれる集団がなかった。村の中で静かに生きることができなかった。見放されてお終い。 頭がいいとはいっても、専門知識の範囲内でのことで、そうした知識は利用されるだけのことが多いだろう。渡辺美智夫が引き立てたと言うが、要するに利用されたのだろう。誰も悪者になりたくないから言わないでいるところに、あれこれ言って目立ってしまった。 そのことが結局何を招くか、それを知っていて突き進むのは、誰にもできないことだった。頭がいいから他の人とは違う道筋が見えていたというのか?そんなことはない。結果はこれだ。 彼には見えていないものがあったのではないか。 政界のような風土の中では、性格傾向が増幅されるだろう。 いずれにしても次第に感覚はマヒしていく。みんなと同じように「無駄」も支払う必要がある。合理主義者はその無駄を省こうとして軋轢を生む。 馬鹿の住む世の中では馬鹿の流儀にしたがうことが必要だ。無駄も一種の税金である。 自宅から初老の男女が出てきて、女性の方がテレビカメラに向かって、「あんたたちが信じないからだ、みんな同じ様なことをしているのに、よってたかって!」と罵声を浴びせた。とても品のない様子だった。 多分、両親だろうが、戦う気風がある家族なのだろう。 発見者は妻。 資産家ならば資産は残る。しかしこういう人たちの場合には死んでしまえば何ものこらないだろう。 そのような人生である。例えば友人関係は今後維持されるだろうか?妻や遺児たちに対してどのようなサポートがあるだろうか? そのようなサポートが期待できるようであれば、このような人生にはならず、このような結末にはならなかったであろう。 子供たちはどのような人生観を持つだろうか? 新聞で。「君のような三流大学を出た人間がこんなに贅沢ができて、東大、大蔵省の自分がこんなに貧しいなんて、世の中おかしい」と語ったとのこと。 昔は清貧ということが、具体的な力を持つ価値であったのだろう。よい生き方がそこにはあった。意味のある人生があった。 しかし現代では清貧は無価値であるから、このような感想も生まれるのだろう。無理もないことだと思うけれど。 3091 「死の淵からの帰還」野村祐之、岩波 ・良心への問いかけ。 ・死は自分と神との間の問題であって、法律や教会が介入する問題ではないとする牧師の意見。 ・人間がどこまで優しくなれるか。本当の豊かさとは何なのか。 ・共同体の機能。真に人を癒し、人生に意味を与える。そのような共同体が失われている。 ・プロフェッショナルとは、神と契約して、誓った人である。 ●プロフェッショナルとスペシャリストの違い。神と約束したかどうかの違い。 ・アメリカでは新しい状況に遭遇したとき、問題に白黒の決着をつけたがる。未開の土地に道をつけ地図に書き入れるのと似て、後から来る人が同じような目に遭わないように、フロンティア的義務感から法廷に持ち込むことがある。泣き寝入りや示談ですませてしまうのは自己中心的で、他の人の役に立たず、それゆえ社会的責任が果たせないと考える。 ●なるほど。この本の中には、「共同体感覚」が描かれている。大切なものだと感じる。 ・命の深さを生きる。長さでも大きさでもない。 ・プロフェッショナルの元の言葉、プロフェッションは、コンフェッションと同義で、神への告白を意味する。天職であるとの自覚の下に神への忠誠を告白し、自分を律し、自分の全存在をかけて邁進することを、神と人々の前に誓った人が「プロ」である。神と人々に誓いを立てている以上、良心に反する悪いこと、ずるいこと、いい加減なこと、曲がったことをするはずがないと期待されており、それ故、人々からの信頼と尊敬を得る。 ●単なるスペシャリストとは違う。 3092 シンデレラは、靴で確認しないとシンデレラだと分からなかった。きれいな服を着ていないと本人だと確認できない。 このことは何を暗示しているのだろうか? 暗闇での顔も分からない状態での交流があり、残された手がかりから、本人を探し出す。そのような事態があったのではないか? 3093 尊敬される村長。 公平無私の態度で、知恵を授ける。だからみんなが尊敬する。 このような人間が社会には必要なのだろう。 長老である。なぜいなくなってしまったのだろう。スペシャリストではなく、ゼネラリスト。健全な常識の人。 現代では個人は信用できないから、機関に委ねようというわけだ。 3094 浦島太郎はなぜ竜宮場から帰ったのか?理想郷だったのに? →以前書いた覚えがある。 3095 おとぎ話療法 子供におとぎ話を途中まで聞かせて、その続きまたは結末を絵に描いてもらう。 3096 おとぎ話が伝えるもの。 集団の無意識。無意識の層の伝達経路として考えられるのではないか。 また、親の期待を無意識層に伝える方法。 教育手段である。 3097 新井議員 瞬間湯沸かし器。尋常でない怒り方。(茅ヶ崎中央病院グループの大屋敷さんも同じらしい。) 権力への欲望。 死へのロマン。妄想に近い死生観、人生観。 政治への動機付けが、権力欲望であるというのは古来からのことであるが、一方で、清貧、公平無私、こうしたものを体現する人物が政治にかかわることも古来のことであった。 政治家の意識でもあるが、それは有権者・市民の意識の反映でもある。 政治家は田中角栄的なものになってしまったのか。 3098 浦和の事件。 ひとり暮らしの老人が女子中学生に殺害された。中学生は老人の年金をむしっていたらしいという。 3099 ・あいさつと感謝。 ・これまでの治療経験。分裂病とうつ病。薬物、カウンセリング、デイケアのミックス。総合的多面的治療。それにはチーム医療が必要。 ・種田先生と職員各層との距離。種田先生は時代の十五年先を走っている。そのビジョンが組織の各層に理解され浸透するまでは時間がかかる。 ・痴呆もやはりチーム医療。 ・痴呆療養に生かされる精神科的センス? ・ケアプラン方式。最低限の要請。 ・鑑別診断。痴呆だとしても、機能不全の内容。それに応じてリハビリに適した4〜7名程度のグループが形成され、リハビリプログラムが組まれればよい。グループと担当職員と合わせて、5〜8名の間で、パーソナルな結びつきが生まれるように配慮する。適度な強さの人格的結びつきが治療に有効である。また、ターミナルケアとしての側面からも、こうした人格的結合が望ましい。 ・しかし、孫か曾孫に当たる若い職員が、どのように人格的結びつきに至ることができるかと考えると、難しい。いっそのこと、宗教関係施設などならば方針も立ちやすい。しかし非宗教の場所で試みることも大切である。 ・バナナ理論 ・名札の件。 ・部屋を忘れる人の件。 ・食事介護の工夫。食事前に目を覚まさせることの必要。 ・薬剤調整の件。パルス的使用。 ・外傷性障害の重畳の可能性。老人虐待は客観的にそうである場合もあり、主観的にのみそうである場合もある。PTSDの症状として意欲減退、主体性喪失、うつ状態などが発生していないか? ・職員間の意見の一致。上意下達では納得した医療ができない。説明して対話して納得するプロセスが大切。 ・痴呆への働きかけ以前の問題で忙しい。しかし結局、食事、排泄、睡眠、こうしたことを通じて痴呆への働きかけになっている面がある。 ・「望ましい痴呆専門リハビリはどのようなものか」について、 ビジョンを明確にする。そのビジョンを目標としていま自分達はどこまで達成できているか、評価する。 3100 日々の生活の中でわたしは何を得ているか。 患者さんに愛を伝えることができる立場である。あとは自分がどのような気持ちで生きるかだ。 仕事は同時に自己成長の機会である。 3101 人間が生きるとは大変なことだ。 病棟で。食べることが不自由。排泄が不自由。それでも生きている。大変なことだ。 一方ではいじめられて死を選ぶ人がいたりもする。 いまの自分の生きている時間感覚からいうと、人生は短すぎる。 痴呆患者の様子は他人事ではない。 3102 こんにちは。今です。あなたの担当医になります。どうぞよろしく。わたしにできることがあったら、何でも言って下さい。できる限り力になりたいと思います。 連絡先。緊急連絡をどうするか。ファックスを使うのはどうか(高頭方式)。(緊急連絡が必要になるほどの重症の患者さんは別のところで治療して欲しいけど) そのあと、診療案内。各種情報の提供。 「こころとからだの療養マニュアル」の冊子を作る。備え付けて置いて、読んでもらう。 薬について。副作用の心配について。 うつの患者さんの療養心得。うつの患者さんの家族の心得。 費用について。 心理カウンセリング、心理テスト、自律訓練法について。 必要な場合、32条の説明。役所に言って32条と、障害者手帳の案内パンフレットをもらう。 3103 痴呆医療コーディネーターも必要 患者と医者の間に立ち、治療の希望を述べる役目。医療内部の人間ではなく、患者の立場を代弁する人。 法廷に立つときに弁護士が付き添うような形。 3104 昨日のテレビ。ナショナル提供の水戸黄門。 話の筋。堺の鉄砲鍛冶が、人殺しの道具をつくるのはよくない、そんな道具があるから使ってみたくなるのだと考え、包丁職人になった。その娘に惚れている若者がいて、よく思われたくて鉄砲職人になった。一人前になった頃には娘の父は包丁職人になってしまっていた。父親は鉄砲鍛冶には娘は嫁にやれないと拒否する。 一方、堺の奉行は女好きで、生娘を探せという。鉄砲鍛冶の娘に目を付ける。奉公にあがれというが、父が拒む。「女というものは、はじめての男は忘れられない、無理矢理押し倒してしまえば、後はいいなりだ」と力づくで拉致してしまう。(ひどい発言) 拉致した後で言いなりにならないと、「お前の大事な若者と父がどうなってもいいのか」と脅す。(これも卑劣な方法) どちらも女性の心的身体的外傷の典型例であろう。 水戸黄門様一行の活躍により事件は解決し、若者は鉄砲鍛冶をやめて、包丁職人になることになり、結婚は許される。その時「はやく子供を作りなさい」と祝福される。 人殺しの道具についての考え方はよい。ナショナルにふさわしい。 しかし、女性に関する考え方の描き方についてはふさわしくない。フェミニズムと敢えていわなくても、よくない描き方であると感じられる。 「力ずくで‥‥」は悪人のいうことだからいいとは言えない。このようなところで教育がなされる。反面教師だから悪を演じて見せていいはずはない。 「はやく子供‥‥」については無神経というものだろう。 ナショナルというブランドがこのようなものを放送している。これでいいのだろうか?これが国民意識の平均線というものだろうか? 少なくとも、娘の心的外傷に対するケアが必要である。そんなこともなくけろりとしていられるように描いているのは、やはり無神経である。 テレビ、マスコミ界に人材を!と叫びたい。 3105 医者にしても、単なる専門職でいいはずはない。スペシャリストではなく、プロフェッショナルでなければならない。神との間に契約がなければならない。 卓越した専門技能・知識には、必然的に高い倫理が要請されるはずである。 しかしそれが難しい。こんなことをきれいな言葉で並べることはできる。たとえば政治改革を語った新井代議士。しかし実状は単なるスペシャリストで、権力欲にとらわれた人物であった。 難しいことである。支えるのはやはり人のネットワークではないか。神と約束し、友と約束をする、その中で人生は意味を持つ。 3106 血尿が出ている小平さん。尿閉だというので膀胱を押す。濃縮尿が出る。90を過ぎている。 太股は筋肉がなくなっている。皮膚は乾いて固い。 このようになる。時間は確実に過ぎてゆく。この重苦しい気分はどのようにして克服されるだろう。 簡単な問いではない。 3107 「死の淵からの帰還」野村祐之、岩波。 ・プロとしての医師は、自分の事情や関心、好み、世間の風評に左右されてはならない。どんな権力や誘惑にも動じない。揺るぎない信念、良心、倫理観、正義感、死生観に支えられている。 ●なるほど。開業医は、それができるではないか?自分に何ができるか、何をするか、自分でコントロールできる。 わたしはこのようなサービスを提供します。よかったら利用して下さい。気に入らなければ、利用しないで下さい。それだけのことだ。 ただ、命の価値は平等だということは忘れないようにしよう。公平無私、それが大事だと思う。 3108 カウンセリングの始まりは、病気をどう考えているかについての理解の概念枠のチェックからである。原因は、治療は、遺伝は、環境は、それぞれどのように考えていて、何を希望しているか、そこから話を始めたい。 いわばメタ・カウンセリングである。 3109 パナリオン(湘南心療内科レター)第一号 デイケアとは何か →今泉クリニックに置いてもらう デイケアというものの認知が広まっていない あまりに人数が少ないと何をするのか分からない(モデルが欠如) 職員がデイケアについて理解していない 3110 1)診断面接の日程を決める ・何を ・いつ ・結果はどう伝えるか 2)治療についてのプランシートを作る。それを「患者と共に」決定する。患者が治療に主体的に参加する。 ・期間、頻度 ・治療法の項目 ・治療ターゲット、どうなりたいのか ・否定項目の決定(家族には内緒、電話はしない、薬は使わない、学校には知らせない、など) 3111 患者さんに治療者側の経歴情報を伝える工夫が必要 3112 心にとめておくべき言葉 貼っておきたいスローガン 患者さんのために 愛の実践 誠実 好きで病気になる人はひとりもいない 雑用という用はない 心をこめて いま心をこめていますか? 稀に治し 時に癒し 常に慰める 3113 心の時代という言葉で伝えられているものは何か 親密な人間関係の喪失 人間関係の空洞化 孤独なバナナ 植物も人間の気持ちの何かを感じている、その何かが、我々に欠けている。 3114 現代社会の特質を何に見るか? 方法論はあるのか? 方法論がないなら、自分の内面を語るのみで、社会を語っているのではない疑いがある。 競争社会とか学歴社会とか、少子化、老齢化、核家族化、価値観の多様化、人間関係の希薄化、こうしたことをキーワードにして、あれこれのことが因果関係の系列に組み入れられる。そこに本当に因果関係はあるのか?果たして論として成立しているか?ジャーナリズムとか、社会論評とか、ひいては心理の背景描写として、その程度の恣意的なものでよいのか? 結局、やっつけ仕事で金を稼いでいるのだとしか思えない。 3115 人はなぜ詩を書くか 1)歌うため。感情を歌うことはあるときは慰めになり、あるときは喜びを倍加させる。 2)旧来の言葉と経験の範囲内で、新しさを提案したいとき。たとえば新しい比喩。流行の言葉。 3)言葉の伝統が想定していない、新しい体験や着想を語るとき。これは言葉の本来の使用の範囲外にあることである。表現し得ないものを表現するというのだから。しかしそれでも言葉を組み合わせて表現するしかないというとき、詩を作る。これはたとえば分裂病体験を語るときである。 たとえば「いい温泉だった」といえば、これまでの経験と言葉の伝統の中で比較的容易に事柄や感情を伝達できる。しかし分裂病体験は言語システムの外にある。しかしそれでも伝えようとするとき、言葉の「詩的機能」を利用する。いわば言葉の意味の「にじみ」を利用する。 分裂病者は社会から排除され、分裂病体験は言語システムから排除されている。これは表裏一体のことである。 3116 ひとりで悩んできたんですね。もうひとりではありませんよ。 3117 二十年前の殺人事件。自首してきた人のインタビュー。 夢で何度もうなされた。いまでも。意識してはいなかったが、夢に何度も「鉄塔」が出てきた。現場に行ってみると、やはり鉄塔があった。 鮮やかな実例である。 意識できていないとしても、心に強く刻印されていて、何度も悪夢の形で反復される。 消化しきれない体験が、ナマのままで、多少の解離を伴って、記憶される。それが何度も夢に出現する。 3118 心療内科とは何か ・心療内科は心身症を治療する。心身症とは、病気の原因として心理的要因が少なくない比重を占め、治療の側面でも心理的配慮を必要とする病気をいう。 ・別の言葉でいえば、ストレス病である。心臓や胃に問題があるのではなく、生活のストレスが問題になる。 ・心療内科=心療+内科であり、心療は治療方法を示し、内科はどの臓器について治療を加えるかを示している。 ・心療とは、心理療法の省略形である。同様の省略形としては物療内科がある。これは物理療法の省略である。物理療法とは、温熱、高周波、パラフィン浴などの治療法を指している。治療法としては他に薬物療法がある。精神療法は心理療法とほぼ同じである。 つまり、心療とは、治療方法の一つで、心理療法のことである。 ・内科とついているのは、代表的としてつけているだけで、実際には耳鳴りならば心理療法耳鼻科となるし、動悸であれば心理療法内科となる。 内科系で扱う臓器は、循環器、消化器、呼吸器、神経などが代表であり、具体的臓器でいえば、心臓、血管、食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、結腸、肝臓、膵臓、肺、脳、末梢神経などとなる。治療に当たる科でいえば、循環器内科、消化器内科、呼吸器内科、神経内科、一般内科などとなる。 これでもずいぶん広範囲であるが、心療内科としては内科に限らず、心理療法が関係するものならば何でも治療する。整形外科で診ている腰痛、肩こり。婦人科で診ている更年期障害、ほてり、冷え性。精神科で診ているうつ状態、神経症。耳鼻科で診ているめまい、耳鳴り、ふらつき。 ・高血圧、胃潰瘍などが、ストレスによる病気の代表例である。内科の先生方は必要に応じて心理療法を十分に行っている。しかしながら、内科の先生方は忙しいので十分な時間をとることができない場合もある。そんなときにはカウンセリングの専門家として心療内科医や心理カウンセラーに依頼する。 薬物 心理療法 物理療法 …… 内科 ○ ◎ 耳鼻科 ○ ○ 皮膚科 ○ ○ …… ○ ○ 3119 ストレスを測定する方法 ・カテコールアミンを直接測定する。状況をどのように揃えるか、工夫が必要。 ・たとえば血圧について、横になったときと立ち上がったときとを比較する方法。max-min=10〜20が平均値。これ以上だと敏感。 同様にカテコールアミンについて、負荷前と負荷後とを比較する方法はどうか。 ・目の疲れ、冷え性、高血圧、肩こり、心臓。 3120 一次情報と二次情報(加工情報) 二次情報とは、一次情報の加工品である。一次情報に人間の脳の産物を混入したものだ。 精神医学の場合、加工情報が一次情報になるという特殊な事情がある。 「○○についての研究」という著作の中で、一次情報と二次情報があり、普通の意味での事実は一次情報であるが、精神医学でいえば、二次情報が一次情報に当たるものだ。その人の脳の中身が反映されている部分である。 情報の品位について 一次情報と二次情報の区別。加工品かどうかの区別。 加工に価値がある場合も少なくない。それが人間の知的活動だからだ。 しかしまた、加工の仕方は結局時代と地域の事情に左右される。一次情報は価値を減じることはない。 多分、もっとも価値のある情報は一次情報である。 医学の世界で言えば、患者についてのナマの情報である。 3121 開業騒ぎで疲れていると、注意のスパンが減少しているらしいことに気付く。 複線の事柄に注意を分散させることができず、単線の注意になっているようだ。 たとえば痴呆の場合がこんな状態ではないかと思う。 だとすれば、痴呆の場合に、忘れるというのは複線で考えるからだろう。単線で、「線形処理」を心がければ、不都合は免れることができるのではないか。 3122 軽度の解離について 物事に熱中しているとき、軽度の解離が起こっている。それがストレス解消につながる。なぜか? 人間の注意の性質として、気にかかるそのことばかりに集中してしまうと、ますますそれが大きく見えてしまう。頭にこびりついてしまう。誤解の上に誤解を重ねるようになってしまう。 注意を一時的に逸らして、事態を離れた位置から見ることが有効である。客観化と言ってもいい。相対化と言ってもい。 そのようなことに自律訓練法は役立つ。 →佐々木雄治「自律訓練法入門」をクリニックに用意しておきたい。あるいは長谷川書店に置いておきたい。 解離とは、注意のスポットライトを別の場所にあてることである。 3123 「対話と納得」の具体化を考えること。 わかりやすい具体的な形で提示すること。 3124 治療についての考え方のアンケートをつくること。 3125 自律訓練法についてのパンフレットをつくる。まとまったもの。訓練開始を決意してもらうためのもの。 3126 医療全般について、また老人性痴呆の医療において、コーディネーターのようなものが有効である。病院や医師とは別の立場からのアドバイスが欲しい人がいるだろう。内部の人間でない人からの意見。セカンドオピニオン。患者の立場を代弁する弁護士の立場の人。 3127 待合い室での時間も治療の一部である。 アメリカで、はじめてのホスピスを建設するときに、住民の反対があって、住宅地ではなく山間部に建設された。最初は不便だと思ったが、次第になれてきた。自動車でホスピスまでの道を走る時間に、これからホスピスに行くのだと思って心構えができる。あれこれ考える。親の人生のこと、自分の人生のこと。 このような時間を持つことに意義がある。したがって、遠くにホスピスができたことも悪いことではなかった。 メンタルクリニックでも、待合い室で待っている間にあれこれ考える。音楽、香り、光、これから何を話すか、前回は何を話したか。そうした時間も大切な治療の時間である。 従って、ただ単に待ち時間が短ければよいというものでもないだろう。 「わたしは忙しい」「時間を無駄にしたくない」そう考えているなら、「大事な自分のため、大事な子供のために、あなたの一番大切な『時間』をさいてあげて下さい」とお願いしたい。 そのような態度があなたに欠けているものかもしれない。「忙しいから後回し」ですべてがうまく行くわけではない。 3128 痴呆患者の往診 加藤先生も徳洲会駅前クリニックの院長塚田先生も、痴呆の往診をしてくれればありがたいと語っていた。 必要であろう。しかしうまくできるだろうか? 3129 対話は合奏のようなものである。 独奏は自分の音を聞けという態度である。合奏は違う。 共感的態度とは、合奏の態度である。相手の音を聞いているだけではない。 自律訓練法の効果として、注意の焦点をずらすことと、注意の焦点の全般化(暫定的にこう言っておく)の二つがある。 合奏的態度とは、後者の、注意の焦点の全般化である。 観察的自我の成立とも関係している。 カウンセリングは、たとえば録音されたCDを再生して、それについて論評することとも違う。合奏に近い。 3130 カウンセリングと普通の相談の違い。 ・秘密厳守であること。 ・語ったことによって傷つけられない保証があること。 ・主体性を奪う方向の指導はしない。むしろ主体性を再獲得する手助けをする。 ・医療についての専門知識をわかりやすく伝えることは必要。これも不安を小さくする大切な方法である。しかしそれは半分である。後の半分は「支えるわたしがいること」「あなたは一人ではないこと」「無力と孤立無援に苦しんできたが、今日からはそうではないこと」を伝えること。 3131 カウンセリングとしての専門性。 ・逆転移に気付くこと。治療者が自分の心の動きに敏感であること。 ・無意識への配慮の深さ。(殺人者が、現場に鉄塔があったことを意識していなかったのに繰り返し夢に見た例。) 3132 専門性‥‥クール 愛情・友情‥‥ウォーム この両者の適切な混合 共感もするが診断もする 対話もするが、診断もする 3133 欲求があり、それが満たされないから、不満不安が生じる。 欲求がなければ不満も不安もない。 3134 カウンセリングなんかしても状況が変わらなければ仕方がないではないか? →不安の原因は変わらないかもしれない。しかし、その原因について考え続けて、次第に不安は大きくなる。不眠、食欲不振、集中力低下なども起こる。原因についての不安ではなく、「周辺部分」の不安も無視できないくらい大きくなる。 そんなとき、薬とカウンセリングで、周辺部分の不安を小さくする。そうすれば、正味の不安が残り、原因について対処する元気も出てくる。原因がよく見えてくるし、我慢もできるようになる。時間を待つことができるようになる。 原因があっても、人生では時間がたてば状況が変わる。 「今日できることも明日に延ばそう」 あしたになれば変わるかもしれない。状況も、自分も。世の中が変わるし、技術は進歩する。 時間を待つことは難しいが、つきあってくれる人があれば何とかできることもある。 3135 全く何も「種」がないのに、心身症が発生することはない。 発生時には何かきっかけがある。 発展するのは心理の問題である。 始まりの時には実際に心臓の動悸があり、死ぬかと思ってびっくりしたのだろうと思う。 「発生時のきっかけ」が精神内界のことだと、精神病の領域である。 3136 クリニック。まず最初は家族相談でもいいことを広める。家族を支えることも大切な仕事である。 3137 老人に興味を持ってもらう。 可処分所得が多い。時間がある。健康不安が高い。政策として医療費優遇策がある。 3138 「精神療法の経験」成田善弘 ・人間は本当は美しいものなのだといった、いわば通用しやすい人間観に溺れていては治療者たりえない。治療者足るには人間性の暗い部分を見据える強靭な眼がいる。こういう眼ができてくるためには、人間関係の修羅場で自己の内面にうごめく暗い力に気付くというやりきれない経験を繰り返さなければならない。その経験が、人間というものを直視しうる、分化の価値から自由な眼を、つまり治療者に必要な無頼の精神とでもいうべきものをつくりあげる。 ○人間というもののどうしようもなさ、やりきれなさに絶望すること。しかしそれでも希望を捨てないでいること。 死んでしまっても同じだと納得していながら、一方では生きていたいとあがいている。そのような矛盾に似ている。 ○世間のレールが全てではない。そんなものは相対的で一時的なものに過ぎない。そこに真実の生はない。そんなことをきちんと言えるようでありたい。 ・最近の神経症者は社会や文化に対する反逆者であることを放棄し、規範に到達しようとして到達しきれぬ敗北者に甘んじている。 ○性の解放の場面では、社会が抑圧しているにもかかわらず、欲望を噴出させた。最近の神経症者、たとえば抑うつ神経症、アパシー、不登校などは何の欲望を噴出させているのかと考えてもはっきりしない。 たとえば「自分が自分らしくある」ことの欲望とでも言おうか。個性的である欲望とまでは言えない。要するに、レールから外れて悲しい。しかしそのことを正当化してみたい。 負け試合の敗戦処理投手のようだ。 ただみじめなのである。 3139 「精神療法の経験」成田善弘 ・身体医は精神科医以上に安易な心因論に傾きやすい。 ・他科医の見落としていた身体疾患を発見することも大切。 ・患者の身体状態に常に関心を払い、話題に取り上げ、必要に応じて検査をし、陰性データを患者と共に確認する。それが精神療法的関係の確立につながる。 ○これは大切な指摘。このようなスタンスがいいだろう。心療内科の雰囲気で。 ・現代の神経症。 引きこもり型。(昔はヒステリーのような顕示型。) 行動化。 三者病理から二者病理へ。(エディプスではない。) スプリッティング。(抑圧ではない。) これらの治療では、治療者は父親ではなく母親を演じさせられる。 ○三者病理はイントラサイキック。二者病理はインターパーソナルという意味だろう。こちらの表現の方が意味がよく分かると思う。 ・患者から向けられた愛情を、自己の個人的魅力に帰すことなく、患者の側の歴史に由来するものとしたところにフロイトの偉大さがある。 まがいものの治療者は、すべてを自己の個人的魅力に帰すことに汲々とする。 ○たしかに。 ・過剰にかかわらないことが精神療法の重要な技術である。 ・精神療法の目標。どの程度介入するか。 1当面の危機からの脱出。 2症状の軽減・消失。 3防衛機制を見きわめ、その再編をはかる。 4人格の再構成と成熟を期待する。 3140 「精神療法の経験」成田善弘 ・いまの現実が苦痛で希薄であればあるほど、人は過去や内的世界に没入する。 ・治療経験があったり、読書をしていたりする場合には、治療や読書のおさらいからはじめる。 ○なるほど。当然だが、大切。 ・1)You are a ///. 2)You are ///. 3)You feel ///. 4)I feel ///. 4)がもっとも治療的でかつ正直。 主語を抜いて、「怒りが湧いてきます」とだけ言う。それが患者の気持ちにもなっていれば、理想的である。 3)と4)の間を往復できるのが精神療法家である。 1)はラベル貼り。 ○なるほど。 ・患者をわかろうと努めつつ、面接の場で自分の心身に感じたことををできるだけ正直にたどる。それがそのまま患者の体験に重なる。神田橋は「患者の身にならないでおこなう共感」「自己の心身をそのままアンテナにしておこなう感知法」と述べている。 ○これが有効なのが神経症。無効なのが精神病ということになるだろう。しかし精神病であっても、全面的に無効ということはないだろう。 ・見捨てられを予期する人は、他者との関係においてそれを実現するように振る舞ってしまい、現実に見捨てられる。これを自己充足的予言という。治療者も、無意識的に自己充足的予言を持ちつつ患者と接し、ついには予期どおりの感情を持つに至ることがある。 ○なるほど。こういうからくりはあるだろう。大切な指摘。 3141 「精神療法の経験」成田善弘 ・患者から学ぶ。分からないことを治療者の頭の中ででっち上げたりしない。患者に教えてもらう。その分だけ患者に負担がかかる。その負担を患者が自分のためのやりがいのある仕事とみてくれるとありがたい。 ・患者の観察自我が自分自身の病理を見つめるとき、「どうしてだろう」とつぶやく。その不思議に思う感じを引き出す。 ●観察自我への問いかけといった気持ちか。 ・治療者を物足りないと思う程度のほうが、患者が主役になっている。物足りない分だけ患者が自分で自分を癒す。 ・自分の不安に丁寧に耳を傾けてもらい、重要なこととして取り上げてもらったという経験が強迫神経症者には乏しかったのかもしれない。保証や確認の要求は他者の親密な応答を求める彼らの呼びかけであるかもしれない。 ・治療者は知らないことは知らないと告げ、それにもかかわらず不安に陥ることなく生きていられることを示す。 ●なるほど。それも大切な指摘である。 ・不安は不安として心の中にしまっておきながら、日々を暮らし、人間らしい楽しみを享受することが当面の目標である。 ・他者をコントロールすることで、他者に投影した自己の衝動をコントロールしようとする。これが失敗して強迫症状の背後にあった境界人格障害が露呈することもある。 ●つまりは衝動コントロールの問題だということ。 ・早々と幼児期の性が語られたりする場合には、知性化の産物に過ぎないか、性を語ること自体が一つの強迫になっている可能性を考えた方がよい。 ・まず患者がどういう世界に住んでいるか、そこでどういう生き方をしているかを探る。 3142 「精神療法の経験」成田善弘 ・強迫症者は内心、自己が優越者であるという尊大な自己像を持つが、この尊大な自己像は彼らが軽蔑する他者から認められることなしには保ち得ない。この自己評価の脆弱性を知っているからこそ、いっそう他者の上位に立とうとする。 ●尊大さの空想を宗教的思索や哲学的思索、小説などが満たすだろう。 ・治療者・患者関係もどちらが上位に立つかという闘争(綱引き合戦)になりやすい。 ・サリバン「精神医学の臨床研究」第十二章、強迫症。 ・強迫症の治療をしていると治療者は無能力感を感じる。この無能力感こそ、患者が常にさいなまれている感情である。 ・無力感の裏にはひそかな全能感がある。 ・患者は実に一所懸命なのだと気付けば、患者に意地悪したくなる気持ちから抜け出すことができる。 ・強迫症者は症状の非合理性に悩むというよりも、むしろ症状の圧倒的な拘束力に悩み、これに対抗しようとしているといった方がよい。 ・非合理性の洞察に乏しく、強迫が自我親和的である場合には、精神分裂病や脳器質疾患の可能性を検討しなくてはならない。 ・自己完結型強迫か、他者巻き込み型強迫か。子供の強迫神経症者はしばしば母親に強迫行為の一部をさせる。青年期ないし成人期の患者の患者でこの巻き込みが見られ、しかもそのことに対する自責感の乏しい場合には、患者のパーソナリティが境界パーソナリティの水準にあると考えた方がいい。しばしば治療困難で、経過中に行動化が生じる場合がある。 3143 他の古い薬と違って、この新しい薬は本当にいい薬だ。依存性もないし副作用もない。マイルドに効いて、とてもいい。 そう説明して、眠前に一粒だけお勧めする。 3144 クリニックで。 環境に配慮する。エコロジー、リサイクルなどがキーワード。 地球に優しいことが人間のこころに優しいことでもある。 収益をあげることだけではない、別の価値をも重視する。 価値の複線化。 グリーン・アン協会の発想は正しい。 効率第一主義というが、それは皮相な批判である。つまりはもっと金がほしいということで、そのためになら地球もダメにし、自分の健康も損なうということだ。 競争社会。これは他人に優越したいということで人間の本能である。否定はできない。しかしそれを相対化することは可能である。 3145 背骨の曲がった魚を食べる少年。 3146 障害児の母。 育て方がいけなかったのでしょうかと問う。 答えが難しい。育て方にはあまり関係がないといえば、つまりは子どもの素質の問題だということになる。どうしようもないとの含みが生まれる。 しかし育て方の問題だとも言えない。 3147 個人的な状況を伝えるための言葉は結局比喩でしかない。 状況は言葉の裏にあって、ダイレクトには把握することができない。必ず何らかの推定の手続きを要する。 明らかに比喩とわかる場合もあるし、そうでない場合もある。 「その心は?」といつも問われている。 言葉と真意との間だのすき間を埋める作業は、文化を共有することであり、共感することであり、人間的推定能力の問題でもある。 時にこのすき間のあり方が独自である人たちがいる。その場合には他者の共感を期待できなくなってしまう。 分裂病者たちはそのような困難を抱えている。 言葉と真意。サインと内容。 他人の声や目つきが何を意味しているかについて、独自の意味付けをしてしまう。そこに病理があるし、だからこそ人に理解してもらえない辛い状況が生まれる。 3148 「精神療法の経験」成田善弘 ・孤立、敵対、支配など、どのような対人関係が成立しているかを見きわめる。その敵対関係こそ、患者が不安に対処するために作り出さざるを得ない関係なのである。 ・不安にさせられる状況で、尊大な自己像を守り、自己コントロール保持の幻想を存続させようとする。 ●尊大な自己像を守る。自己コントロールができていると思い込む。それはつまり、状況を限定して、自分の能力の限界に直面化しないように慎重に生きるということだ。自己の幻想を守るために生き生きとした世界を失ってしまう。そのような世界に生きている。死んだ世界。不確定な要素は排除される。自分を不安にさせるものは排除する。 ・躾は、自然な感情、衝動、生命の発露を必要以上に抑制する。 ・衝動・感情とそれらをコントロールする知的な傾向との間の葛藤。 ●衝動をコントロールする力。そこに問題があると感じるとき、衝動が起こらないような生き方を選ぶ。自分に力が足りないと感じるとき、他人を巻き込む。 ●衝動をコントロールできない。それが強迫症の一面であろう。不合理でコントロール不可能な衝動に翻弄され、不愉快にさせられる。起こってしまえば制御できないから、起こらないように生活の場面を限定していく。起こらないようにおまじないをする。縁起を担ぐ。 ●コントロールする知的な傾向の過剰が拒食症である。 ・小さい頃は過剰な強迫傾向により、成績の良い、よい子でいることができる。しかしいつまでも上位でいることはできない。性衝動が発生したとき、異性をすべてコントロールすることはできない。ここで危機が発生する。強迫による性格防衛は破綻する。強迫神経症が発症する。 3149 「精神療法の経験」成田善弘 ・初診時。「よく決断してきましたね。専門家の援助を求めるのは弱さのしるしではなく、懸命さのしるしです」と肯定する。 ・彼らは信頼しうる人物に自分の訴えをよく聞いてもらい保証を与えられた経験が意外に少ない。 ●権威に否定されたら、立ち直りようがない。だからめったには話さない。 ・観念を無理に押さえつけようとしてもむだである。「青い空に白い雲が浮かぶように、心の一隅に浮かべたままにしておく」ように勧める。 ・患者自身の工夫を聞く。自分の工夫に治療者が敬意を払ってくれるという経験が患者にとって意味がある。 ・簡単な身体医学的診察がよい。身体にも関心を払っていることを患者に伝えたい。 ・初回面接の終わりに、「これは強迫神経症です。神経症の中ではなかなか難しいものですが、これがこうじて精神病になることはありません」と告げる。病気を軽く扱われることは好まないが、コントロールを喪失して、最悪の事態である狂気に陥ることを恐れている。そうしたことを配慮する。 ・予後については、神経症は原則として治る。ただしあなたが治るかどうかはやってみなければ分からない。現実状況やあなた自身の協力などいろいろな要因が関与する。 ・三ヶ月から数年まで、人によってさまざまである。しかし多くの場合、一、二年でかなり楽になります。 ・言葉で治癒を保証するのではなく、態度や雰囲気で患者に安心感を与える。治るだろうと思っていても、「やってみないと分からない」と言う。 3150 「精神療法の経験」成田善弘 ・見通しがつきにくい場合には、「もうすこし経過を見て、あなたのことがもっとよくわかってきてから意見を言います」と告げる。 ・他者巻き込み型強迫神経症者。善意の家族が患者の要求に応じていると、要求は際限なく拡大し、パートナーは患者の手足のごとく、奴隷のごとく、患者の不安解消に奉仕させられる。そうなるとパートナーの側にも怒りや恨みが生じる。患者はこれに反発し不安を高め、一層要求を拡大するという悪循環が生じる。 ・「不安の解消を他の人に手伝ってもらっていては、二人がかりで不安に対処していることになり、あなた自身の心が不安を抱え対処できるように大きくならなくて小さいままにとどまってしまう。一時的に苦しくても、不安を自分の心の中に入れておくように。そうすることでしだいに心が大きくなる。」 ・患者とパートナー双方にひとつのモデルを提供し、そこから抜け出すべき方向を示すことになる。どこまで手を貸すかについてパートナーが限界を設定できるように援助する。 ○強迫の背景に自信欠乏があるとして、他人を巻き込みたくなる事情も分かる気がする。不安解消の手段として、強迫もあり、他者巻き込みもある。 ・具体的に語らせる。 ・感情表現をうながす。 ・思考の全能があれば、自分の抱く敵意や攻撃性を恐れるのももっともである。 ○中学生の衝動。 ・実際の対人関係を検討した上で、「そういう状況ではあなたが敵意を抱いたとしても無理はない」と許容する。同時に、思考が現実になるわけではないことを保証する。 3151 心療内科の「心療」とは何ですか?  「心療」は「心理療法」の省略形です。「内科」は、お医者さんの代表だと考えて下さい。  心理的なことが原因で起こる心臓のドキドキがあったとします。心臓のドキドキは内科で治療します。その際に心理的配慮が特に必要な場合に心療内科に紹介されて、心理療法をおこないます。内科の病気を心理療法を加えて治療するので、心療内科と呼ぶわけです。  心理療法が効く病気は、内科の病気に限りません。たとえば頭痛、耳鳴り、めまいなどについて考えてみましょう。  頭痛があれば、神経内科や脳外科でいろいろな検査をします。血液検査、CTや脳波検査ですね。こうした検査で異常があればそれに沿った治療がはじまります。しかし原因が不明で、心理的配慮が必要と思われるとき、心療内科に紹介されます。  耳鳴りの場合、まず耳鼻科に行くでしょう。いろいろな検査をします。原因が不明で、心理的配慮が有効だと考えられる場合、心療内科に紹介されます。  めまいの場合には、一般内科や神経内科、時には耳鼻科に行くでしょう。いろいろな検査をします。貧血はどうかとか、メニエールではないかとか、鑑別診断をします。原因がはっきりしないで、心理的配慮が大切だと考えられる場合、心療内科が担当します。  小児科でチックがあるとか、アトピーに悩んでいるという場合でも、心理的配慮を重視して、心療内科で担当することがあります。  つまり、必ずしも「内科」の病気に限られるわけではないのです。耳鼻科でも、眼科でも、小児科でも、心理的方面の配慮が必要な場合に、心理療法の専門家としてかかわります。  われわれのクリニックは「心理療法クリニック」でもよかったのですが、薬物療法も大切な柱だと考えていますので、やはり心療内科としました。  医学的治療を分類すると、    (1)薬物療法    (2)手術    (3)心理療法(省略して心療)    (4)物理療法(省略して物療) などがあります。 内科では普通薬物療法が中心です。 外科では手術をします。 心療内科、精神科、神経科などでは心理療法をします。 物理療法という言葉は聞き慣れないと思いますが、温泉で暖めたり、パラフィン浴を使ったり、高周波などを用いたり、物理的手段で治療する場合を言います。慢性関節リュウマチなどに用いていました。  湘南心療内科では、心理療法が中心で、薬物療法を必要に応じて併用します。 3152 心理方面の診断というと、「性格が悪い」とか、「心理的に異常だ」とか診断されるのでしょうか?  心理的診断とは、 「どのような種類のストレスがどの程度かかっているか、その人の心はそうしたストレスに対してどのように反応しているか」、つまりストレス診断が中心になります。  どのようなストレスがつらいかは人によってさまざまです。たとえば、忙しいことは苦にならない人もいます。その逆に暇になると苦しくて仕方のない人もいます。また、大勢の人といるとつらく感じる人もいます。その逆に一人でいるとつらく感じる人もいます。つまりその人の性格によって、どのようなストレスが特につらいかが決まってくるのです。そういう意味で性格を把握します。性格がいいとか悪いとか診断するのではありません。  心理的に異常だと診断することもありません。私たちは「何が本人にとってつらいか」を問題にするだけです。私たちは裁判所でも警察でもないのですから、異常だとか狂っているとか判断して仕事がすむわけではないのです。本人がつらければ助けになりたいし、本人がつらくなければ、何もしません。  心理が異常かどうかではなくて、むしろあなたの置かれいてる環境がどの程度のストレスであるか、診断することが大切でしょう。 「こんなに大変な状況に置かれたならば、あなたでなくても誰でもうつ状態になりますよ」といった話が出るような場合が多いものです。  人は自分の状況がつらいほど、弱音を吐いたらいけないと思い続けていることが多いようです。重大なことほど、自分一人だけで悩み続ける傾向があるのです。  そんなときに、自分の置かれた状況を一度客観的に見つめなおしてみましょう。そのために面接をしましょう。 3153 心療内科、神経科、精神科の区別はどうなっているのでしょうか?  これらの科は、心理的症状と心理的治療を専門とするという点で、お互いに密接に関係しています。最近ではほとんど同じといってもよい現状があります。東大では神経科と心療内科の合同の研究会などがありました。  たとえばうつ状態、パニック障害や拒食症・過食症などは上のどの科でも治療しています。治療内容も大きな違いはないといってよいでしょう。現代医学の水準で妥当な治療を研究すれば、大きな違いはないものです。  大学の医局などでは、伝統的に精神分裂病は精神科、拒食症は心療内科、てんかんは神経内科、神経症なら神経科などとおおまかな区別があります。しかしながら、心理療法、薬物療法のいずれの面でも、共通部分が大きいと思います。  結局これらの科の区別は、大学医局の伝統に起因しているというだけで、患者の皆さんにはあまり関係ないといってよいと思います。 3154  身体の問題もそうですが、心の悩みも秘密が守られるという保証がなければ話す気にはなれないでしょう。 3155 心理の問題は複雑だと思います。そのときどきでずいぶんと違っていて、性格についてもものの感じ方についても、「自分はこれ」と決めることはできないと思います。内向的とか外向的とか。きれい好きとかずぼらとか。それなのにどちらですかと聞いて、診断したりするのは無理があるのではないでしょうか?  確かにそうです。あなたが家庭を持つサラリーマンだとして、会社で部下と対するあなた、上司と対するあなた、宴会でのあなた、家庭でのあなた、子供と遊園地で遊ぶあなた、中学の同窓会で懐かしがるあなた、それぞれ別だと思います。別だからこそ、面白いし、ストレス解消もできるのです。  たとえば病院の院長先生が、家に帰っても院長先生、子供に対しても院長先生、ゴルフをしていても院長先生、そんな調子ではやはりすこしストレスがたまるのではないでしょうか。  面接ではこうした全般についてお話ししていただき、あなたの性格構造や性格特性を把握していきます。どの程度の幅があるか、どんな場面でどんな自分を出すのかをチェックします。必要に応じて心理テストを用います。  状況に対して不適切な自分を出していたとすれば、自分の不適応状態を自覚するかもしれません。宴会なのに、会議の時のあなたのままでいたら、居心地が悪いでしょう。そんなときストレスを感じるわけです。  そのあたりからストレス把握ができるようになります。  また、性格は自分で把握できているものがすべてではありません。自分の無意識の傾向なども含めると、やはり心理テストも用いながら把握するのがよいでしょう。 3156 「精神療法の経験」成田善弘 ・治療者は患者の敵意や攻撃性にのみ眼を奪われる傾向がある。やさしさの感情の自覚と表出をうながすことが大切である。 ・強迫症者の疑惑、不決断、確認は、根深い自己不確実感に由来する。その背後には、自己に関する尊大な幻想が潜んでいる。 ・自己の誤りや欠陥を露呈させるかもしれない現実とのかかわりを避け、責任の伴う決断や実行を延期し回避することが、誇大的幻想を維持する最善の方法である。自信がないからやらないように見えて、実は何でも完全でないと気がすまないという尊大さのゆえに行動に踏み出せないのである。 ・治療者はそれを指摘し、「すこしずつ」「ためしに」「思い切って」やってみることをうながす。失敗の可能性は当然ある。失敗したら、まだ時期が早かったことが分かり、問題点が分かるのだから、「ためし」としては成功である。このように、現実に踏み出すことを援助する。 ・症状の量的評価 ・身体についての意識を目覚めさせる。 ・薬物をめぐる患者の気持ちを語らせ、それについて話し合うことは、精神療法の重要な一部である。 ・あくまで原因を追求する人もいる。不可知の領域に解答を求めたがる患者の構えそのものを問題にする。 ○強迫症者の問題は容易ではない。海道の一階にいた、右足のない患者さん。確認がしつこくて看護婦が振り回される。一言でいってどうしようもないという印象であった。野村先生も現状維持のままが方針のようだった。 3157 心の問題なのに薬を使うのはなぜですか? ・中核不安と周辺不安 ・周辺不安のせいで、不安が大きく見えている。周辺不安を取り除けば、正味の中核不安を見つめやすくなる。 3158 生活習慣病 ライフスタイルの検討……これをシステム化する 3159 心理療法のタイプ 過去や他人に責任をとらせる。アメリカの底流。 3160 自律訓練法。 脳の別の場所が働いている実感。 3161 走ることにたとえる。 ・うつ……休まないで走り続けて、肉離れを起こす。休んでいれば必ず治る。 ・MR……走るのが遅い。筋肉が少ない。 ・分裂病……スピード変化が苦手。アクセルとブレーキの使い方が下手。 3162 分裂病のリハビリをたとえる。 荷物を持ち上げるときに、下から持ち上げる手と、上から抑える手とのバランスが大切。 上から押さえる手は薬に相当する。 下から持ち上げる手は、リハビリに相当する。 薬が少なすぎると、上に突き抜けて、幻覚妄想状態に突入する。 薬を強くしていれば、幻覚妄想状態は起こらない。しかし活動レベルはあがらない。 タイミングよく、下からの力を少し強く、上からの手を少し弱く、そのようにしてだんだん荷物を上に上げる。 リハビリではなく薬剤で下から持ち上げようとする薬もある。しかしあまり有効ではない。 上からの手としたからの手の実体は、レセプターとドーパミンの相対的量として理解できる。 3163 「精神療法の経験」成田善弘 ・れっきとした身体病ならともかく、心身症はうさん臭い。 ○心理的に弱いという印象。たるんでいる。鍛えられていない。男らしくない。 ○弱いから病気になるのではないと知る必要がある。なにか印象的なたとえはないか?走らない人は肉離れも起こさない。スポーツマンだから故障を起こす。 ・その根底には、問題を自己のパーソナリティにかかわるものとして引き受けていくことへの抵抗がある。また、自己のライフスタイルを再検討することへの抵抗がある。 ○精神的なことに関しては人にあれこれ言われたくないものだろう。 ・心身症は価値が一段低い。昔のヒステリーのような。性格障害の診断のような。 ・精神科受診は内心抱いている狂気恐怖を引き出す。 ・治療者はまず、病気を広い意味での人生のストレスに対する反応であること、人間誰にでも起こりうる事態であること、身体症状、人生の出来事、感情体験をつき合わせて考えていくことを提案する。 ・出来事と身体症状発現の時間的関連は把握しておく。患者が語りやすい身体医学的病歴を聞きつつ、病気についての患者としての見通しやいままでの医師との関係を聞くことを通して、情緒的病歴を明らかにしていく。 ・治療者は面接場面で安全感を提供することに努める。 ・心身を別のものとしてとらえるのではなく、身体ににじみでてくる心をとらえる。 ○心の問題が体に「にじみでてくる」などという言い方。説得力があるのだろう。 3164 ナイフ、覚醒剤、売春(援助交際)、殺人。中学生の世界。 幼児の性的暴行が症状を引き起こした例。→新聞。 社会の病理としてとらえるか、個人の病理としてとらえるか。 3165 「精神療法の経験」成田善弘 ・症状は、ストレスに対する反応かもしれないと心身症の可能性を示唆する。休養と、心身両面からの検討を目的に治療開始を勧める。 ○外部原因説を呈示するわけだ。 ・人生の出来事、感情、症状の三者をつき合わせて考える。 ○ストレスと、心と、体の三者ということになるだろう。 ・「身体の出しているメッセージをすこし聞けるようになったの?」 ○これもうまい言い方。心と体が対話するイメージ。「対話」というキーワードがここでも生かせる。 ・プリミティブなパーソナリティ障害では、不安や葛藤を自覚的に体験するかわりに、問題行動の形で発散する。 ・多く患者は他者を巻き込む。 ・患者は自分の感情を他者に投影して、他者がその感情を抱いていると思い込んで、そういう他者に働きかける。たとえば、自分の中の怒りを相手に投影し、相手が怒っているのだと体験し、その怒っている(と患者が思う)相手をなだめたり、すかしたり、ときには怒ったりする。相手が患者の怒りを引き受けて、ある程度それをこころのなかで処理してくれれば、患者は今度はその相手と自分を同一視して、本来自分のものであった怒りをおさめようというわけである。 ○こういうことは確かにある。急に、「怒ってますよね」と断定され、ついで慰められたり、説教されたりする。されたほうはどうしようもなくて、ただ話を聞いている。 そんなとき、患者は怒りの処理を相手に任せているわけだ。 ・たとえば怒りの投影。はじめは投影に過ぎないが、しだいに患者の投影のとおりの人物に現実に変えられてしまう。 3166 「身体の出しているメッセージをすこし聞けるようになったの?」 これもうまい言い方。心と体が対話するイメージ。「対話」というキーワードがここでも生かせる。 3167 「精神療法の経験」成田善弘 ・本来自分の心の中での葛藤として体験しなければならないことを、他者との間で対人関係の問題として演じてしまう。 ○イントラサイキックとインターパーソナルの問題。 ○イントラサイキックな形で悩めることが、大人ということであり、エディプスを通過した人間である。それをインターパーソナルな形で悩むのは、未熟である。性格障害者は、人格の未成熟をこのような面でも見せている。 ○しかし一方で、そうでばかりもないと考える。日本では昔から、インターパーソナルな悩み方が文化としてあったのではないか?さらに現代の動向として、インターパーソナルな問題へとシフトしていて、治療としても集団精神療法的な観点が必要であると、わたし自身が論じたのだった。 ○それを発達段階の問題としてとらえるかどうかは、議論の余地があるのではないか? 3168 わたしみたいな悩みで心療内科でいいのか?精神科でいいのか?と悩むことがある。そのあたりをうまく説明してあげたい。どうするか? 3169 「精神療法の経験」成田善弘 ・一人で病気でいることができない。 ・患者を中心にした大きな渦ができている。中心にいる患者はむしろ静かに見え、まわりが大騒ぎしている。 ・プリミティブなパーソナリティ障害の場合、家族への治療的アプローチが大切。 ・家族の不安や罪責感の軽減 ・母親を責めない。 ・「本当に大変でしたね」と口に出してそれまでの苦労をねぎらう。専門家の援助を求めてきたのは懸命な判断であると評価する。 ・初回は家族と同席で面接。患者と家族が顔を見合わせるような位置に座ってもらう。 ・本人の前では話したくないという場合、「親として当然の心配については本人の前で話したほうがよい」と促す。 ・意見の対立がある場合には、事実認識とそれについての解釈とに区別し、意見の相違点を明確にする。 ・しばしば患者は自分の感情と母親の感情とを区別できない。患者と母親との境界を明確にする。 ・母親も自分の不安と患者の不安を区別できない。母親が不安になっても本人の不安は改善されないことを指摘する。 ・心理的境界を設定する。 ・本来配偶者に期待すべき役割を子供に期待したりする。世代間境界の侵犯。患者は彼自身として扱われていない。他人の影法師に過ぎない。親が投影をやめることを援助する。患者を彼自身として扱う。 3170 わたしみたいな症状で心療内科に行ってもいいでしょうか。それとも精神科か内科でしょうか。そのへんがよく分かりません。  気にせずにいらして下さい。あなたにぴったりの相談窓口はどこか、そこから相談しましょう。もしわたしたち湘南心療内科ではあまりお力になれないとしても、悩みの内容や交通の都合、これまでに相談した人、これまでに読んだ本、そうしたことを考慮して、どのようなところで相談したらよいかをお勧めします。また、身体的な病気の検査をまずお勧めすることもあります。  家族の誰かに関する相談もおいで下さい。ご本人が困っているが相談に行きたくないという場合もあります。ご本人よりもまわりの人が困っているという場合もあります。  たとえば、お子さんの不登校や引きこもり、ご主人のアルコール、ご家族のうつ状態、性格の不一致、老年期の物忘れなどが、家族相談として多いようです。 3171 「精神療法の経験」成田善弘 ・親自身の人生の充実。子離れが恐い親は、無自覚的に子供の依存性を助長する。(共依存)。この二者関係の中でパーソナリティの発達が停止している。そこに父親が介入できれば、三者関係が導入され患者の発達が促進される。 ・父と母が夫と妻としての対話を取り戻し、食事や音楽会に出かけられるように勧める。自分自身の人生を充実させること。 ・治療全体のリーダーシップをとる人を明確にし、情報がそこに集約されるようにする。 ・患者の一見異常に見える振る舞いも、何かを伝えようとするメッセージであるととらえてその意味を探ってみる。 ○「その意味を探る」これがフロイト以来の方法である。 ・分からないところは不思議がってみせる。 ○治療者としては解釈するよりも上等である。 ・患者が自分の感情を心の中に抱え込んで主観的に体験し、言葉にできるようになること。寂しさや悲しみをしみじみと訴えることができるようになること。両価的感情に耐えられるようになること。自己と他者について一方的でない全体的イメージを持てるようになること。自分でなしとげ自信を持てるようになること。これらが目標になる。 ○一方的というよりはむしろ一面的というべき。 ・解釈とは。患者が未だ自覚していないが、いま一歩で自覚に至りそうな感情を、治療者が患者に身を重ね合わせて言語化すること。理想的な場合には患者と治療者が共同で一つの文を完成するような感じ。「われわれはいま〜と感じている」といった気持ち。 ○共感に近い。それを言語化する。そうすれば解釈になる。理論の押しつけではない。ここが大切だ。 3172 「精神療法の経験」成田善弘 ・患者に「説明を与える」というよりも、わたしが自分の感情を正直に言葉にできたときに、面接が深まると同時に患者の自主性が育ってくる、つまり真の意味で治療的進展が生じるように思う。 ○治療者の感情は隠蔽する流儀もある。患者の感情が映し出されればそれでよい。しかし治療者が鏡になりきることはそもそもできないだろう。鏡になったとしても、個人に特有のでこぼこが常にある。それは避けられないだろう。 治療者の語る感情は、治療者の感情でもあり、患者の感情でもあり、さらにいえば、そのどちらでもなく、二人に共有される空間に発生する感情である。その感情ならば語ることができる。 その時患者は言語化の学習をする。 患者の言語化能力を育てることが治療に役立つのはなぜだろう。本当に役立つのだろうか? →言語化できるということは、主体的に操作可能なものとするということだ。自分は主体となり、感情は客体となる。それは操作可能である。 それが本質的な成長である。 ・現在の言動を過去からの持ち越しとして眺めるという見解は、説明された人の内部に、ひどい自尊心の傷つきを引き起こすものである。(神田橋) ○そういう面もあるか。他方では、それが患者の気持ちを軽くする面もある。免罪。 あなたの内部に責任があるのではない。→免責。 あなたは外部の原因に翻弄されている。→自尊心の傷つき。 人によって違うだろう。 3173 縦の糸はあなた 横の糸はわたし 織りなす布はいつか誰かを暖めうるかもしれない (中島みゆきのうた) あなたの人生は一本の糸となってわたしの前にある わたしの人生も一本の糸となってわたしの前にある 二つの人生が出会う 傷つけあうかもしれず 慰めあうかもしれず しかしただ一本の糸の弱いこと 3174 「精神療法の経験」成田善弘 ・患者は観察され、分析され、規定されているだけで、治療者という一個の人間と出会えていない。そういうところでは人間が本当に揺り動かされるということは少ない。 ○なるほど。これが「対話的関係」である。昔ならば「実存的出会い」とでもいったもの。 診断のためには観察的関係でいいかもしれない。しかし治療のためには対話的関係が必要である。 ○しかし一方、あまりにロマン主義的ともいえる。もっとクールな感覚も大切だ。 ・患者が「先生から一生離れられないような気がしていた。縛り付けられているみたいだった」と語る。 ○過度に依存的、退行的になる。それが治療としてよいことかどうか、考える必要がある。 ・治療者が自分の気持ちを正直に言葉にできたとき、それが患者の感情とも重なって、共感の表明ともなる。「面接者が感じている不快な感情は、実は来談者が内心深く感じているものの反映であると考えられる節がある」(土居) ○これは役に立つ指摘である。深く考えてみる価値がある。憤りにまかせて相手を断罪するのではなく、クールに、このような可能性も考慮する。 この不快感の源泉は何か? ・代理内省(コフート)について。 単なる患者との同一化ではない。治療者自身の心の深いところのどこかに、患者の気持ちと同じような感情を持ったことを探り当てる。だから患者の気持ちが分かる。治療者の中にすでに存在していて、患者によって引き起こされるまで脇に除かれていたものに対して、不安を持たずに向かい合い、認知し、言葉にする。あらためて発見する。 3175 強迫型の人は他人にも完璧を要求する。また、他人を支配しようともする。また、自分の不安の解消を他人を動かすことで達成しようともする。 結局、嫌われて孤立する。 3176 「精神療法の経験」成田善弘 ・精神療法の要諦は、治療者が自分の心の深みをどれだけ見つめられるかにある。時には本来患者がおこなう仕事(たとえば葛藤を体験すること)を治療者が自分自身の中でおこなうこともある。 ○そのように共有化がやはり有効だろう。しかしそれは巻き込まれとは根本的に異なる。 何となく、治療者は心の全部で悩んでしまってはいけないと感じる。たとえば、メモリーの一部を作業領域として確保しておいて、自分の生活とは関係のない感情の作業をそこでおこなうことができる。そのように、ワーキングメモリーをたくさん持っている人が治療者として適している。 メモリーのたとえが分かりにくければ、まな板でもいい。自分の家で食べる分の料理は、まな板の一部で作る。それでもまだかなりあまりの部分があって、そこで患者の家の分まで料理することができる。そのくらい広いまな板が必要だ。狭いまな板だと、お互いの料理がごちゃ混ぜになってしまう。 ・患者の言動によって自分がどう変えられるかを見つめる。変えられることに抵抗しつつ、自分の心の中にどのような連想が浮かんでくるかに聞き入る。そのさまざまな連想の底を共通して流れる感情を見つめる。そしてその感情を、ちょうど患者の話の内容が面接場面で実演されるようになるタイミングで、気持ちとしてはわたし(ないしわれわれ)を主語として、実際にはなるべく主語を省いて表明する。 ○なるほどな。すぐに反応しないで、自分はこの人を前にして、どのようなことを感じるだろうかと問いつつ、面接を続けるわけだ。「あなたと話しているとわたしは……のような感じがわきあがってきます。」「そんなときには、わたしだったら……のように感じるのではないでしょうか」など。それが患者の感情明細化のきっかけになる。 3177 「精神療法の経験」成田善弘 ・治療者がその役割の中に留まっていれば、患者は治療者という役割を相手にしているだけで、一人の人格と真に出会っているとは言えない。患者も患者の役割を越えて真に成長することができにくい。 ○「一人の人格と真に出会う」とは、言葉はきれいだが、難しいことだろう。実際何を意味するのか。 強迫について ・フロイトと狼男。「世の中に受け入れられない者同士として、共感すら分かち合って、いるように見える」(小此木) ・強迫症者に対しては、「立ち向かう」という言葉がなぜかぴったりくるように感じる。 ・患者は治療者によって理想を挫かれ、妥協を強いられ、凡庸を強制される。 ・治療者と患者の間にパワーゲームが生じる。 ・患者は援助を求めているはずなのに、援助の与え手たるべき治療者を、(理想化するどころか)無力化しようとする。そうせざるを得ないところに強迫症者の悲劇があると頭では分かっていても、患者が悪意を持っているように感じられて、イライラしてくる。ついこちらも残酷な言葉を吐きたくなる。つまり患者の中にある(であろう)悪意が治療者の中に移し植えられたようになってくる。 ○こうしたある種の「伝染」に、どのように対処するかが問題である。 ・「強迫をみていると、意地悪がうつる」(中井)確かに、強迫症者は、意地悪でやさしさが欠けているように感じられる。 ・せっかく説明したことが、患者には何の意味もなかったのかと思い知らされることがある。 ○この感覚にどう耐えていくか。結局、無駄なことをしているのだとの大前提が役に立つのではないか。宇宙の歴史の中で全く無駄で無意味なことだ。 3178 予約制について ・待てない人……待てないことが心理的な余裕のなさを示している。 ・なぜ心理的な相談が15分で終わると考えるのか、それが不思議だ。床屋や歯医者とは違うだろう。あるいは、機械的に15分で終わることが良いことだと思っているのだろうか? ・自分の大事なことについて、なぜ充分に時間がとれないか。片手間に済ますことではないはずだ。物事の重みの付け方が間違っている。 3179 薬か、カウンセリングか、両方か。 薬の調整を相談したい人と、薬を使わずにカウンセリングを希望する人とを両極端として、その中間に薬とカウンセリングの両方を使いたい人と、いろいろな人がいるわけです。 ・薬は使いたくない、カウンセリングで何とかしたい。表面的な症状の話だけではなく、その背景にあるいろいろな問題から整理して考えていきたい。 ・心の中を話すのは嫌だ。聞かれたくもない。治してほしい症状を話すから、薬の調整だけ相談に乗ってほしい。 ・薬の調整をする場合にも、性格傾向の把握や心理テストの結果が参考になる。 ・鼻水があるからこの薬、熱があるからこの薬、というようなものではない。 ・漢方薬の場合には、同じ症状でも、その人の体質を考えて、別の薬を選んだりする。それと似ていて、表面的な症状の奥にある症状の構造、性格の構造を参考にして薬物の選択をしている。そのためにはやや時間をかけたカウンセリングが必要になる。うつだから抗うつ剤、というような選択とは違う。 3180 いまこころをこめているか 患者さんの立場に立つことができるか いま自分の人生を輝かせているか 3181 日々積み重ねてゆくこと それがわたしの人生だ 一部分にだけスポットライトを当てて、これがわたしの人生だということはない。 すべての一日がわたしの人生である。 やりきれなさもどうしようもなさも後悔もある。 3182 「精神療法の経験」成田善弘 ・強迫症者のサボテン構造。外側は棘がいっぱいでその外皮はなかなかに硬い。中味は脆弱でグシャグシャである。これは強迫症者の家族構造にも共通している。 ・「強迫症者の父親には自営業が多い。彼らは社会的独立に価値を置き、世間を競争相手ないし敵とみなしながら、その世間をして自分をひとかどと認めさせようと奮闘している。父親のこういう構えが、家族の外枠を形成し、母親も患者も世間に対しては父親のこういう構えに従っている。しかし家庭内では父親は細やかなかかわりに乏しく、支配的な母親が、患者が親の望みを満たす限りにおいては過保護に接し、万能感を育んでいる。が、これも患者の自己評価の安定につながるものではない。両親の望む一流路線を一歩はずれれば、患者も家族もたちまち人並み以下とみなされてしまう。家族全体が世間に向けて硬い防壁を作っているが、中味は傷つきやすく脆弱なのだ」 ・強迫症者の父親には専門職が多い。 ・妄想患者の家族としての「要塞家族」に似ている。 ・外側に棘のついた硬い外皮をつけて優しいふれあいを拒みながら、荒涼とした世界に一人立っているサボテン。 ・その中核は分裂気質としてまとめることができる。 ○個人の病理から始まるが、家族の病理にまで拡大している。さらには社会集団の病理にまで拡大するだろう。たとえば近代日本の性格。 ○強迫症は、周りの人を巻き込む病理である。特に一家の中心人物が強迫症者である場合、長い時間の間には家族が知らずに巻き込まれてしまっている。水からゆでられるカエルのたとえに似ている。ときに客観的な眼で自分を点検する機会が必要である。 ○母親と息子が強迫系である場合が症例としてある。 3183 「精神療法の経験」成田善弘 ・やさしさも触れ合いもない、競争と弱肉強食原理の支配する荒涼とした世界。その中で孤独で無力な自己。こういう患者の内的世界が治療者の前にひらかれてくる。治療者がこの患者に共感しうるとき、治療者は患者の強迫的防衛の内側に入り込み、患者の眼で世界を見る。 ・「それができたとき、患者も治療者の眼で世界を見ている。治療者と患者は一体となる。治療者の言葉は外から患者に与えられる解釈ではなくなり、治療者は患者の内側から語る。こういう一体感を通じて患者の深い非安全感は和らげられ、世界を新しく見直すことが可能となる。世界は今や競争と弱肉強食原理の支配するところではなく、協力と助け合いも可能なところとなる。とげとげしく互いに防衛しあわなければならないところではなく、優しくふれあうこともできるところとなる。こういう体験が持てると難治の硬い強迫症がやわらかく溶けてゆくことがある。」そしてこういうことができるときには、何か女性的なるものが治療者を導いてくれているように思える。 ○ロマンたっぷりの成田節。 ○対話的関係の論に使える。 ○ピラミッド社会で、順位の確認のためだけに他者との交流がある、そのような対人関係のあり方は間違っている。 ・境界例をみると、治療者は自分が失ったもの、あるいは適応のためにたわめてきたものが、いま患者の中にあるという気がする。 ・ボーダーラインは精神療法家になりたがるという意見もある。 ・境界例の生育史。人間の宿命が現れている。ギリシャ悲劇を読むようである。最近の青年は神話を信じることができなくなったので、かわりに実演する。母親殺しや近親相姦。 3184 現代人はケチなのではない。良いものならば是非ほしいと思う。そのような良いものがない。だから購買意欲がわかない。 3185 変化に対応する力。 これは強迫性の系統とは別の能力である。 前頭前野の能力だろう。 老化の場合、分裂病の場合に、これが失われる。 3186 人間関係能力の低下。 現代人の一つの特徴ではないか? 理由はわからない。生育の過程で、遊びが対人関係の遊びでなくなってきている。 遊びながら対人関係を身につけなくて、どこで身につけるのだろうか? 3187 一回叩いたら止まらなくなった。可愛いのについぶってしまう。 3188 診断プログラムを提示し、患者に納得してもらう。 しかし早く治療を始めてほしい人もいる。 診断はついていて、薬または自律訓練法が必要な人もいる。 臨機応変にする必要がある。しかし、一部の人には、診断プログラムとして、四回くらいに分けて、心理テストと生育歴、家族歴、現病歴などを聴取して、最後に診断や問題点、治療計画などを話す機会を設ける。 この程度に構造化された面接をしたい。 3189 精神科医の専門性。 これを目に見える形で示す。たとえば脳波の読解。 心理解釈にしても、良く納得できる形で、さすが「専門家!」といわれる程度に。 活字で証拠を示す。権威に頼る。 情報量の差を見せつける。 道具の違いを見せつける。 3190 それは「心の肩こり」でしょう。 3191 「精神療法の経験」成田善弘 ・境界例。治療者に、自分は人間の深層にかかわっている、あるいは神話的世界に参入している、そういう深達力を感じさせてくれる。 ・そのうちに患者が何となく悲劇の英雄のような感じがしてくる。ヒーローまたはヒロインは運命に弄ばれる寄る辺ない存在である。それでいまわたしのところに助けを求めて来た。そういう感じがする。 ○確かに、最初から、「いやな奴」という印象ではない人がいる。 ・アメリカのレジデントの人たちが、救済妄想をを起こして境界例を製造する(丸田俊彦)。日本の治療者に特にその傾向があるのではないか。 ○この感覚はやはり大切である。笠原は、「15分以上話を聞くから境界例になるのだ」と語っていた。 ・境界例の特徴。治療者に、深みにかかわりうるという自己愛の満足を与えてくれると同時に、患者にとって大した存在ではないという空しさを抱かせる。 ・治療者のナルシシズムは大いにくすぐられると同時に、フラストレイトされる。治療初期にはナルシシズムが助長される。 ・プレコックスゲフュールでは、治療者が患者に接近しようとしても応じてくれないので、ナルシシズムが大いに傷つく。 ・二者関係への埋没。いままで誰も患者のこうした気持ちを分かってやらなかったのだと気がする。周囲の人たちが何となく無理解で冷たい人間のように思えてくる。 ○斎藤先生の時がこれに当たるだろうか?しかし実際に冷たくて官僚的で自己防衛的な人たちであったように思うのだが。 ・こういう他者排除的な二者関係が、境界例患者のもっとも得意とするところである。「患者のことを分かってやれるのは自分だけだ」となる。 ○説得力あり。 3192 「精神療法の経験」成田善弘 ・境界例。一人ではいられない病気。必ずパートナーを見つけだして、そのパートナーとの間で病理を開花させる。 ・分裂病者は一人で病気になっているが、境界例は二人がかりで病気になる。 ・一対一で面接をするということは、二人で病気になるのが得意な境界例に対して、そのパートナーたるべく立候補するということである。病理の花開く培地を提供していることにもなる。 ○なるほど。そのためにも、治療者もチームで、患者の側は家族も参加する形で、とするのが望ましいだろうと思う。「二者関係への埋没」を回避する通路を保っておく。 ・古典的な神経症は、外側に防衛の皮が張っており、これをだんだん剥がしていくと、真ん中に病理の芯がある。一方、境界例はやくざの背広である。それほど派手ではない表に、派手な病理の裏地がついていて、それががらりとひっくり返って見える。 ・助けてあげたいなと思って、助けてあげる人であった治療者がいつの間にか患者の手足のごとく、奴隷のように扱われる。それを拒否すると、患者は一転して、強大な迫害者に対するごとく恐れたり攻撃してきたりする。 ・治療者は「こんなはずではなかったのに」と思う。 ○どうするかといってもどうしようもないではないか。治療者も人間なのだから。毒ガスには参る。 ・境界例は治療者の陰性感情を発見することにかけては、大変鋭い、気味の悪いほどの能力を持っている。 ・しばしばコンテクストを抜きにして発言を引用してくる。 ・体験の融合性の過剰。現在の自分の体験と過去の体験とが融合する。たとえば過去の見捨てられと現在の診察室での見捨てられとが融合する。 3193 「精神療法の経験」成田善弘 ・濡れ衣感情。(北田穣之介)濡れ衣を着せられる感情が起こるときは相手はボーダーラインである。 ・治療者は、自分は無力であるということを、自分の心の中に入れて耐えることが大変困難である。治療者として役に立っていることを自分にも周囲にも示したい。無力感を内界に保持できないとき、患者を攻撃して見捨てたくなったりする。「悪いのはやはりお前だ。お前のような人間はみんなに見捨てられて当然だ」 ・相手ががらっと変わって、裏が出て、よい顔が剥がれて恐ろしい素顔が露になるのではないかと不安に思っている。他の人が善意を向けてくれていても、その背後には必ずや代償の要求がある。自分の秘密とか性とかあるいは主体性とか、そういうものを奪われるのではないか。そういう恐れを持って生きている。だから非常に恐ろしい世界に住んでいる。 ・治療という仕事の責任を患者と分担するという姿勢が大切。 ・治療者が、治療は全部自分がやるのだと思っていないか? ・ちょっと矛盾しているところを不思議がるようにする。「そこ、どうなっているの?」という感じで聞く。 ・「治療者の介入は、患者のする心の仕事を少し増やすように働くものがいい」(神田橋) ・治療者が何か言うと、患者が恐れ入ってしまって、もう何もしなくてもすむというのはまずい。 ・不思議がるのがとても大切。 ○そのようにして患者を主体的に悩ませる。治療に向かわせる。 ・全部分かってしまわないで、不思議がる。どういうところを不思議がるかで、その人の人間観、治療観が出る。 3194 「精神療法の経験」成田善弘 ・原則。分離個体化を達成した大人であれば、つまり成熟した大人であれば、かくも振る舞うであろうようには患者は振る舞わないところを不思議がる。 ・日本人が自立というと概ねは孤立である。 ・治療者と語っているのではなく、自分自身と対話しているように。 ・不思議がるときにも、患者に観察自我があるとすれば、こういうふうに不思議がるであろうというように不思議がる。 ○なるほど。治療者と語るのではなく、観察自我と語る。自分自身と対話する。そのような感じが出ればとてもよい。それが面接である。 ・境界例。一人で抱え込まない。できるだけ大勢で抱える。 ・治療者の内部に、第三者の目を次第に内在化させる。 ・困ったときは正直に言う。分からないときは患者に聞く。 ・それまで患者の問題行動として見えていたものが、患者なりに自分の無力感に対処しようとする努力だと見えてくる。 ・境界例の患者が、どうしてよいか分からない、どうすることもできないといっているときは、すぐには口に出さなくても、頭の中で、「それで、あなたはどうするつもりですか」と思いながらあうことにした。 ・問題行動はもともとは適応的行動であったことがほとんどである。 ・患者の状況や運命を話されても、どうしていいか分からない、どうすることもできないという気持ちになる。それは患者が人生の中でずっと持っていた気持ちと同じである。二人がかりで無力感に陥るということになる。 ・まず共感的に。そして不思議がる。それから「どうするつもり名の?」と続く。 3195 「精神療法の経験」成田善弘 ・「いまあなたに起こっていることは神経症で、治療の対象となります。これはあなたが醜い人間だから起こっているのではなく、あなたがまるで神さまのように完全に良心的にやろうとしすぎるために休むことができず、人間であるあなたが困ってしまって病気という形で休息を要求しているのです。人間には休息が必要なのだから、自分を責めて頑張るようなことはしないでゆっくり休んでいればよい。今後の面接でどうしてこうなったかもっと詳しく検討したいし、必要に応じて検査もしましょう。」 ・「今後も状況により波が来るであろう。しかしそれは自分についてもう一歩深く考えるよい機会だから、すぐに受診するように」 ・初診時に神経症といわれてほっとした。こんなにも苦しいのに「何でもない」と言われてしまい自分ではどうしようもできず困っていた。 ・「べき」でなく「……したい」と自然に思えるようになった。 ・無理に発作を止めようとせず、ゆったりした気持ちで発作を見届けるつもりで。 ・患者に起こっている事態は病気であると告げる。それは(素人である)患者の手に余る。患者に責任はない。同情、世話、治療の対象となる。 ・病気でないと言われて安心して軽快するような例は神経症というより一過性の反応とみたほうがよい。神経症者は病気と認めてもらいたがる(土居)。 ・病院では「病気」と告げることが、医師が患者の問題に関心を払い重視していることの証になる。 ・わけも分からず苦しいよりは神経症と分かったほうがよい。 ・病名が分かるということは、治療者が事態を把握している、知識があり、対処法もあるという安心感を抱く。 3196 「精神療法の経験」成田善弘 ・強迫症や拒食症の場合には、自分の独自性が認められないとがっかりする。この人たちは病気でしか自己の独自性を示し得ない、それほどに重い障害をこうむっているといえる。 ・相当苦しいが、死や狂気のような、本当に悪いものではない。 ・説明原理を提供する。それなりにわけがあり、起こりうることで、広い人間的な観点からはある意味で当然のことだと告げる。 ○説明モデルを提供することが大切。それが納得である。 ・患者自身、世間、家族がどのような説明原理を採用しているか、把握すること。 1体のせい 2生まれつきのもの 3たたりやつきもの 4環境、ストレス。 5自作自演、甘え。 ・世間のありきたりの説明とは少し異なるものを呈示する。ありきたりならすでに解決しているはずである。 ・いまの事態をしばらくそのまま起こるに任せておくように伝える。症状を肯定し時にはそれを奨励することはさまざまな精神療法に共通して認められる。 ・「自分ではどうしようもない」患者の現状を、治療者の指示に従い、起こっても当然のことを起こさせておくことができるという形で再概念化して、患者に自分はやれるという感じを抱かせる。 ・否定的特性から肯定的特性へ、原因の評価を変更する。たとえば「なまけ」から、「完全癖」に。「怠け」ではなく「医師の指示に従って人間に必要な休養をとっている」ことにする。 3197 「精神療法の経験」成田善弘 ・患者が変わるのは、自分は変わらなくてもよいのだと感じたときである。現状に肯定的な評価をつけられる。その状態を起こさせておくことができるということで自信をつける。その自信がついたとき、患者は変わる。変化しなくてもいいのだという安心感を与える。 ・予後を一般的に述べる。しかし、患者の治療への協力が予後に影響を与え得ると示唆する。→事態の改善に関して自ら寄与することができることを告げる。 ・さしあたっては症状を続け、面接には来ることが責任を果たすことであると告げる。 ・これまでのことについては責任を免除する。これからのことについては責任を付与する。 ・患者に自分の状態を評価してもらう。患者が何をもって自分の問題点とみなしているかが分かる。何を改善の指標としているかが分かる。 ○患者は無力感に囚われている。自分のために自分は何ができるのか、それを呈示するだけで大きな違いがある。 ・危険のあるところに救いがある。→危機に際しては潜在能力が動員される。新しい対応方法を見いだそうとする欲求が高まる。従って、救いのチャンスである。 ・当面の状態像。問題点。直接前駆する誘発的出来事。現在の生活全般を把握。 ・現在の不適応は、過去の似たような状況への患者なりの適応の試みに由来していることが多い。たとえば見捨てられを回避するために深い関係を回避し、結果として見捨てられてしまう。こうした観点から生活史を聞く。現在の状態と過去の体験および反応との共通項の発見に努める。 3198 「精神療法の経験」成田善弘 ・患者が語らない部分、省略する部分、に目を向け、そこに患者の注意を促す。 ・距離をとった醒めた眼。危機にあって混乱している患者に、治療者の醒めた眼がしだいに取り入れられることが望ましい。 ・いかなる苦痛も一時的と分かっていれば耐えやすい。 ・説明は、知性化を促すことである。 ・感情に駆られてどんどん話す人には、「話してすっきりするか、あるいはますます混乱するか」と訊ねる。「混乱してくるようなら一度に話さないほうがよい」と告げる。患者のコントロールの感覚を養成する。 ・当面の問題を同定し明確化する。中心葛藤を限局化する。 ・転移を明らかにする。過去の重要人物に対する態度との共通点。 ・転移を解釈することは深層切開である。止血が必要である。それは支持で、広く人間に存在するもので、現実的に対処することが可能であることを伝える。 ・患者が精神科医に不要な依存関係を持たないように留意する。 ・病者のなかの自然治癒力ともいうべきものを信じている。 ・自分を見つめる力。乗り越えていく力。 ・そう信じ続けることが精神療法家の大事な能力である。 ・他者を信じるとき、人は心の中を打ち明けられるようらなる。打ち明けることは、包み隠さず話して、中に入っているものを空にすることである。 ・信じて打ち明ける人は心の重荷を軽くする。信じられ打ち明けられる人はその分重荷を分担しなければならない。信じることは人間が人間に贈りうる最高の贈り物であるが、この贈り物を受け取るにはそれにふさわしい力量と人格が求められる。 3199 心の問題なのになぜ薬を使うのですか? 周辺不安の縮小。 中核不安に立ち向かう勇気。 3200 診断と治療の標準プログラムを作る ・うつ……A ・パニック……B ・原因不明の心身不調状態……C 1)初診 現在症 現病歴 →この時点で、ABCのどのセットで行くか、あるいは即投薬にはいるか、を決定。 2)診断面接として3,4回程度。ABCセットを作っておく。 うつの状態像シート……SDSの変型版 パニック関係の状態像シート……SDSも含める 特定できない心身不調状態シート……CMIからはじめる。 Tegは全例に施行。 風景構成法。 SCT。 既往歴 家族歴 生育歴  教育、職業、結婚 性格傾向  自覚項目、趣味、家族からの評価など。 身体診察 3)診断と治療の説明に一回。どのような希望があるか、尋ねて決定する。自律訓練法などを用いるかどうか。 3201 初診後、診断・治療の計画を呈示する。 どんなメニューがあるか、説明する。お勧めはどれで、希望に従って、どれを選択できるか、呈示する。 こちらは毎日の仕事であるが、患者はシステムも何も分からないのだ。まずそのあたりから説明が必要である。 3202 「薬でストレスがなくなるわけではない。ただ感じなくしているだけだ。」こういう感想は少なくない。 ストレス状態の時は、困難が実際以上に大きく見えている。薬は、困難を実際の大きさにまで縮小する。 薬は現実を変えることはない。しかし心の仕組みによって生じている過剰な不安には効果がある。 依存の問題。 新しいタイプの抗不安薬に注目。 効き目はやや弱いが依存性がない。いつでもやめられる。 古いタイプの抗不安薬は、効き目は強いが使い方をうまくしないと依存性が問題になる。どんどん量が増えてしまう。 薬づけの問題。 期間を区切ったらどうでしょうか? 実際には症状が変化していくことがある。 依存のせいで薬が中止できないのではなく、症状がなくならないから薬を中止することができないのである。病気が治っていないのである。しかし病人はそう考えたくはない。 一般に、他人のせいにしたがる。 3203 ストレス病という観点。 現代では嫌なこともしなくてはならない。 闘争と逃走では解決できないストレスにさらされている。それは慢性で持続性である。 3204 茅ヶ崎や湘南の風物、今を取り入れる。新聞種のようなものもとり入れる。身近な読み物といった雰囲気を演出する。 3205 漢方薬への関心の高さを利用する。 当院でも積極的に用いる。 効果は人によりさまざま。マイルドである。副作用も注意しながら使う。 症状とともに、体質や性格の構造を加味して処方を決める。 3206 ○それにしても、ストレス診断はできるのか?どのようにして可能か? 3207 痴呆に対するアートセラピーをテレビで紹介。過度の単純化。断定口調。 右脳活性化。アートセラピーで3〜6ヶ月で効果が現れる。 母親が抱っこをして歌を歌って、物語を語ってくれた人は大丈夫。そうでない人は、痴呆になる危険がある。つまりはライフスタイルの問題である。 など。 ○アートセラピーの効果というよりは、一緒にいろいろやっているうちに「孤独なバナナ」から脱却できるということであろう。 ○ライフスタイルの問題。これを精神科的に包括的に論じることができる。 子供時代‥‥ 心の教育のためのライフスタイル。イライラは何に原因があるか。子供時代に学ぶべきものは何か。 青年時代‥‥ 友との出会い、異性との出会い、自分らしいライフスタイルとの出会い、仕事・生き甲斐との出会い。 壮年時代‥‥ 生活習慣病。うつを防ぐライフスタイル。 老年期‥‥ 痴呆の発生を防ぐライフスタイル 3208 子どもを抱きしめてあげる。 近頃の子供の変調に対して、こんなことが言われる。 3209 心を開くかどうか。 しかし一方で、踏み込みすぎの危険がある。 3210 風景構成法を忘れないこと。 3211 家族会の効果あり。 3212 ただ鎮静する、何も感じなくする、眠らせる、そうした系統ではない薬で調整する。 なぜ、何の目的で、薬を使うのか。いつまで使うのか。(いつまで、が重要である。) 3213 うつの理由。 頑張りすぎる癖があることが原因です。頑張りすぎた後は筋肉でも痛みが残り、しばらく動けない状態になります。神経も同じです。心も同様です。 頑張る人はすべてうつになるわけではありません。頑張ってもうつにならない人がいます。何が違うのでしょうか? 頑張ったときに、「頑張りすぎです、休んで下さい」と体から信号が出ます。その信号をうまくキャッチできる人と、できない人がいるのではないでしょうか。 「休んで下さい」という信号を無視して頑張ると、一時的には仕事がはかどるのですが、一年とか二年とか、長い目で見た場合にはかえって不利になります。 3214 分裂病と補聴器 たとえていえば補聴器である。 分裂病者の場合、補聴器のボリュームが大きすぎる。敏感すぎて、普通の物音が大きく響きすぎる。 響きすぎるから、静かな場所を求めて、部屋に閉じこもる。すこしの声も大きく響く。 ここからEEの話も出てくる。 分裂病者の場合、声の大きさではなく、感情の大きさである。あまりに感情的になって怒ったりすると被害的になってしまう。普通の人よりも「他人の感情を受け取る感度」が敏感すぎる。 そこで対策は、感度を下げること、それが薬である。もう一つは感情にさらされることを防ぐこと。 しかし補聴器の感度が良すぎるからといって、音のない部屋にずっといると、ますます音に敏感になってしまう。そこで、デイケアで段階的に適切な刺激にさらす。 3215 太ることについて 生活習慣病の場合に、ただ体重を減らしなさい、運動をしなさい、塩分を控えなさい、などなど、決められたとおりのことを医者が患者に伝えて、それですむものではありません。結局は人生の価値の選択の問題です。 好きなこともできないで人生を長く生きて、それで幸せか。つまり生活の質の問題です。 3216 デイケアのことを考える。 大変だな。外来だけで済むならそれでもいいなと思う。 もともと集団性のない人たちである。他人とのつき合い方を知らない人たちである。拒絶もできない人たちである。 その人たちを集団として構成することはよいことか、疑問がある。 ノーマルな保護的な集団があれば、それが一番よい。 3217 学校で息を抜ける場所。保健室。 社会の中で息を抜ける場所。心療内科。 このようなとらえ方がよいのではないか。 あなたの町の保健室、心療内科。 3218 いつまで通院すればいいのか。治らないのにずっと通院させられるのか。そのあたりを説明する。 見通しを呈示する。その見通しが、患者を楽にする。得体の知れない事態ではないのだと納得できる。科学的説明の範囲内の事態なのだと思えば、落ち着くことができる。 3219 東大の卒業生は優秀か? 問題がある。 税金で飲み食いして、国家権力を楯にして権力を振るう。そのような人生を望む人たちが「優秀」とはとても思えない。 人生というものへのビジョンが欠落している。何がよい人生であるか、その問題意識が欠落している。 人生の価値に関しての成熟した見解。 3220 アロマテラピーについて ・すべてがこれで解決するわけではない。 ・しかし薬の量を減らすことはできる。 ・たとえばうつの場合に柑橘系のアロマを使うと、抗うつ剤の量が減らせる。 ・不眠の環境調整として、ラベンダーの香りを使ったりする。 3221 意識を「洞窟を懐中電灯を持って歩く人」にたとえる。 ・スポットライトをあてるが、いつも同じところにあたってしまう。これが神経症。 ・自律訓練法には二つの意義がある。 1)いつも同じところに当たっている光を別のところを照らすようにスポットの場所を変える。注意の焦点の変更作用。 2)スポットライトではなく、全体を照らす光を手に入れる。注意の広範化作用。 3222 解離と「ウーのこと思っていました」 ・日常生活にあるマイルドな解離をとらえる。 3223 三匹の子豚。わたしの保育園の時の黄色い鞄である。そしてそれを選んでくれた人はもういない。 そのことをもう誰も知らない。 それはわたしのこころの中だけに実在している。 なかったことにされても、結局誰も知らないし、歴史にどのようにとどめられているわけでもない。 神様の日記帳があるわけではない。 しかしそれでもわたしの心の中にはある。普段は忘れているけれど、こころのどこかに刻まれている。 人の歴史は無に帰る。ただ人の心の中に生き続ける。 人の心に灯りを伝えたい。それが生きることである。 ろうそくの火が、他のろうそくを灯すように、そのように伝えられる何かがある。 それが人の温かさだ。 3224 非常に苦しい人生になったとき、夫婦で助け合うか、あるいは夫婦で苦しめ合うか。 苦しめ合う場合にも、不満のはけ口として役立っているわけだから、ある意味では支え合っているはずである。それも支え合いの一つの形である。 苦しめ合っても、逃げ出さないことが結局、夫婦の証である。 しかしどちらかといえば、苦しいときに夫婦のきずなを強め合うようでありたいものだ。 ネガティブ・ストロークを与え合う関係は良くない。 性格なのか。どうしようもないのか。 ポジティブ・ストロークの良さを体得できていない。自然にポジティブストロークの関係に入れるように、「学習」できないか。 ネガティブに支え合っている。いなければそのような変な関係は生まれずにすんだのかもしれない。だからきっぱりと分かれれば、すっきりするのかもしれない。そうは思うが、夫婦のことである。そのようにネガティブに結合していて、お互いが必要だという場合もある。 3225 かわいそうと強く思うと、つい薬が多くなる。 抗うつ剤が多くなって、結局さらに不安を増すことになる。電話がかかってきたりする。 薬は少ない程度でいいのだと承知はしているが、それができない。薬が治すのではなく、時間が治すのだ。分かっているが、つらいのを見ると、はやく効かせてあげたくなってしまう。 もっと研究する必要がある。 また、ストレス反応性であったり、性格因性であったりすると、薬にはあまり期待できない。その場合には、焦って薬を多めに出したりしてはいけない。 文章で書けば、わたしだって理解はしている。しかし現実の場面では、ついついサービスのつもりで、同情のつもりで、薬が多くなることがある。 3226 中身と外見と自己イメージ。 心理と外見と自己イメージ。 外見は田中が彼をどう見るかということ。 自己イメージは自分が自分をどう見るかということ。 心理と、自己イメージと、他者から見たイメージと。この三者の食い違いがあると、つらくなる。 自己イメージはしばしば実際の自分よりも高い。しかし、少し高い程度ならば、むしろ努力の源泉になる。 他者から見たイメージは、外見であるから、結局家の人に注意されたりするところで大きく左右される。家の人も何も言ってくれないとそれきりで、中身と外見が一致してしまう。それはそれで良いことだ。一致していれば、苦しみは少ない。 典型例は、 中身=外見<自己イメージ(太田君、横井君) これは他人に嫌われるパターンである。他人は外見から判断して、適切な対応をしていることになる。しかし自分だけは自己イメージがずれているために、ちぐはぐな感じを持つ。 また、中身<外見=自己イメージ この場合は、他人から見られている自分と中身が一致しないので悩む。中身と外見が一致しないのは、(主に)親が形作っているからだ。 3227 強迫の母、娘、孫。三者の強烈な喧嘩。迫力充分である。娘が、母の様子を見て、自己洞察を深めることができれば、救いがある。 ここにも繰り返しがある。同型性。 3228 満潮の時には岩が隠れる。干潮の時には岩が現れる。 ストレス状況下では、今まで余裕があったときには隠れていた岩が、現れる。 たとえば夫婦関係、親子関係、職場の人間関係、昔から気にかかっていたことなど。 ストレスがなくなって、余裕が持てるようになると、ふたたび問題は隠れる。 →以上の事情を図解する。 3229 床屋とは少し違う。待合い室で暇つぶししていればいいというわけではない。待ち時間は一人静かに自分の人生について考える大切な時間である。 3230 パニックの治り方。 かさぶたがはがれるまでそっとして待つ感じ。 早く治りたいと思って無理矢理に頑張ると、かさぶたをいじって無理にはがしてしまうようなものだ。 そっとしておくことが一番早くきれいに治る。 その感じをつかんでほしい。 3231 精神障害を ・内界認知障害‥‥神経症の病態水準‥‥不安神経症? ・外界認知障害‥‥精神病の病態水準‥‥分裂病 ・行為障害‥‥認知ではなく行為の障害。‥‥強迫行為、衝動行為 に分類する。この三者は重畳することがある。 ・ストレス性障害は内界認知障害とどのような関係にあるか?→多分、関係ない。別のものである。 ストレスの内部認知障害があるだろう。その点では神経症的である。 古典的神経症は、内部の欲求を抑圧することによって生じるものである。 ストレス性障害は、ストレスの感知を抑圧していることから、過剰にストレスをためこむことにつながる。それは過剰に自分を「変形」することである。その変形を感知できない。その意味で内界認知障害である。 1)内部ストレス認知障害。→無自覚性ストレス障害。 2)ストレスを充分に認知していて、その上で、苦しんでいる場合。→これが自覚性ストレス性障害。 2)の場合にも、訴え方として、言葉のレベルで、また、身体のレベルで、十分にストレスを表現できているかという問題がある。 内部ストレスの原因として、生育の歴史に問題がある場合がある。複雑性PTSDと考えてよい。 3232 脳に変化が起これば、精神科。内部に原因がある。 ストレス性なら心療内科。外部に原因がある。 「ストレス医学」であると表明するのも悪くないと思う。 精神病の場合、精神病性の内部変化がそのまま大きなストレスとなる。従って、ストレス性障害の重畳が見られる。 3233 パニックとストレス性障害の共通性 パニックはストレス性障害であること (たとえば)レイプ→恐怖症(一般にPTSDのメカニズム) (身体因によるパニック)→(予期不安による)不安状態 3234 シートを作る ・診断に何回(心理テストを入れる)、ターゲットは何か。 ・病気の成り立ちについて説明(パニックやうつなど)→書類を作る ・薬剤の説明と、選択の際の患者参加→書類(名前入りがよい) 3235 「自然な感情」と「理屈」の対比 3236 小学校の学級崩壊についてNHKテレビ・クローズアップ現代 クラスがバラバラ 授業が成立しない ののしり合い、けんか 立って歩く、出て行く いじめ テストを破って捨てる 物を投げる 協調性ー非協調性、いいかげんーまじめ、こうした軸だけで見ていると、いい子と悪い子ははっきり分かれる。 しかし、得意を見つける、いいところを見つける、という方針で考えると良い。 ゆとりがあるか、積極性があるか、という軸で見ると、子どもの別の面が見えてくる。複数の軸で考える。 教師は自分がまじめでいい子で努力家で育ってきた。それを子どもたちにも押しつける。そうした価値観で判定する。 (強迫性の押しつけ。強迫性の再生産。しかしながら、しつけとはそういうものである。昔はそれでよかった。今それができないのはなぜか。それが問題である。多分、教育の裾野を広げすぎた。戦前は選ばれた者に対しての教育であった。戦後は戦争で淘汰が起こった。) 子どもは我慢ができない。(なぜか?) 教師が悩みを打ち明けると、教育技術の問題だと判定される。愛情不足だなどとも判断される。(個人の問題はどの程度あるのか、評価が難しい。)教師は徒労感にとらわれる。 3237 子どもや患者を社会情勢または社会変化のカナリア」として考えるのはどの程度正しいか? 何が変わったか?社会が変わっても、子どもが変わっても、学級崩壊は起こるだろう。 教師にも問題はある。親にも、子どもにも、社会にも、問題はある。どのように解けばよいか、途方に暮れる、そのような連立方程式である。 子どもが我慢ができない状況。→衝動コントロールの衰退。 クラスがバラバラ。→集団機能の衰退。 3238 小さな子どもを育てている母親のうつ。デイケアの形で子どもを面倒見る。 3239 薬や治療方針に関して、印刷物の形で手渡す。 口で説明するだけではなく。 手間暇かかって大変だけれど。 患者は忘れやすい。確認したがる。その時に、手元に書類があれば、とてもすっきりする。 書いてあげたものを大事に財布に入れて持ち歩く人がいた。 「言葉の処方箋」である。 3240 メンタルトレーニング。 ある局面で、人生脚本が反復される。 高校野球のベンチで、点数を入れられたあと、ベンチで天を仰ぐ。その表情に、彼の人生脚本を見る。 3241 レセプトの自動化。 何をどこまで。 3242 背中のボタン 洋服の中には自分の手ではかけられないボタンがついているものがある。そんな洋服を着るときは、誰かにボタンをかけてもらわなくてはならない。不便な服だと思う。 人間のこころは、このような服に似ている。 自分で自分のこころの手入れをしようと思うけれど、自分ではできない。自分の手が届かないところにボタンがあるような感じである。そこで他人が必要になる。その人も誰かを必要としている。そのようにして誰もが、自分の背中のボタンをかけてくれる人を必要としている。 しかしだからといって、自分のこころの手入れを他人まかせにするのではない。これもボタンをかけることに似ている。背中のボタンをかけるかどうかは他人まかせにするのではない。かけて下さいとお願いする。かけて欲しくないときには拒否することができる。そもそも頼まない。自分で決めるのだけれど、自分で実行はできない。 自分では操作できない。他人の手が必要である。人間はそのようにできている。 具体的には語り合うことであり、手をつなぐことであり、配慮し合うことである。見つめ合うことであり、温もりを伝えることである。 現代社会は、このような側面を忘れていないか?人間には他人というものが決定的に必要であるということ。 しかしだからといって、他人に依存するのでもない。また、こうした事情を利用して、他人を支配するのでもない。そのようなよい人間関係のあり方を学ぶ必要がある。 3243 投薬量が多いのは、攻撃性が高まっているときである。 自戒すべきである。 「先生何とかして下さい」と言われて、それではと、強い薬を出すのは、へたくそである。何もわかっていない。 薬で治すのではなく、精神療法で治すのである。そのようなつもりで、薬は現状維持か、または減薬である。これが上手である。ストレス性疾患の患者は薬では治らない。精神療法と時間が癒すのである。 このようにわかっていても、なお、増薬の愚を犯す。それは攻撃性の故である。 3244 心と体の相関。 心が原因で体が乱れている場合、心を治すのが第一であるが、まず体を整えて、心が整うのを待つ方法もある。その意味での心身相関である。 原因を治さなくても、結果を正していくだけで原因が治る。それが人間の心と体である。 心に効く薬は恐いという。だから、体に効く薬で心身を整える方向を目指す。このような方針もよい。 3245 意識の層のストレスと無意識の層のストレス。 意識の層のストレスは語ることによるカタルシス。安心して語ることのできる環境を提供することが、仕事。 無意識の層のストレスは治療者の助けを借りつつ洞察。たとえば絵画。 無意識層にため込んだストレスは、専門家の力を借りて発散した方がいい。 カタルシスと共感と洞察。 3246 いい子ほどストレスを内側にため込む →心療内科に来るのは悪い子(頭の壊れた人)ではないとの説明に利用できる。 3247 薬の悪い使い方→忘れさせる、鈍麻させる。 薬のよい使い方→安心する。 依存になるのではないかと心配しながら使っているのでは結局不安を増大させているだけである。 納得できないのに飲む薬は不安のもとである。 3248 ストレス性障害 ストレス関連障害 不安性障害 こうした言葉を使って説明する。 無意識層にため込むストレス。意識層にため込むストレス。 しかし「ストレスをため込む」とは具体的には何をさしているのか? もやもやを未解決のまま持ち続ける。 納得できないままに時間を過ごしている。 3249 「自分が自分であるために」 社会から期待されている自分。あるいは社会からそのように見られている自分。 それと、本来の、ありのままの自分との落差。 落差が小さいとき、何とかやっていける。 落差が大きいと、生きるのが難しくなる。 たとえば子供。 親や学校、社会から期待される自分。それと本来のありのままの自分。この二つの落差。 落差がはっきりしていればまだいい。落差が分からないほど、本来の自分がゼロになっている。「透明な自分」になっている。社会から、外側から、自分が規定されている。 3250 内在する自己治癒能力を引き出す 治癒といえば病気からの回復のように響くので、自己成長力、自己回復力、自己洞察力などといえばよいだろう。 ストレス状況下では、本来の自己成長力を押さえつけられている場合がある。そうした状況を見きわめて、邪魔者をどけてやれば、また成長力を発揮することができる。 これは広い意味での教育の原則でもある。 邪魔者を片づける方法の一つとして、薬剤がある。 ストレス状況下では、干潮時の磯のように、ごつごつと岩が見えている。そのどれもが心の問題であり、生育上の未解決の問題であるように見える。しかし満潮になると、どの岩も隠れてしまう。 不幸せなときには心の問題も見えてくる。しかし幸せになれば、いろいろな問題も姿を隠す。 解決されたわけではない。しかし姿を隠すのである。 薬剤は、干潮を満潮にするためのきっかけを作ることができる。 3251 「あ、そう」の一言も、イントネーションによって多様な意味を込めることができる。 その微妙さを読みとることで会話が成立し、人間関係が成立する。 しかしその微妙さを感知できない人たちがいる。分裂病とはそのような地点に成立する事態である。 3252 一般の人たちが感じている、「心に効く薬」の胡散臭さについて。 ・眠らされる。鈍感になる。それでは問題は解決しない。 ・副作用でだめになる。 3253 分裂病デイケアの理論化。 3254 うつの患者さんに手渡す書類をつくる。 3255 良い子ほどカウンセリングが必要である。 ・適応することは、周囲の環境に合わせて自分を変えることである。本来の自分ではないから、ストレスが内側にたまる。 ・悪い子は、不適応状態であることを叫んでいるし、周囲に変わってくれと要求している。自分を変えてしまうタイプではない。 ・ストレスは意識の層にも、無意識の層にも蓄積される。 ・蓄積されたストレス(=内部の変形)がある程度以上になると、身体や精神の症状になる。 ・このように考えれば、「弱いからストレスに負けている」のではない。「厳しい環境に合わせて自分を変えすぎた」から、ストレスがたまりすぎたと考えられる。 ・こうしたタイプのストレスをコントロールしていくのがカウンセリングである。 3256 報われない人生を生きている人がいる。 誰かが理解してあげれば、すこしは救われるかもしれない。 少しは報われるようにできないものだろうか。 報われることは、「意味づけ」に関係している。宗教の重要部分は、この世での矛盾や報われなさ、不公平、不幸、こうしたものに関しての意味づけであろう。「不幸の意味の体系」がある。 宗教をなくしたとき、この意味での、「不幸の解釈の体系」を失った。その時から、不幸は不幸のままで咀嚼されずに残されることとなった。いつまでも恨みの節を反復している。 宗教といえば意味がずれるとすれば、意味づけのシステムである。「現実の損」を解釈し直す、「現実とは別の意味の体系」がない。 そんなものは幻だ、嘘だ、とマルクスのように語ることは正しい。しかし、その代わりとなる心の安定剤が必要だ。本当に宗教は麻薬である。 上質の宗教の言葉は詩の言葉である。現実に関しての新しい・別の解釈を提供する。その人の通常の思考では結合し合わないもの同士を新たに結合させる。そのような創造的な経験が、傷をいやし、不幸を咀嚼することに役立つ。 3257 心と体 不安や怒りが身体化する例を日本語から拾う 腹が立つ 胃が痛い ドキドキする 手に汗握る 不安や怒りが身体化することは普通に起こることである。病的ではない。 診察室で、「不安です」という言葉を聞きながら、瞳孔の様子、眼の動き、呼吸の様子、表情など、外に現れている部分を拝見する。 本人の語る言葉と、外に現れている様子が矛盾しないなら、その点は問題がない。治療は不安を解決することである。 言葉と外に現れている様子が矛盾しているとき、さらに複雑な治療が必要である。 言葉  様子 + + 不安状態 ー + いわゆるアレキシサイミア(失感情言語症) + ー  身体化の不足……身体表現の練習をする 診察は、意識の領域の表現、無意識の領域の表現、身体と行動の領域の表現の、各々で行われる。それぞれの領域からの表現が矛盾がないか、注目する。 ただし、無意識の領域からの表現は、意識を通じてか、身体や行動を通じてかの、いずれかになる。 3258 原因の分かっている不安と、原因の分からない不安。 パニックの不安は、原因が分かっている。成立のメカニズムを説明することができる。 原因の分からない不安は、無意識の層からの信号としての不安と説明される。 無意識層に抑圧している欲求が、「そろそろ僕のことをどうにかしてよ」と信号を送る。それが不安として認知される。しかし抑圧したままだと、どんな欲求が自分の内部にあるのか、わからない。どんな欲求があるのか、意識することができれば、不安はやむ。これがフロイトの説である。 「欲求の内容については洞察した。それなのに不安はやまない。症状は続いている。」と反論されたとすれば、フロイトは、「その洞察が本物ではないからだ」とやり返すだろう。症状が消えたら、その時が本当に洞察したときなのである。 抑圧しておきたい自分の欲求を洞察することは容易ではない。かなりの心的エネルギーを投入してでも、抑圧して、「ないことにしておきたいもの」、それが問題の欲求である。洞察が困難であるとしても不思議ではない。 3259 意識は言葉で語り、体は症状で語る。そのメッセージを読み解くことが仕事である。 意識は言葉によって何を語っているのか?体は症状によって何を語っているのか? 3260 自らの受難に関して、言葉を選んで文章として記してみる。そのことが癒しにつながる。 なぜか? 3261 対話的関係。 相手の話を最後まで聞く。文章の最後に、ピリオドやクエスチョンマークがつくまで、きちんと聞く。 聞き手に余裕が必要である。 3262 「まるで生きているみたいだ」と驚いたりする。この感覚は何に起因しているか。このことがひいては、何を生き物と認知しているかということと関係しているだろう。 多分、意志や目的意識を持って運動しているということが、本質となっているのではないか。 「目的意識をもって運動しているように見える」ということの内容として、時間に依存しているという指摘がある。 生き物らしさ。時間に依存している。 植物の場合、何週間かの時間サイズで見れば、意志を感じる。ビデオを早回しで見れば、まるではっきりとした意志を持って、太陽の方向に伸びて行くように見える。 たとえば地球の営み。海が岩を浸食する。その場合も、何十年か何百年かの時間単位で見れば、意志を感じるのではないか。 つまり、無生物もスピード撮影で見れば、生物に近くなり、意志さえも感じるようになる。 逆に、生物も、時間を微細に見るとすれば、(つまりスローモーション再生で見れば)、無生物に近くなるだろう。 生物も結局は無生物から構成されているには違いない。人間は自分の時間感覚で周囲を見る。似たようなものは生物と認知する。それだけのことかも知れない。 生物と無生物といっても、それだけのことだ。本質的な区別はない。 3263 どこまでが自分の内部で、どこからが外部か。 発達遅滞があり、家では暴君で、外ではよい子という場合がある。家と家族がこの子にとっての内部である。 成長にしたがって、内部は自分の心の中に限定されてゆく。その方向での成長を援助することが仕事になる。 3264 精神科医の印象の悪さ。 これは決定的。 予断を持って人を見る。 医者・治療者の側の、人間としての薄さに応じて、見立ても薄っぺらになる。 3265 人間の意識と自律訓練法 洞窟の中で懐中電灯を持ち、半径30cmを照らしている。それが人間の意識である。 奥には無意識や、子供のころの記憶がある。普段は、そのあたりまではライトは届かない。 手前には現在に近い意識、意識の表層部分がある。そのあたりならばライトで照らすことができる。 また、普通の場合には、状況に応じて、必要に応じて、意図的に、洞窟の手近なあちこちの部分を照らすことができる。 ところが、神経症の場合にはその柔軟さが失われる。 手前にある「危険」の立て札をいつまでも照らしつづけている。ほかの部分を照らせばいいのに、それができない。したがって、いつまでも「危険」を意識し続けている。 ほかの部分を意識的に照らすにはどうすればよいか、それが治療である。注意を逸らしなさいと、同義反復のようなことを言う。それでは解決にならない。自律訓練法は、こうした場合に有効である。 自律訓練法は、ライトの照らす部分を変えてくれる。それが自律訓練法の第一の働きである。 第二の働きは、半径30cmのライトであったものを、半径3メートルくらいのライトに変えることができることである。この段階に至れば、禅やヨーガの高度な境地と似ているだろう。 精神の視野が広くなり、「危険」の立て札が立っていることも見えてはいるが、さほど気にならない。視野のあちらこちらで何が起こっているのか、把握することができる。 精神の視野が広くなれば、「あるがまま」の境地も実現できる。恐怖や不安は相対化されるからだ。「とらわれ」ることがなくなる。 3266 強迫症の人は「強迫性格のげた」をはいている。 子供の場合、学校の成績は、「本来の能力」+「強迫性格のげた」の和である。結果として同じ成績でも、強迫性格でない子供のほうが能力は高いだろう。 子供のころから強迫性格を教育していると、子供の本来の能力が見えなくなってしまう。 強迫系の子供の場合には、本来の能力を過大評価することのないように注意したい。 小学校のころはよくても、だんだん学習内容が高度になると、「強迫性格のげた」だけでは対処しきれなくなる。だれもそんな高い下駄は履けないのだ。 3267 病気の人に、自分だけではないという実感を伝える。それが安心になる。 例えば麻疹なら、家族も経験がある。すっかり回復して普通に生活できている。そのあたりが安心材料となる。 3268 「あ、そう」という言葉で、がっかりした患者さん。 人間の言葉にはさまざまな感情が乗っている。語るときの声の調子や表情、さらにはその時の状況がある。それらを全部無視して、辞書的な言葉の意味だけを受け取るとしたら、苦しい誤解にもつながる。 たとえて言えば、パソコン通信の状況に似ている。脱色された活字だけが並んでいる。 したがって、このタイプのコミニュケーション障害のある患者さんはパソコン通信に親しみを持てるだろう。 3269 ミフィちゃんの絵が描いてあるティシュペーパーの箱。「Wish happiness to all my friends.」とある。 幸せは、みんながそうなれるものなのだろうか?あるいは、限られた資源であり、誰かが幸せになれば、誰かが不幸せになるというものなのだろうか? 幸せの感覚も、他人との比較や、自分の過去との比較から生じるものだとすれば、「すべての友達」が幸せになるのは難しそうである。 また、わたしの友達が幸せになったことで、友達以外の人たちは不幸せになっているのではないかとの疑いがある。 例えば誰かの合格祈願。それ以外の誰かは不合格になるのだ。 金銭的にも同様であろう。 すべての人の幸せというパラドックス。 そこまで厳格に言わなくてもいいかもしれない。食料が大量に出回れば、すべての人が満腹できる。それがすべての人の幸せである。(この傾向が極端になれば、農業に従事している人たちは大変だと思う。) こうした面では物質の豊かさはすべての人の幸福の実現に役立つだろう。 健康はすべてのことが持つことができる。誰かが持つことで、誰かの持ち分が減ったりはしない。 たとえば臓器移植は、こうした健康観を変えるかもしれない。限られた少数の資源を競争して獲得する場面が生じるのではないか。ここでは少数者の、勝者の幸福になってしまう。 3270 引きこもりの民話・伝承の実例。 三年寝太郎。……三年はうつとしては長すぎる。青年期の長い引きこもり。しかし、その後で村の危機を救う働きをした。その点では希望を与える。 天の岩戸の物語。……反応性の引きこもりだろうか。 3271 患者満足度が大切。 どのようにすれば、もっと納得して、もっと満足するか。 第一は聞く態度。……怒らない。ばかにしない。肯定する。 第二は情報の質と量。……原材料を揃える。本、雑誌、テレビ、インターネット。 第三は情報提示の方法。……分かりやすい言葉。短い説明。聞きたいことを。文章は、短く、漢字も少なく、ふりがなをつけて、絵を添えて。 3272 たとえば過敏性大腸炎の説明など、あらかじめ用意しておく。オリジナルの説明書。それを蓄積して、出版する。 3273 性格構造→背景病理→前景症状 この連なりを理解する。 これらすべての背景に「脳神経細胞の特性」がある。       性格構造→背景病理→前景症状 脳神経細胞の特性↑    ↑    ↑ (脳神経細胞の特性)+(生活歴)=性格構造 これに「病的変化」が加わり、背景病理を形成する。 さらに「現在の状況」に影響されて、前景症状が観察される。 (以上の関係を図に示すことができる。) この説明は、特にパニック障害のときに使える。 1.強迫性性格傾向。 2.うつ病または分裂病の背景病理。 3.パニック発作や回避行動の前景症状。 どこをターゲットにするかで、薬剤選択が異なる。 3274 浦島太郎が玉手箱を開けるとき。 A.竜宮城という居心地のよい非現実の場所から、白髪のおじいさんという現実に移行する。その引き金が玉手箱を開けるという行為である。 B.玉手箱を開けてはならないと乙姫様から指示されている。しかし浦島は開けてしまう。 1.分裂病の比喩として 浦島太郎が竜宮城に行って楽しんでいたとき、幻覚妄想状態であった。玉手箱を開けて、現実に直面した。 2.引きこもりの比喩として 引きこもりの状態は、竜宮城である。玉手箱を開けて外の世界に出る。 3.青春の比喩として。 玉手箱を開けるとき、青春は終わり、人生が始まる。 4.人生の比喩。 短い人生は竜宮城の夢のようである。玉手箱を開けるときとは、死の瞬間である。死の瞬間に、人は人生の現実を明白に見る。その瞬間に、十分な視力を獲得する。その瞬間まで、視力は曇ったままである。近視のままで生きている。短い時間のことだけしか考えられない。 3275 ストレスに強い人と弱い人との違いを、神経伝達物質とレセプターの特性に還元して考えられるか? ストレスに弱い人は、ストレスに直面して、現実的・適応的な行動を選択することができない。退行的・非適応的行動をとる。 ○ストレスに曝された状態とは、相対的ドーパミン過剰状態になったときである。 ○相対的ドーパミン過剰状態になったとき、上位機能は一時的に機能停止となる。結果として、退行的になる。 (この状態が継続するのが、分裂病性の欠陥状態である。) ○このように退行的になれば、現在とは別の適応パターンを探るということになる。新しい行動パターンを開発することは難しいが、昔身につけたパターンを再び利用するのはたやすい。 ○子供は新しい行動パターンを身につけることが容易である。大人になれば、新しいパターンではなく、古いパターンを再利用するようになる。 ○では逆に、相対的ドーパミン過剰状態になっても、なお退行的にならず、機能を維持し、逆に新しい適応行動を身につける人がいるのはなぜなのか? ○補完システムを考えることができる。ドーパミン過剰になった部分は機能停止するが、並列的に機能している脳の他の部分が機能を補完するのではないか。その部分ではドーパミン過剰ではないから、高度の機能を発揮できる。 ○診察場面で、その人がどのような行動パターンを発揮しているか、その行動はその人としては高度なものなのか、それとも退行的なものなのか。そのあたりを区別していく。自分では気づかないうちに、退行的で非適応的な行動をとっている場合があるので、客観的な立場から指摘する。 3276 工夫が必要なこと(1) 待ち時間をどのように過ごしていただくか。 待ち時間の表示。→医者に分かるように(どれだけ待たせているか)。さらには患者に分かるように(あとどれだけ待てばいいか)。 工夫が必要なこと(2) 病名を落とさないこと。 処方が変更になったら、病名をチェックする。 次に、その変更をレセプトに反映させる。 この仕組みを考えること。 3277 ニューロレプティクスを、分裂病の薬ととらえずに、ドーパミンブロッカーとして把握する。さらに限定して、交感神経抑制薬として位置づける。「何の薬ですか」と尋ねられたときに、「安定剤の一種です」と答えることは結局、精神の病気ですと言うに等しい。「ひどい状態です」と告知されるに等しい。 交感神経の働きを抑制するための薬ですと説明する。なるべく身体の次元での説明にすりかえる。 ・交感神経と副交感神経のバランスの問題。不眠症や過緊張の場合、交感神経が優位であるとまとめることができる。しかし、副交感神経との関連で言えば、交感神経の絶対的な活動量のほかに、副交感神経との相対的な関係が問題になる。    交感神経   副交感神経 活動  高い     高い     高い     低い     低い     高い     低い     低い このほかにも普通とか、やや高いとか、無限のバリエーションがある。また、相互関係という面で言えば、お互いが他方を制御している面も考えられる。 総括して言えば、交感神経優位状態といえる。その内容に応じて、さまざまな処方が考えられる。 ・大まかに言って、交感神経を抑える方向と、副交感神経を賦活する方向との二つがある。 ・交感神経を抑える薬として、セレネースを考えることができる。 ・副交感神経賦活の方法として、リラクゼーションを考えることができる。 ・不眠と過緊張ではどのように違うのか、それもまた問題の一つ。 3278 こころの問題も、身体の次元の説明にすりかえてあげたほうが安心する患者もいると思う。 自分は精神病ではないと思いたい。 精神病の薬を飲むようになったらおしまいだと思っている。 このあたりの素朴な感情は、素朴なだけに根強い。 3279 なぜ子供のころの稚拙な適応パターンがいまだに残っていて、日常の不適切な場面で顔を出してしまうのか? 損をしていると知りつつ、なぜ損を続けるのか? 隠蔽された利得があるからと考えるか? しかしたとえば捻挫した足が痛むということに特に疾病の利得はないように思える。 3280 スポーツ選手のスランプ。 どんな選手にも必ず調子の波がある。そうした波と、躁うつの波とは類似していると患者に説明することができる。 バイオリズムといわれるような、体の内部の波。 生理周期。 いくつかの波の合成として、体調を把握することができるだろう。 3281 文学においても、科学においても、人間にとって根本的な問題は、自由意志は虚妄なのかという一点である。 この一文だけでピンと来る人は「こちらの人」である。何を言っているのか分からない人、自由意志はあるに決まっているではないかと思うだけの人は、「あちらの人」である。 「こちらの人」と「あちらの人」とは、全く別の内的世界を生きていると言っていい。ただ偶然に同じ場所で生活をしているだけである。 人間として重大な問題はもう一つある。この宇宙はどのようにして生成したか、この宇宙には、更に背景となる舞台があるのか、時間はどのようにして形成されたものであるか。 自由意志の問題を含めて、人間の意識の問題と、宇宙の生成・構造の問題とは表裏一体をなすものである。 その意味で、問題は一つなのである。 もし自由意志が虚妄であるならば、つまり錯覚に過ぎないとすれば、人間は単なる自動反応機械である。 現代科学はそのことを強力に実証している。まともな科学の領域で、この受け入れ難い嫌悪すべき事実に対する反証は皆無である。 科学としても文学としても次元の低い通俗の言説として様々なことは言われる。しかしそれは説得力に乏しく、時間をさいて取り上げるに値しない。 うつろな自動反応機械。ただ環境に反応して、内部プログラムを遂行するだけの自動反応機械。人間というものに対してそれ以上のイメージを抱くことができない。 この悲しみを鋭く意識するからこそ、この唯一の問題について、真剣に取り組む必要があると感じる。 意志はある点では原因になる。世界を変える。しかしそれは時間的にそれ以前の前提があり、生成されたもので、その生成のされ方を考えると、「自由意志」とは言い難く、結局のところ、強制的に決定された意志であり、不自由な意志であり、自動反応機械としての反応でしかない。 そのような人生をいきる意味がどこにあるのだろうかと思う。 意味はあるだろう。 全く受動的な体験として、映画鑑賞をあげることができる。 人生を生きることは、受動的であるという点で、つまり、能動性を剥奪されているという点で、映画鑑賞に等しい。 違いは、能動性の錯覚が仕組まれている点である。自分が能動的にかかわっていると錯覚しながら体験することができる、そのような一緒の特別な「映画」なのである。 しかしその錯覚の本質を知ってしまったら、されは通常の「映画」となんら変わるところはない。 では人生とは単に映画を見ることと同等の意味しかないものなのか? 当然そうである。それ以上の意味はない。 この世に生まれ、この世のありさまを観察する。それだけのことである。 自分の身の回りの人が生きて死んでいく。その様子を見ていて、人間はこの世界の重要な構成要素ではないことを知ることができる。誰かが死んだならば死んだで、世界にとっては何の不都合もないのである。 映画の観客が退席しても映画には影響がない。極端に言えばその程度のものである。 ニヒリズムは正しい。 この世界と人生には意味がない。 意味がないところに錯覚の意味の体系を構成している。そしてその構成には無理がある。通常程度の理性があれば誰でも簡単に錯覚を見破ることができる。 これはわたしの憂うつの発作に過ぎないのであろうか? 3282 不安を鎮める薬とか、抗うつ剤と言わずに、交感神経の緊張をほぐすタイプの薬と説明する。 抗不安薬も抗うつ薬も、覚醒剤も、麻薬も、みんな同じように考えていることが多い。おおむね精神に効く薬はうさん臭く受け取られる。その素朴な感情も理解したい。 筋肉の緊張をほぐす薬と同等に、末梢神経の緊張をほぐす薬と説明したい。 3283 交感神経と副交感神経のバランスの様々な様子をグラフにしたい。 直交する座標でも良いし、交感神経を上、副交感神経を下にとって、グラフ化しても良い。 何かを測定して、グラフ化したい。 心電図や脳波のような、または、心音の聴診のような、医者だけが判定できる情報を利用したい。 3284 家族というものの価値。 価値の共同体としての意味。 価値を育成する場所。 3285 学校という制度の二面。エリート選抜と、庶民の啓蒙(下級企業戦士育成)と。 エリート選抜の機能を重視していた頃は、落ちこぼれは問題にはならなかった。 いつの間にか、すべての人が下級企業戦士になりたがるようになった。 3286 レセプター×ドーパミン=↑↑ この事態の原因としてもいくつか考えられる。 1)SR特性の問題。刺激が大きくなると、急激に反応が大きくなるタイプ。 2)レセプターが多くなっていて、そのままで固定してしまうタイプ。レセプター量の可変性減少が問題。 3287 ACの話。 子供が親に嫌われる。 自分が悪いからだと思う。 自分がだめだから親に愛されないのだと思う。 自分を消去したくなる。 「死にたがる子」という、NHKのドラマ。伊丹十三と宮本伸子が出演していた。子どもの自殺をテーマにしたドラマ。その中で、現代で言うACと全く同じことが同じ言葉で語られていた。普遍的なテーマであるらしい。 3288 現代社会と不安、抗不安薬。 現代の生活の中で、近眼、老眼と眼鏡は当たり前である。人間の眼は、書類やテレビを見続けるように設計されてはいない。 同様に、人間の神経系は、現代社会のようなストレスを生きるように設計されていない。慢性・持続性のストレス、回避することはできず、しかし打ち勝つこともできず、ただ耐えるしかない。そのような中で、抗不安薬は眼鏡のようなものではないか。 3289 履き物。サンダルとか、スニーカーとか、革靴、外反母趾。生きる姿勢がよくあらわれているのではないか。 3290 患者は何を求めているか。 薬と出会いたいのか、医者と出会いたいのか。人によって違う。 3291 漢方薬の証。 CMIや絵画によって把握できる部分があるのではないか。 CMIパターンは身体部分で特に有効で、従来の証をそのまま生かすことができる。 精神部分では、精神科的に把握することで何か得られるのではないか。 例えば、マニー性格と抑うつ傾向などを軸にして、対人態度の特質から何かが得られないか。 また心気傾向を軸にして、また、現実把握のズレ、固執性など、利用できないか。 そのための資料の収集ができないか。 証は、客観的なものと考えないほうがいいのではないか。 その医者の人格との出会いでどのような反応を呈するか、そこのところを見ているのではないか。だから、一人一人の医者が経験を深めていかなければならない。 3292 身体の病気。‥‥西洋薬。 それを気にする心理。‥‥漢方。 漢方は、身体の不調をかかえながらも、よい人生を生きる、そんな態度を補助できるのではないか。 下部構造に西洋薬、上部構造に漢方。そんな感じ。 例えば、精神病にはまず西洋薬。神経症には漢方。といった具合。 その場合、漢方は、「医者との出会い」とセットになっているのではないか。 3293 カルテ記載の要点 日時 病名 症状 治療(精神療法の内容・検査内容) これらを定型にして処理すれば漏れがなくていいわけだ。 3294 便秘を、副交感神経↑、交感神経↓、のあらわれとみる見方。 交感神経と副交感神経の緊張の度合いを測定し、図にすることはできないか。 何を測定するか。いろいろな方法はあるが、生理的なものがいいか、非生理的なものがいいか、選択の余地がある。 3295 漢方と心理検査の関連付け CMIとTegはやりやすい。特にCMIは身体と精神の特有のパターンを抽出できる可能性がある。 また、絵画の特徴を利用できる可能性もある。 これらを伝統的な証に代わって用いることができないか。 漢方の難点。 ・まず生活自体が昔とは異なる。たとえば、食生活、住居、蛍光灯など。 ・高橋晄正の「漢方薬は危ない」の件。愚かな人たちが商売の餌食になっている印象。しかしそれは仕方がない。いたしかたない前提条件である。 3296 「青春の過剰」とも言うべき人たちがいる。 3297 希少価値を争い、その獲得により優劣をつける社会では、必ず敗者が生まれる。敗者はその現実を受け入れ、自分の指定された社会的ポジションを受け入れる必要がある。しかし中にはオールオアナッシング思考の人がいる。敗れた場合に、生活保護、社内生活保護ともいうべき状態(NTTに何人かいた)、などになってしまう。 3298 強迫性障害・子供の躾・学業成績・女の子の成績頭打ち・自分についての評価の変更が必要になる・しかし女子の場合、難しい→二つのピラミッド(二つの価値観) 3299 不眠症についてまとめることはできないか。 3300 自分の置かれた状況を客観的に認識する能力・習慣の有無。 病気とはいえない程度の悩み 薬を使うほどではない 考え方や生活態度の一部にスイッチを入れるだけでよい場合も少なくない。 3301 病気未満の人のために、読むこころの薬。 3302 親切……親を切る。なぜ親切というのだろう。 3303 人間失格。 過敏で、しかし、人間関係の常識を共有できない人。 現代においてますます増えている。 2×8タイプである。 3304 人の気持ちが分からないで、自分勝手に話し続ける人。そのことでまたさらに嫌われる。 この、特有のわからなさをどう理解したらいいのか。 他人の気持ちが分からない人について、どう考えるか。他人の気持ちというものは、原理的に分からない。だから、自分の気持ちを当てはめて考える。 当てはめる元の、自分の気持ちの発生の仕方、気持ちのありかたが他人とずれていたら、当てはめても間違うばかりである。‥‥性格障害。 気持ちの発生とあり方は他人と同じでも、それをモニターする部分で間違っている場合がある。‥‥内的盲目。 結局、他人というものが分からないのだ。どうしてこうなってしまうのか。脳の壊れ方の一つの典型である。 3305 うつは、病気というべきかどうか、難しいところもある。 神経細胞がダウンして、再び回復するまでの間、しばらく休むということなので、理にかなっている。むしろ、薬そのもののようなものだ。 疲れ切ったときに、休息を要求する。動きたくないから、食料を獲得することができない。しかし食欲がなくなっているからちょうどいい。 うつ状態が病気なのではない。 しかし社会生活の不都合という点から考えれば、働けなくなり、食欲がなくなり、睡眠がとれなくなるという点で、「病気」ということになる。 社会形態が違えば、うつはあまり目立たないはずである。不調になって仕事の能率が落ちたとしても、休んでいればいいだけのことだ。働けないからといって大いに心配するのはやはり社会の仕組みが関係している。 能率が落ちるとはっきり数字で分かってしまう。欠席も問題にされる。そのような社会が「この人はうつだ」を指摘し続けているのだ。 また、うつになる原因も社会がつくっている。原始社会で、人間にそれほどやることがあっただろうか?現代社会ではいくらでもやることがある。仕事はいくらでもある。なぜだろうか。貨幣制度が関係している。 例えば、農耕社会でも狩猟社会でも、働きすぎて収穫が多すぎると、腐るだけである。 現代社会では、腐らないような収穫がある。だから際限もなく働き続ける。そしてうつ病になる。 仕事が次から次にあるという状況は、最近のものではないかと思う。 犬も猫も、大して繁栄はしていないが、大して疲れているとも思えない。 人間の場合、活動と休息のサーモスタット(自動制御装置)が壊れているように思う。必要がないのにいくらでも働く、これが人間の特徴である。 その理由は、人間は現実を生きているのではなく、脳の中にある世界を生きているからである。 3306 軽症うつ病について説明。 ・精神病ではない。精神病としてのうつ病との違い。 ・同じ言葉を使っているので困る。 ・反応性・ストレス因性である。 ・大きすぎるストレスがないかどうか、評価。 ・性格因がないかどうか、評価。 ・治療の原則。 3307 うつの症状を植物にたとえる。 根は身体にある。しかしその枝先は、多くは心理面に及び、憂うつ、おっくう、悲観的、否定的な思考や感情に傾く。ときにその枝先は実存の次元に及び、生きていることの意味を問い直し、やはり答えが見つからないと嘆くようになる。 これは他の全般的な症状と考え合わせれば、うつの症状と考えてよいのだが、実存的問いだけを取り出してみれば、絶望しても無理のない、哲学・倫理の難問である。 3308 更年期のめまいには、心因性めまいが混入している。 これは、パニック発作と同様のメカニズムである。 パニック発作の図がそのまま使える。(図参照) 身体因に起因するめまいの再発を防止するためには、漢方薬を使う。 不安とめまい発作の悪循環を断ち切るために、ソラナックスが有効である。 この二段構えの処方が必要である。 3309 閉じこもりについての説明 1)レセプター×ドーパミン=の過剰 これは、レセプター過剰の場合もあり、ドーパミンの放出特性として、急激な立ち上がりを見せるものの場合もある。 2)強迫性障害が背景にある場合。 自分や周囲を完全にコントロールすることができない場合、オールオアナッシングの癖を発揮して、全面放棄してしまう場合がある。 自分が完全にコントロールできる場面だけに生活を限定してしまう。そうすれば、「完全にコントロールする」という目的は達成される。そのかわり、世界を広くありのままに味わうことは犠牲にしている。 3310 あるがままとなされるがまま 「大きなもの」「偉大なる存在」「神」「自然の摂理」「自然」、これらの言葉で表現される何かに、身を委ねること。 これは具体的な誰かの意志に身を委ねることとは全く異なる。 自分の内にあり、かつ、自分の外部にも遍在する「大きなもの」の流れに身を委ねるのである。それがなされるがままである。 3311 デイケアという行き場があるから、社会復帰の努力を放棄する。生活保護にでもなって、昼から遊んで暮らす。そのような構造に手を貸すのは、患者のためにならない。そして自分自身の人生として、よい人生にならない。 入院医療からデイケアへ、これならば肯定できる。しかし、社会からデイケアへ、この方向が多いので、デイケアは賛成できない。 しかし、では彼らはなぜ、自分を駄目にするような楽な選択をするのだろうか?それだけ辛い何かがあるとしか考えられない。 3312 夫が優しい場合、妻の自律神経失調症は治りにくい。 優しいといっても、その実体は無関心で、責任回避の姿勢である。優しくしておけば一番楽だというだけの、優しさである。本人のためを思って本気になれば、ことが面倒になる。本気にならないことが、優しさと映る。それだけのことだ。 3313 患者さんは何を求めているか? めまいを消して欲しいのか? めまいを起こして悩んでいる自分を受容して欲しいのか? 症状を消すことが仕事ではない。この観点が大切である。 生きる意味を回復させること。 存在の意義を回復させること。 犬伏さんは、その悩みは実存の次元にまで届いている。 患者さんは安心を求めて来院する。 決め付けとしての診断ではない。対話を拒むものとしての薬物療法や説教ではない。 3314 それぞれの立場で自分は正しいと思って生きている。 それぞれの立場を相対化する技術が、高次の認識というものだし、ストレスを相対化することにもつながるだろう。 3315 食事と愛情 例えば鳥の場合、親鳥が食事を運んでくれる。餌は親の愛そのものである。 拒食症の場合、餌=愛(特に親からの愛)を拒む面があるのではないか。 過食症の場合、過食をして確認しているのは、愛ではないか。愛があるのだと自分に言い聞かせたいから、過剰な食事をしているのではないか。 食事をとることで、こころのどこかで、自分は愛されていると確認しているのではないか。 自分は愛されているということを確認するための、強迫行為とみえる。 富地さんが故郷を思い、親を思い、過食に走るのは、愛情の具体的な表現を求め、反復して確認しているのではないか。 3316 自律神経失調症の構造分析 パニックの構造を援用できる。 身体因→めまい(その他の症状)→不安 ↑ ↓ ←(悪循環を構成する) 身体因→めまい(その他の症状)……この部分は心理的なものではない。治療は身体療法。漢方薬が有効であろう。 めまい(その他の症状)→不安 ↑ ↓ ←(悪循環を構成する) ……この部分は心理的なもの。抗不安薬が有効な部分である。 患者は、自分の症状のどの部分が本来の発作で、どの部分が心理的悪循環部分であるかを区別できない。 たとえば、バラアレルギーの人が、造花のバラを見ただけでアレルギー発作を起こした例。この場合にも、最初は身体因からなる発作であったものが、次第に心理的原因による発作に移行している。この場合にも、自分では分からない。 なぜこのような不必要な反応が形成されるのだろうか? たとえば、運動が小脳回路によって自動化されることに似ている。いちいちアレルギー反応を起こさなくても、自動的に素早く反応が起こる。?しかしそれでは説明しきれない。本質的な意味では免疫反応は起こらず、ただ結果としての鼻水だけが出ている。なぜか? 3317 湘南心療内科……SSN,SNSNなど。略号化。 さらに約束処方として、SSN1,SSN2など決められないか。 3318 薬剤の説明のシステムを作ること。患者に何を伝えたいか、何を理解してほしいか、明確にすること。 3319 新星出版「(健康保険が使える)漢方薬−−処方と使い方−−」木下繁太郎(1990) 大磯図書館にあり。 3320 薬剤について、適切処方を決めるにあたって、個人差が大きいことを説明。 また、個人の内部でも、時期、体調、心理状態によって、差が大きいことを説明。 そのあたりを理解せず、単に「悪い薬」と考える人がいるのではないか。 3321 分裂病を、若年性妄想性障害と呼び替えてはどうか。 いつ、どんな症状があるかを言っているだけである。害は少ないのではないか。知的障害や認知障害といった言葉よりはいいかも知れない。 3322 カルチャーショックや文化摩擦と分裂病の発症。 特異的な原因とは考えにくいのではないか。分裂病でもうつ病でも起こるだろう。 内容ではなく、形式で考えたい。アイデンティティの問題などといっても説得力はないのではないか。むしろドーパミンで考えたい。 分裂病タイプの人は、新しい環境への柔軟性がない。具体的に言えば、ドーパミンレセプターを調整する能力が低い。このタイプの人が、環境刺激の変化にさらされると、発症の危険が高まる。細かくいえば、生育の過程で獲得されセットされたレセプター数に対して過剰な刺激が入り、ドーパミンが過剰に放出されると、幻覚妄想状態になる。環境が変わり、慢性的にドーパミンが多いのだから、レセプターを調整すればよいのだが、それができない。まるで関節が固くて動きが悪いようなものだ。 もう一つは、刺激とドーパミン放出量の曲線の特性が問題になる場合があるのではないか。すなわち、刺激が少し増えただけなのに、ドーパミンは急激に増えてしまう場合があるだろう。この場合にも幻覚妄想状態に到る可能性が高い。 3323 ミロの絵。子どもの絵に似ていると思うだろうか?子どもの絵との違いがわかるだろうか? これがシスとトスンスの錯誤の例である。超越と後退の錯誤といってもいい。ミロを子どもの絵と混同して笑うのは間違いだし、子どもの絵をミロの絵のように賛美するのも間違いだろう。 それは脳のどの部分から出たものなのか? 患者の頭の中にあるものを、全否定して、すべてを混乱の産物とみなすのは間違いだし、視力に問題がある。 患者の頭の中にあるものを、すべて賛美するのも間違いだろう。 患者の親の中には、「病気ではない。ただいろいろと辛いことが重なって、心がもつれているだけだ。そのもつれをほぐすことができれば、すっかりよくなるのではないか」などと語る人も多い。 このような言葉が出る原因として、親の教養の低さ、親の側の否認など、親の側の要因がまずある。しかし一方では、子どもの側の変化が、激変ではなかったことを示しているだろう。少しずつ変化したのであって、毎日接する人にはそれは「自然な」変化のように感じられたということだ。 ミロは壁のシミをじっと見つめて、生じた幻覚を元にして絵を描いたことがある。彼はシュールレアリスムのただ中にあった。 ひょっとすれば、やはり子どもの絵とミロの絵に、本質的な差はないのかもしれない。 ミロが子どもの絵に優越していたのは、技術は勿論であるが、結局、人々はどのようなものに感動し、どのようなものをよいと認めるかということを学んだ、または知った、ということではないか。 大人の世界で流通価値のあるものを提出して見せた、そのあたりの心得。それが子どもとの差だろう。 子どもは、どう描けば、「元気のいい、いい絵だ」と評価されるかならば、知っている。しかしそれ以上の大志は抱いていないから、絵はその程度のものになる。 3324 分裂気質は相手の気持ちが分からない。循環気質は相手の気持ちが分かる。これが伝統的な言い方。 しかしそうだろうか?循環気質は相手の気持ちが分からないから、「自分は受け入れられている」と単純に信じることができるのではないか? 分裂気質は相手の「気持ちとは関係のないサイン」を気持ちのサインと誤解してしまう癖があるだろう。その点では相手の気持ちに過敏である。「自分は嫌われるのではないか」との気分が前提にある。 循環気質は「自分は相手に嫌われない」という、根拠のない前提があるのではないか。その前提の規定にあるのは、鈍感さではないか。 過敏と鈍感という対比のほうが正しいのではないか。 3325 人間は自分の行動を制御するときに、平均的でないと意識して行動するわけではないだろう。自分にとっての標準的な仕方で行動するのではないか。ということはまず、行動の基準のずれが問題になる。 内的な視力。自分の心の状態をモニターする力が問題である。 3326 自分のこころの状態をモニターする部分、つまり自意識。自意識がモニターしている感情部分、つまり「見られている意識」、猫も持っている意識。後者が集団の平均とずれていると、性格障害が起こる。平均とずれている自分の内部感情を、延長して他者を推定する。この結果、性格障害が起こる。 例えば、境界例の場合の、投影性同一視がまさにこれにあたる。 3327 外界の知覚‥‥幻覚と正確な認知 妄想と正確な認知 世界モデルを生成して、それを現実と照合してうまく適合するものを選択して残す。 照合プロセスでは外界知覚部分と、照合部分とを区別することができるだろう。それに応じて、障害も発生するだろう。 3328 境界例は、自信の世界モデルのズレを補正する機会が与えられないままだったのかもしれない。現代社会では、一人一人が生きやすくなった分、共同体としての一致度が低下しているのだろう。 固まって生きる時間が長ければ、それだけ集団の力が大きくなる。教育というのでもないが、集団からの強制力が働く。 3329 自律神経失調症 いつもある症状、持続的症状については、人間はさほど気にしなくなるものだ。ときどき出る症状だから、対比の効果によって、気になる。 自律神経症状は、ときどき出て、また消えて、また突然出るのではないか。その出現の様式がコントロールできないし、予測できない。だから困る。 また、症状を忘れているときは出ない。思い出して注意を向けると、途端に現れる。そのような特徴があるのではないか。そこに心理的悪循環が成立する。 ということは、症状の程度が、ちょうど「気にしなければ気にならない、気にすればやはり気になる」という程度のものだということだ。この種の症状が、森田のいう、「精神交互作用」の対象となる。 注意を向けるときには必然的に、悪い予感を持って注意を向ける。その時に「やっぱり!」という形で悪い予感は実現してしまう。この形の悪循環がここで成立する。 通俗の言葉で言えば「自分が症状を作っている」ということになる。 二種を区別できるのではないか。 1)持続して存在する。気にすれば意識に浮かび、気にしなければ意識から消える。 2)持続して存在しない。気にすれば存在を始める。気にしなければ存在しない。 痛みなどの主観的な感覚は、「客観的に存在する」ということと、「意識の内にある」こととの区別がしにくい。そこで、両者は混然となる。 3330 白いライオンレオ。ハンディキャップがあるにもかかわらず、なお他者に優越している。それは真の勇者の印である。 ナスカの地上絵で、尾を巻いている猿がある。尾は枝をつかんだりするときに使われる。地上絵では、実際の尾の巻き方と逆になっていて、実際の役には立たないような尾になっている。それにもかかわらず、他者と互角以上に渡り合える。そこに聖なるものとしての資格が生じる。聖なるものとして描かれることになった。 ハンディキャップがあるにもかかわらず、なお強い、ここに真の強いものとしての印がある。このような指摘。 病気というハンディキャップをどのようにとらえるか。 例えば筋肉隆々を強いものの印ととらえるような平板なとらえ方ではない。負の刻印が聖性を帯びる。 3331 ドラエモンはネズミに耳をかじられた。その時以来、ネズミが大嫌いで恐怖を抱いている。また、その時のショックで体が青くなってしまって元に戻らない。妹のドラミは猫の通常で、黄色い色をしている。 恐怖症とパニック、PTSDのドラエモンである。 3332 たった一度の経験が永久的な変化を残す。恐怖症やパニックなど。 このような事態が起こる背景には、遺伝的にプログラムされた回路が関与しているのではないか?通常の学習ではこのような強烈な刻印は起こりそうにない。 そのような回路の誤動作と考えるのがもっとも自然ではないか。 3333 蛇が恐いということは、遺伝子には書かれてはいない。集団内の他の成員の様子を観察して知る。そのような学習がある。模倣といってもよい。 患者はしばしば、よその人がこうなったからとか、よその人にいわれたからとか、テレビで言っていたからとか、影響されることが実に多い。そのような影響が特に強烈な人たちがいる。 これも、生存に関する他者からの情報を有効に生かそうとする本能の一部であろう。本能の部分的誤動作と言えるのではないか? このタイプの病理が神経症圏の病気には少なくないのではないか?恐怖症やパニックなども。 例えば、他の成員が珍しいものを食べて死んでしまったとき、自分はそのようなものを食べないようにと学習する。その学習の様式が、誤用される。そして心気症が成立する。 一般的にいって、「消去の困難な刻印」である。こうした刻印を消去するのが治療ということになる。どうするか? →以前読んだ、学習の様々な形態と、神経症の発生についての論文。治療については言及がなかった。 一度限りで、かつ深く刻印されるタイプの学習(たとえばローレンツの刷り込み)から、大人になってからの外国語学習のように、何度やっても忘れるようなタイプの学習まで。学習には種類があり、階層がある。 神経症(その一部であるが)になるとは、こうした学習のさまざまの層の中で、間違った層の学習が発動しているのではないか。そして間違うような脳の仕組みがまた別にあるのではないか。その詳細は、発症時の状況が語っているのではないか。? →その関連で怪しいのは、精神分析でいう、退行ではないか。退行時には、脳の古い層が露出しているのではないか(もちろん比喩的な意味であるが)。あるいは疲労時。疲労して、現状から逃れたいと無意識に希望しているとき、? 3334 受診の手引き 治療を始める皆様に ・プライバシーの保護 これは大切 ・診断面接 はじめの何回かは診断のための面接になる 急ぐ人もいるだろうが、焦ってはいけない ・心理テスト これまでのテスト 希望による ・治療 薬は希望に応じて 副作用のないものを使う 漢方薬を積極的に使う ・ブックリストがある 書店に置いてある ・自律訓練法、認知療法など、必要に応じて話し合う ・再診予診表に記入してもらう ・治療を中断するとき 通院をやめたいとき、転院するとき、入院するときなど、当院での治療を中断するときがあります。そのときには何らかの形で連絡して下されば幸いです。来院してお話して下さる方が多いのですが、場合によっては電話でも、郵便でもかまいません。ご本人でなくても結構です。次の主治医にこれまでの治療の結果を伝えることはとても大切なことだからです。 3335 再診予診表をそのままカルテに使えるように改善する。医師所見や治療内容を記入する部分を作る。さらに日付と氏名。 3336 ずっと続けてもらうことを期待しない。とりあえず四、五回を目標にするだけでよいのではないか。 3337 患者の自己決定権を尊重している限りは、患者は自分の知能以上の治療を受けることができない。この限界をどう考えるのか。 1.お任せコース  1.1 相手が悪かった場合……最悪(やられ放題。チェックができない)  1.2 相手がよかった場合……最上(相手の医師の知能を利用できる。この場合、医師に対するチェックは、良心または神が担当することになる。これを信用できるかどうか。) 2.自己決定コース  2.1 相手が悪かった場合……自己決定に見合った結果(各種民間療法。しかしその担当者が主観的に自分の劣悪性を認識していない場合もある。自分自身も信じ切っていて、自分にも施行し、結果として悪い結果を招いている場合など、仕方がない。たとえば、その操作が意識状態や判断を曇らせる種類のものであれば、正しい判断に至る道はますます遠いものになる。曇った知性は、自分の曇りをはらす要因を遠ざけ、曇りを固定させる要因を自ら作り出しているものだ。)  2.2 相手がよかった場合……自己決定に見合った結果 専門知識を有していない人の場合、どう行動すればもっとも利益を得られるか、それが問題である。 個々の治療法について選択するというよりは、「この人に任せよう」という選択になるだろう。 この医者は患者の利益よりと自分の利益のどちらを尊重しているか、それを判断することになるだろう。 専門知識そのものよりも、態度の問題、人柄の問題になるのではないか。 あるいは、そのような意味での「道具立て」の問題になるのかもしれない。 3338 神の領域を侵すものとの考え方 たとえばクローン人間の話など。なぜそれを神の領域と考えるのだろうか。そんなことを神がオペレートしているはずはないだろうに。生命科学の領域はいままでなじみがなかったから、そのように感じるのだろう。 たとえば写真が例である。写真を撮ると魂が薄くなるなどという人もいた。新しい技術が技術として受け入れられる前に、呪術的世界観との交代の時期があり、その時期にはいろいろなことが言われるのだ。 総じて愚かなことである。 3339 診察室で。たとえば「背骨が曲がっているから、いろいろな症状が起こる。毎日通って治さないといけないと言われた」などと聞かされる。うんざりするのであるが、それでも、整骨院のほうがわたしより説得力があるのだ。その事実。 向こうは副作用もなく、ただ恐怖をあおる。患者が自分自身では確認しようがない「兆候」を盾に、背骨に原因があると診断してみせる。 整骨院は理性と戦っているのだ。そしてまずまずの勝利をあげていると思われる。 3340 恐怖症。診察室でもっとも頻繁に見られる恐怖症は、薬剤恐怖である。 一種の催眠状態またはマインドコントロールである。 たとえば安定剤や眠剤への恐怖。 安定剤をたくさん使っていたら、死んでしまった、と聞いて、怖くなる。安定剤が原因だと思ってしまう。ここに理性の曇りがある。 安定剤をたくさん使わざるを得ないほどの重症であったということだろう。 だから、結果としては死んでしまった。もともと重篤だから、死んだだけである。薬のせいにされてはたまらない。 一方で、漢方薬には一定の人気がある。副作用がないという。 一般の人は副作用を何だと思っているのだろうか。 しかしながら、結局は我々は世間の常識の中で治療していかなければならない。 恐怖症が恐怖症として成立するための条件を「薬の副作用」は備えているのだろう。 得体の知れないもの。生命の危険に関係する。身近な人が被害にあっている。 3341 蛇嫌いとぬいぐるみ嫌いでは、明らかに質が異なる。蛇嫌いは深く遺伝に根ざした何かを感じさせる。だからこそ、広く見られるし、強力で根深い。 「薬嫌い」はどのようにしてできるのか。また、「医者嫌い」はどうか。 3342 1.診察は、マイナス要素を少なくする。嫌われないようにする。それが第一。徹底的に、患者の常識に沿う。それしかない。 2.言葉は少なく。多く語れば、嫌われることも出てくる。元来が被害的傾向のある人たちである。 3.薬は少なく。副作用が出たらアウトである。マイナスのプラセボー効果も考慮に入れる。絶対に副作用はないとムンテラしながら使うこと。杓子定規に、「可能性のある副作用は……」などと言っていたのでは、台無しである。治るものも治らない。 しかしまた一方、懐疑的な人の中には、一つくらい副作用を説明した方がいい場合もある。そのあたりの呼吸が難しいのだ。 4.イメージを大切に。親切。親身。患者は専門知識は分からないのだから、どのようにしてイメージを売るかということが大切である。特に心理関係の医院であればそれが大切だ。骨折ならば、感じが悪くても治るだろう。虫歯なら、削れば治るだろう。自律神経失調症の場合にはそうはいかない。 5.自律神経失調症を治すには、「手続き」である。「薬効」ではない。SLを使って、痛みを消してしまう。そのような気迫が必要である。薬効に頼るな。これが秘伝である。いかにも治りそうな「手続き」を繰り返す。これだけである。これはその時代、その地域に合わせて、つまりその人の精神構造に合わせて、施行するのである。ここに高度の専門職が成立する。 6.ラビのようなものだと考えていい。ラビの仕事も、苦しみのさなかにある人を人を傷つけないことがまず第一に肝要である。その点で、人の心の動き、人の苦しみに敏感でなければならない。言葉がどれだけ人を傷つけるか、反省することが必要である。毎日反省してもなお足りないくらいだ。 3343 自分で体験するのではなく、他人の体験を見て、学習する。たとえば、未知の事態に遭遇したとき、母親の行動を見て態度を決定する。 薬に関しても病気に関しても、未知の事態に属する。そんな時、周囲の人の有様を見てみようと思うのは当然である。しかしながら、その、参照される人たちが、おかしな人たちである。あるいは、自分から声高にふれ歩く人たちは、やはりそれなりの「病気」の人たちである。そして病気を心配する人は大抵気弱になっていて、依存傾向が強まり、やや退行傾向になっている。そんな普通の人たちがいともたやすく洗脳されてしまうのも無理はないだろう。 この世間に理性は珍しいのだ。 社会的参照の理論。薬恐怖などはまさにこれである。 厚生省が、薬の使用量を減らしたいとする意図を持ってマスコミ対策をしていることとも関係しているだろう。 3344 対人緊張の強い母親。この態度は、無垢の赤ん坊の対人様式に染み込むのではないか。遺伝的特性も問題であるが、人生最初期の、すり込みの時期に相当するような時期に、分裂病母親の対人緊張を刷り込まれたのでは、その後の人生に影響が出るのも無理はないのではないか。 3345 ドラエモンは自分のネズミ恐怖を克服しようともがいたりしない。あるがままである。 これは美点である。 3346 トラウマ克服の鍵。 自分を見ること。自分を知ること。観察自我を育てること。 「人のふりみてわがふり直せ」。これは他人を鏡として自分自身を知る態度。 他者が鏡となる。他者に働きかけ、他者からの反応をもらう。そのことで人は自分を知る。社会化を成し遂げる。 観察自我が育つということと、社会化ということとは同一である。「他人から見た自分」というものを、自分の心の中で構成できるようになる。 このあたりが弱い人はトラウマに弱い。 自分のトラウマを相対化できない。状況を相対化できない。なぜか?なぜ、ある種の視野狭窄状態から脱出できなくなるのか? 視野狭窄または思考狭窄。同じ景色ばかり。同じ思考ばかり。そこから抜けられない。 3347 自分が思うことを相手も同じように思うわけではない。そのことを発見しないといけない。 チョコレートの箱の実験。中に何が入っているか。箱の中は他人の心。 境界例の人たちは、自分の心を他人にも適用してしまうところがある。→他の解釈を最近書いたはずだが、思い出せない。※ ※ 平均とずれている自分の内部感情を、延長して他者を推定する。このようにしてしか、人は他者を推定できない。自分の内部感情の生成が平均とずれていたら、他者の内部状態の推定も間違うだろう。 3348 精神科医は、なぜ自分が正しいと信じられるのでしょうか? 愚か者で、反省が足りないからです。 いつも他人を「判定」する立場にいるので、自分がいかに愚かであるか、反省する機会を持てなくなっているのです。 3349 北川さん。息子が学校で。宿題をやっていかないから、居残りで勉強させられている。そのことを母が非難がましく語る。 人もやっているのだから、いやなこともやる必要があるとなぜ思えないのだろうか? 3350 人間だから、体が辛いと心も我慢が足りなくなる。それは仕方がない。そのことも勘案する必要がある。 3351 ストループ・テストと恐怖症の克服 クモ恐怖症の場合、カードに「クモ」と色つきのペンで書いて、文字ではなく、色を読み上げてもらう。字へのこだわりが薄れる頃には、実物のクモに関する恐怖も薄れる。ワットの報告。十年以上前。 3352 接骨院に見習う! ・背骨が曲がっているということと、症状の発生との間を論理的に説明する必要はない。(何という恐ろしい、論理の欠如であろうか!理性の敗北!) ・治療者にしか分からない情報を握っている。手を当ててみて、「背骨が曲がっている」といえば、曲がっていることになる。それは患者が判断することではないし、信じるか信じないかというだけである。 ・治療行為は、すぐに完治することもない。副作用が出ることもない。それでいい。その程度のことが、患者に求められていることなのだ。 ・副作用が出れば、その人だけでなく、その人と話をする周囲の人たち全部に、恐怖感を与えてしまう。それだけの患者さんを失うのだ。副作用だけは回避する。それが鉄則である。長期間の間に、「あそこの薬は副作用が出ない、いい薬だ。いい治療だ」との評判を勝ち取る必要がある。 3353 他者に話すことで、我々は話の内容の出来事を、追体験している。 ベッドの上でお母さんと、その日一日のことをいろいろとお話しする習慣を持っている子供は、そうでない子供に比べて、はるかに多くの情報を覚えていることが判明している。 復習の効果である。 語ることによって過去を再生し再構成する作業。PTSDの治療でも、それが本質的に必要だといわれる。 回想作業の中でもう一度体験し、今度はうまくやる。自信をつける。そういうことだ。 それはたとえば映画や小説でもいい。傷の体験を消去するに足るだけの、成功体験を与える。 回想することはすなわち、勝利のリハーサルである。 3354 既視感は、幼児の頃のエピソード記憶の断片である。こう書いてある本がある。断定するのは間違いとしても、そのような側面が果たしてあるか? エピソード記憶と、意味記憶の区別についても混乱があるようだ。 体験そのものの記憶(エピソード記憶)と、純化された情報としての記憶(意味記憶)。 3355 フロイトが、現在の症状の原因が幼児の体験にあるという場合。原因となっている体験の記憶は、患者には記憶として残っていない。 トラウマが潜在記憶としての意味記憶という形を取って、時間的にははるか後の、我々の行動に影響力を発揮することを意味している。 出来事は忘れ去るが、後の行動には作用する。エピソード記憶は消え去るが、意味記憶は保持されていく。 (このように意味記憶という言葉を用いることは間違いではないだろうか?どうだろうか?) トラウマは「思い出すのも忌まわしい。」心の中でさえ、それについて語ることを拒否する。故に、エピソード記憶は残らずに、意味記憶だけが保持される。(この書き方でよいのだろうか?)しかし完全に消去されているわけではない。思い出すこともある。しかも出来事を思い出すに至ったときに、トラウマが解決するのだとフロイトは考えた。精神分析のいう治療とは、エピソード記憶を回復させる作業である。 最初は抑圧が解除されないので、語ることにはブレーキがかかる。しかし語るに連れて、潜在記憶から健在記憶へと形を変える。最後には意味記憶に随伴するエピソード記憶がよみがえる。すると心の障害も治癒する。 このようにして神経症が成立し、治療が進行するというわけだ。 このような面はあるかもしれないが、しかし一部でしかないのではないか。 回想することで癒されるのは、回想することが、その体験を「受け入れる」ことになるからだろう。受け入れていないうちは回想を拒んでいるのだ。 そもそも金と時間を費やして治療に通うということは、治療への意欲があるということで、心の中で何とか解決しようと試みている状態である。そして、回想することは、治療というよりも治療の結果である。語ることができたから治るのではなく、治ったから語ることができたのだ。だから、「語ることができたときには治っている」という事情になる。これを因果関係を取り違えて、語ったから治ったととらえているのではないか。 思い出す努力がなぜ治癒につながるのか。 思い出すということは必ずしも過去の体験の全体的な回想ではない。回想は必然的に選択的回想である。自分にとって「都合のいい選択的回想」ができたとき、過去を「消化」「咀嚼」できたと言えるのではないか。 都合の悪い回想ばかりしているなら、それは耐えがたいことであり、思い出したくない。症状に転化してでも自分を守りたいと思う。 なぜ症状になるのだろうか。その必然性が分からない。 3356 人はいかにしてトラウマから立ち直るか。結局は、「忘れるからだ」と答えたいような気もする。 忘れるために工夫する方がいい。 1.物理的に離れる。 2.痛手を受けたこと・ものに関して、devalueする。脱価値化する。無価値であると信じる。解釈を変更する。意味づけを変更する。あの男は悪い男だった、と価値づける。 3.「悪い体験」の上に「いい体験」を上塗りする。恋愛で痛手を受けたら、いい恋愛でうち消す。 4.そのような体験にはまりこんだ自分について、考察を深める。 3357 共依存の形ではまりこんでいる男女。男はギャンブルがやめられず借金を作る。女は借金を肩代わりして払ってやっている。取り立てるあてのない、不良債権となっている。それが350万円。 別れたいというと、「そんなこと言うなんておかしい。頭がおかしい。そんなことあるはずがない」という。金を貸してくれと必死にすがる。涙を流す。そのときにはわたしはこの人を助けてあげなければならないのだという気になっている。 一種の催眠、マインドコントロールのようである。 頭ではよく理解している。悪い男にはまりこんでいると理解している。別れた方がいいと理解している。しかし気持ちは解決できないでいる。 別れたら寂しい。そんな気持ちはある。 彼が転勤で遠くに行ってくれたら、うれしい。それしか解決はないように思う。 金を貸さないと言うと、携帯に電話、家に電話、会社で騒動、と大変なことになる。それは困る。困るという気持ちを見越して、彼は彼女を操作している。 彼女に何をしてあげられるか。多分、マインド・コントロールからの解除の技法になるだろう。 3358 大量の精子の中でどれが卵子と結合できるか。その際に、精子として有利な条件と、出生してからの生存の有利さとの間に関連はあるか? 精子としての優秀さと、出生後の個体としての優秀さとの間には関連はあるか? どの精子でも、おおむねはその個体の特性を反映しているので、あまり関係ないかもしれない。しかし、肝心要の点での優勝劣敗は、大きな影響を与えるような気もする。 何かのメカニズムがあるのではないかと空想することもできる? 精子の中からどれが選択されるかということと、出生後の優秀さとが関連していれば、とても有利ではないか。そのような関連のない個体よりも、ずっと有利であろう。 精子としての優秀さと出生後の優秀さの間に関連がないとしたら、「無駄な淘汰」が一段働いていることになる。 3359 自然法則が不変で平等であるから、医学や天文学や物理学が可能になる。 なるほど。確かにそうだ。科学としての医学には、こうした普遍性と再現性が背景にある。 精神の医学はどうだろうか?普遍性には劣る。再現性は悪い。個別性が強い。個別の中でも、時期によって違うようにも見える。条件は似ていても、結果は異なるといったように、決定性が弱い。原因と結果の結合が、ある程度偶然に支配されているように見える。 それはそのように見えるだけで、人間の知性がまだ及ばないからだろうか。(わたしは個人的にはそう思うのだが) 物語から科学へ。ここでもその道筋をたどるのだろうか。 空想から科学へ。 3360 なぜきれいな顔が好まれるか。 ・心身の健康を意味し、遺伝的優秀さを保証する。発達に遅滞があれば、顔に何らかのサインが出る。病気があれば、表情に現れる。精神的に苦悩があれば、表情は晴れない。こうした諸々のことを顔が表現している。 ・人は主に顔の表情から、他者の内面を読みとっている。ということは、顔のいい人は他者に対してよい感情を配給していることになる。つまり好かれることになる。他者に対してよいメッセージを配給していると(ときに)「誤解」される人(しばしば得をする)が、美しい顔、好かれる顔である。 3361 初診インテークで、面接のセッティングまで終了できないか。診断面接として、何回、1回30分として行うが、二回分をまとめて行うこともできるとか。その場合の料金の説明とか。 他院での心理面接のあり方を見ていると、当院のサービスはダンピングに近いもののように思えてくる。 3362 心気症の構造。パニック、自律神経失調症など、同じ構造をとっている。 ○パニックと自律神経失調症の同型性 ・不安のコントロールが大切。 ・若い人にパニックが多いのは、不安の敷居が高いので、きつい症状となって出る。老人になると、不安の敷居が低くなって、マイルドな症状で苦しむ。 3363 デパートに学ぶ経営戦略。 ○顧客ターゲットを絞る。 ・プランタンは若い女性にターゲットを絞った。一番ではなく、唯一。特色を出す。イベントを打った。買い付けするときもターゲットがはっきりしているからはずれがない。従業員の服装や髪型まで、ターゲットに好感を持たれるように考えた。 ・ターゲットを絞ることはできるか? 軽症・早期の例。 家庭がしっかりしている。 治療に意欲を持っている。 社保。国保。生保は不可。 子ども 若い女性……自律神経失調症。うつ。S。 子育て中の女性……子育ての悩み。 老いた女性……自律神経失調症。うつ。ときどき痴呆。 若い男性……うつ。S。薬物。 老いた男性……うつ。 例えば、「神経症のデイケア」というように絞り込む。谷間の発想。 ・この中で、やりたいのは? 子ども パニック 自律神経失調症 神経症 うつ Sをどうするか? ・必要性が高いのは?→需要が多いから、繁盛する。 パニック専門外来の赤坂クリニック。インターネットで宣伝。これが一つの例。 自律神経失調症→心療内科の看板に適する、カウンセリングと自律訓練法。 「心と体のクリニック」という言い方でよいか? メンタルには行きたくないが、どこかで相談はしたい→メンタルとの差別化→メンタルっぽい人に遠慮してもらう。でも、それではどうか?メディカル・マインドの問題。 ・適さないターゲット きたない わがまま 病識がない 家族の理解が足りない 要するに、他人の迷惑になる人 ・何で唯一になるか?他ではまねのできない「ウリ」は何か? 知性。 治療システム。 説明の方法。図表。プリント。 漢方薬ミックス。 心療内科専門医院。→心理テスト、自律訓練法。注射などの分裂病臭いことはしない。心電図などの身体の検査も、心療内科らしくない。 最大のウリは、「丁寧なカウンセリング」。 ・イベントを打つなどして、イメージを浸透させることはできるか? こころのくすり箱で専門性をアピール。 こころのくすり箱で人柄をアピール。 専門外来として、枠を決めて、アピールする。十種類可能。 ・ターゲットに好感を持たれるにはどうするか? 受付を頻繁にあけるのは問題がある。 同時に、面接を頻繁に抜けるのは問題がある。 服装。 髪型。化粧。変な靴下。 予約制の問題。 知人に会いたくない。 ○紹介患者が多い。その中でつながらない人もいる。→方法はあるか?少なくとも、紹介元に悪い印象を残さないように工夫する。 山崎松江。 ○待ち時間の問題 ・他人の特別扱いを見ると、嫉妬を感じる。それはまずい。どうするか。 ・必要に応じて時間をかけている。時間が長いのは、必要だからだ。えこひいきではない。時間が短いのはその人が嫌いだからではなく、必要がないからだ。そのことを理解して欲しいのだが。→余計な言い訳をせずに、まじめにやるしかない。 3364 公文式を、応用する。行動療法も公文式も、つまりは学習理論だろうから、共通である。パニック障害の克服プログラムに応用できる。 できるところから、大量に反復。それが意欲と自信を生む。意欲と自信は集中力を生む。このようにして、理解と習得に加速度がつく。 「どうしてできないか」ではなく、「何ならできるのか」を明らかにする。 できるところまでを反復して確実にしているうちに、その先の所が理解できるようになってくる。 量をこなすことが大切である。これも役に立つ。面接で一度いえばわかるわけではない。繰り返すことが必要である。 学習内容は、時間が経てば減衰していく。減衰を防ぐには、再学習することだ。再学習は、初めての学習ほどは労力がいらない。 公文のチェックシート、進歩シートが役立つ。現状と目標が目に見えるようにする。 3365 老人、病人、美人。 こうした分類項目の意味するもの。 3366 「アダルト・チルドレンと癒し」西尾和美著、学陽書房 ●事の原因を外部に帰属させて納得するのは、本当は賛成ではないが、しかし、原因が何であれ、自分を変えなければならないと決意していれば、問題はないだろう。 ●外部原因説であるが、しかし核家族制度が前提になっているのではないか。集団の凝集性が高い状況では、また違った様相を呈するのではないか。ついこの間まで、個の確立などといったことを課題にしていたはずである。個の確立とは結局、経済的に豊かになって、他人に依存することなく、自分勝手に振る舞い、その結果破滅しないですむ、そのような下部構造が用意されれば、自動的に発生するものであった。自分勝手にやってもいいとなれば、自分勝手にやるものなのだ。その場合に、自分の勝手が相手の迷惑になるかどうか。それは本当に迷惑なのか。他人を尊重するためには我慢すべき事なのか。そのあたりの教育が、個の確立と関係しているだろう。 ○自分はキズモノだという思い。→自尊心の回復。 ●何か微妙に、思考のずれがあるように思われる。 ○とんでもない事態にはまりこんでしまったという、狭窄感。 ●マインドコントロールに似ている。まさに認知訓練が必要である。思考のコペルニクス的転回が必要。 ○自分は他のみんなとは違っているという思い。 ●このあたりも、自分が他人とは充分のつながっていないことを示しているのではないか。マインドコントロール(のようなもの)の結果として断絶しているのか、あるいは内的な特性として断絶があるのか。 ○他人の問題にのめり込む。他人の世話に夢中になる。他人がとるべき責任を自分がとる。結果として相手は無責任になる。 3367 「アダルト・チルドレンと癒し」西尾和美著、学陽書房 ○他人をコントロールしようとする。 ●これには表と裏がある。(表)彼がわたしを支配している。(裏)わたしが彼を支配している。 ○相手に幸せにして欲しいと思っている。 ●自信のなさ。しかしこれが根本的な行動パターンである。 ○表面的には有能。→内心自信がない。自己評価が低い。相手にしがみつく。→ますます自尊心が低くなる。 ●こうした悪循環はいけない。自分をだめにする。 ○長所を見つけて、体験を再構成する。(リフレイミング)。自尊心を再び育てる。 ○優しさと愛に飢えている。健全なモデルがない。→だから変な男に引っかかる。 ○自分で自分を守ってあげる。 ●この言い方の延長で、解離を促進してはいけない。しかし、自分が真に守るべきものは自分である。 ○アファーメーションの技術。この関係の本を読んで、エンハンスする。 ○自分のために手紙を書く。1.状況を書く。2.自分の気持ちを書く。主語は、「わたしは」。3.相手にあてて、冷静な手紙を書く。いずれの手紙も、出さなくてもいい。場合によっては出してもいい。 3368 「アダルト・チルドレンと癒し」西尾和美著、学陽書房 ○自分にとって重要な人物に認められることが、自分が自分を肯定するための大切な条件である。 ○わたしは親に気に入られたいから、子供を虐待した。 ●このようなタイプの虐待もある。親からの悪い影響は、過去になっていない。現在である。 ○一人でやっていける自信をつける。 ○他人に幸せにしてほしいと希望している。 ●この裏には、自分自身で幸せになる方法が分からないことがある。よいモデルがない。 ○自分からは彼を見放したくないと考える。 ●これは彼のためにもならないし、自分のためにもならない。 ●過保護→ストレス耐性トレーニングができていないということだ。教育は、魚を与えることではなく、魚の釣り方を教えることだ。そうすることは実際的にも重要だが、自尊心を育てる点でも重要である。希望に応じて魚を与えられる子供は自尊心を育てられない。惨めなだけである。自分が希望することはできるが、結局は他人の顔色をうかがっていなければならない。釣りの仕方を覚えた子供は、自尊心を育てることができる。自分の欲求に従って、自分で結果を出すことができる。欲しかったら釣ればいい。釣れなかったら努力すればいい。 ○親は自分が子供のモデルであることを意識して振る舞う。 ●これは診察室でも同じであろう。患者にどのように振る舞うか、それがそのままモデル学習の機会を提供している。 ○自分の癒しがまず大切。 3369 「アダルト・チルドレンと癒し」西尾和美著、学陽書房 ○解決ではなく、改善でよい。少しでも改善する、それを目標とする。 ●それだけで患者は癒される。クリニックでの方針としても大切。 ●自分のことを本気で考えてくれる人がいると実感し信じられることが大切。 ○健全なコミニュケーションのモデルを提供するチャンスである。 ○自分ので気なかったことや、自分の期待を子供に託して、子供を通して生きるようなことはやめましょう。自分の癒しと自分の幸せに責任をとって、子供は別個な人間であるという考えをもって接しましょう。 ○アファーメーションについて。 1 自分の中の宝石を磨く 2 自分の世話をする 3 ほめ言葉のない人に、ほめ言葉を求めない。(自分の努力が足りないんだ、自分がもっと頑張れば相手は分かってくれる、変わってくれると信じていても無駄。) 4 きれいに拒否される。拒否されても、胸を張って前進する。 3370 なぜあのような人を選択したのか。 配偶者選択の問題。 そこには人生の縮図がある。あぶり出しでもある。 3371 「安全な場所」というキーワード。 1。パニックの場合。 2。アダルト・チルドレンの場合。 どちらも共通のものがある。 単に言葉の重なりだけだろうか? あるいは、不安の共通経路ということで、最終的に同じような結論に至るのだろうか。 3372 不登校。 社会の序列の中で、自分の位置を受け入れることができない。 サル山のサルを語るような言葉であるが、実際そのようなものだから、仕方がない。 家庭での自分の位置と、社会での自分の位置とが大きくずれている場合、学校での自分の立場を受け入れ難く思うのは、無理もないことである。 社会の中での待遇よりも、家庭での待遇が悪ければ、それは社会に出て行く圧力となる。たいていはこのパターンになる。仲間と遊んでいた方が楽しいのだ。家庭は子供のためにあるのではなく、親のためにある。 逆に、家庭の方が居心地がいい場合。これだと社会に出て行く圧力にならない。 また、女性の場合には、家庭での序列、勉強社会での序列、友達付き合いでの序列と、男性よりもさらに数の多い価値基準の中で生きるようになる。ここで混乱も生じるし、また逃げ道も生じる。 単純化して言えば、勉強ができなくなったから不登校になるという場合が多い。 最初から勉強以外の価値観の中で生きている子供ならば、勉強にはついていけないけれど、学校には行くということができる。 しかし自分にも原因不明で勉強が頭に入らない、努力しても駄目。その時点で絶望的になってしまう。まあ、無理もないことである。 3373 手が震える人。 ・人間の手は、動いているか静止しているかのオール・オア・ナッシングではない。震えについていえば、どの程度かは場合によるが、必ず多少の震えはある。 ・震えと不安は悪循環を形成している。 ・不安が高まれば、震えを見ている虫眼鏡の倍率が上がる。倍率を上げれば必ず震えは検出される。検出されると「ああやはり震えていた」と、不安が検証され、不安は高まり、虫眼鏡の倍率が上がる。するとまた震えは必ず検出される。 ・不安→虫眼鏡の倍率が上がる→震えが検出される→不安が検証され、高まる→虫眼鏡の倍率がさらに上がる。こうして悪循環が形成される。 手が震えてもいいじゃないか。目的本位で生きていけばいい。 1998年7月24日(金) 3374 共依存。 ・「いつか捨てられるという不安。劣等感。」を抱きながら、女に金を無心する。 ・必死で頼られると心地よい。 ・自分の幸福のために生きられるように。それが精神療法の中心。 ・でも分かっているんだけど、何回もいわれると自信がなくなってしまう。たとえば「1+1は本当に2でいいの?」と何度も訊かれると、自信がなくなる。そんなことってあるでしょう? ・いつか捨てられるという不安があるから、どこまでなら捨てられないですむのか、確認したくなる。そこで、わざわざ嫌われるようなことをしてみる。ぎりぎりまで試してみたくなる。相手は腹を立てながら、なぜこんなことをするのだろうかと疑問に思う。この時点で、相手が正常ならば、見捨てている。しかし、見捨てないような人たちがいる。その場合に、共依存の形となり、お互いに憎しみ合いながら、離れられない。被害的に思いながら、支配し合っている。 ・支配し合う関係。支配の軸が違うのではないか。一元的な軸しかないならば、どちらかが支配して他方は支配されるはずである。しかし、二軸ある場合には、支配されつつ支配することが可能になる。お互いにとって「必要」ということになる。この場合の必要とは、支配者にとって被支配者が必要ということだ。 3375 母と子の病理。 期待の病理 愛情と別のものとのすり替え 母子癒着。 渋谷さとみ、山中、真ん中分け君(太田行哉)、皆同質である。母親の病理である。 母親が期待する。子はそれに応えられない。ここから病理が始まる。非現実的な要求を子供に突きつけてしまう。 原因は、「母親の現実把握が悪い」ということに尽きる。自分の願望と現実の区別ができていない。願望通りにさせようとして、子に努力を強要する。しかしできないものはできないのだから、限界が見えてくる。しかしその妥協がいつまでたってもできない。 母親は「なぜ期待に応えないか」と攻撃性を抱いている。「この子のためだ」と思うことで、攻撃性は愛情の衣装をまとう。親の責任とか、親の愛情とか、言ってはみるが、実質は、子は親の満たされない欲求を満足させるための道具となっている。表面に見えているのは攻撃性である。 ここで母親が、「お前は駄目だ。これ以上期待しても無駄だ」と断定してしまえば、それなりに傷つくけれども、子は「期待の病理」からは免れることができる。母親が妄想から目を覚ますことが必要である。 子は期待に応えようとするが、できない。できない自分を受け入れることができず、症状に逃げる。 子は怒りを内在させている。自分に対して怒り、親に対して怒る。しかし怒りを抑圧しなければならない。親は自分のためを思ってくれているのだから、そのことに反抗することはできない。 攻撃性を抑圧することで、現代型のヒステリー反応が起こる。 学校に行こうとすると腹痛が起こる。親に何か言われるとパニックが起こる。学校でストレスが高まるとパニックに似た発作を起こす。 親は、ただ言えばいいだけだ。自分がすることではないから、努力に上限がない。子供はどれだけ努力すればいいのか。母親が納得するまで、終わりはない。能力が追いついていかないから、できない。 親は、自分をコントロールすべきだ。子供を過剰にコントロールすべきではない。 ここに癒着がある。それは誰の喜びなのか。誰の責任なのか。 「努力」に対する幻想があるかもしれない。努力すればなんとかなるはずだと幻想している。 3376 いい子を演じることをやめられない。苦しいのに。なぜか。 「こんなに辛い。助けて」と母親に言えないのはなぜか? 3377 子の問題。その原因として母が問題の場合がある。ひいては父が問題の場合がある。母親と父親のケアができれば、子の問題が解決する場合がある。 大きな意味で、環境調整である。 3378 「アダルト・チルドレン」完全理解 信田さよ子 三五館 ○人間関係の回復がないと酒はやめられない。アルコール依存症を人間関係障害として見る。 ○アルコールの治療に関わる人のほとんどが自分をACだと思った。これは自分のことだと思った。だから、広がった。 ○関係の病理。本人の人格に問題があるのではなく、本人を取り巻く人や者との関係の持ち方に問題があるとするとらえ方。人との関係で満たされない寂しさや空虚感を、ハマる快感にすり替えていく、そしてそれが習慣になる。これが嗜癖の本質である。 ●嗜癖の人間関係は、(たとえば、青木さん)対人関係というよりは、嗜癖に分類すべきものだ。ウソの対人関係といってもいいだろう。 ○父は仕事を熱心にやる。母は良妻賢母をやる。子供は親孝行でいい子をやる。それぞれが一所懸命に機能している。その果てに起きてくることが、機能不全である。みんながよかれと思ってやっている。 ○機能不全とは、安全感のない家族。安全な場所を提供できない。 ○世話をやく人との関係に嗜癖している。「自分がいないと生活できない人」に仕立てる。それで夫を支配する。これが関係嗜癖。 ○支配される人は、支配する人に苦しみながらも、離れられない。その関係を抜け出すことが、孤独になることを意味するから。 ○ケアテーカーと一緒にいると、私たちはどんどん自立の能力をそがれていく。自分のことをする能力が退化する。 3379 「アダルト・チルドレン」完全理解 信田さよ子 三五館 ○ACの洗い出しリスト。孤立感、極端な自己評価の低さ、愛と同情の混同、怒りや批判への脅え、自分の感情に気づき表現する能力の欠如、自己肯定感のなさ、絶望的なまでの愛情と承認の欲求、など。また、別の例では、孤立感、自己非難、失敗することの恐怖、承認されることの欲求、コントロール(支配)することの要求、頑固さ、一貫性のなさ。 ○これらの中でもっとも本質的なのは「自己承認への欲求」でしょう。「居場所のなさ」の感覚、「生きていてもいいのだろうか」という感覚。 ●卑屈になることによってようやく自分の居場所を確保している人も多いのではないか。そんな人たちは、自分の居場所を得るために自分がどんなに卑屈になっているか、自分の人生をどんなに台無しにしているか、そんなことも忘れている。その感覚が大人ということだと心得ている。 ●「おなたがたと同じように惨めで卑屈になる覚悟がある」と証明した者のみが、集団への入会を許される。そのようにして、卑屈さが保存される。愚かな者たちである。 ○わたしのような者が生きていていいのだろうか。わたしがいるから両親の仲が悪いのではないか。わたしが悪い子だから、こんなにいわれるのではないか。この世にいてはいけないのではないか。 ○周囲の期待に自分を合わせるだけの人生を生きてきた場合、自立して自分がどう歩んだらいいか分からない。 ○自分の原家族の話をすること。 3380 「アダルト・チルドレン」完全理解 信田さよ子 三五館 ○経済力を持つことと自立することとは必ずしも一致しない。 ○「安全な場所」を確保すること。わたしもここにいていいんだと感じられる。→指定席。予約。挨拶。自分がいないことに誰かが気づいてくれる関係。 ○経験をストーリー化する。何度も話していると、少しずつ変化する。新たに記憶が蘇る。親についての新しい発見がある。そうしたことでストーリーは変わる。 ○現在の自分が安全感を感じていることで、消されていた記憶が甦る。 ○他のメンバーが、共感を持って聞いてくれる、誰からも批判されない、涙を流してくれる。現在の自分を受け入れてくれる場所があってはじめて、自分のことを語ることができる。 ○「そのときだけは、彼はわたしを必要としてくれる。」親に捨てられるのではないかという思いがずっとあって、その代わりを夫に求めていた。 ●夫に何を求めるか。その淵源は親にある。「鋳型」が問題。 ○三世代の関係を並べたとき、@夫婦関係、A対子供関係、B対親関係の順で優先されるべきである。これが混乱すると、家族機能不全が生じ、子供の傷つきが生じる。 ○「あんたを支配するわよ」と言いながら、「あんたが言うことを聞かないとわたしは死んでしまうよ」と脅す。ACはみんなこの伸縮自在の親の術中にはまってしまった。 3381 「アダルト・チルドレン」完全理解 信田さよ子 三五館 ○アメリカでは父親からの性的虐待や暴力が多い。日本では、多くが共依存的な親との関係によるもので、「あなたを愛しているわ、期待しているわ」という親の支配によって生み出されるACである。 ●「羊たちの沈黙」は父からの性的虐待の話という! ○いまだに親がわたしの中に住んでいて、愛情という言葉でわたしを縛っている。 ●確かにこの手の親は性悪だ。いい人の衣をまとっている。愛情の衣をまとっている。しかしその実体は支配であり、攻撃である。優越したいとする欲望である。いやなものだ。 ○日本の場合、親は外にいるのではなくて、自分の中に入り込んで、愛情という衣をつけて居座っている。 ○自分の人生を語るときの主役が親ではおかしい。本来なら、自分の人生を語るには自分が主役でいいはずである。しかしそうならない。親の人生を支えていたのだから、主役になるはずがない。 ○自分と親のストーリーを他人に語り、少しずつ親が収縮し、自分が主役のドラマを作り直す。親と訣別する。 ○インナーペアレンツに支配されて、親の人生の共演者になっている自分が、自分の人生の主人公になる。 ○親を自分の人生ストーリーの一登場人物にすること。 ○こうするためには、自分が作ってしまっている親とのドラマを語り続けること。語り続けるうちに、ドラマのストーリーは必ず変わる。そして、語ることのできる安全な場所を求めること。 ○困った状況に陥っても、可能性を信じることができる。その場にいる人は、どんな人出も意味がある。だからすべての人を位置づけなければならない。過去ではなく現在と未来。「いま・ここで・新しく」。考えるよりも行動する。動きながら考える。 3382 「アダルト・チルドレン」完全理解 信田さよ子 三五館 ○サイコドラマでは、普段言えないことが言える。普段分からないことが立場を変えてみて分かることがある。劇だから失敗してもいいし、やり直しがきく。 ○暴力を振るう夫には耐える妻がくっつく。世話を焼く人には依存したい人がくっつく。しがみつきを愛と錯覚したカップルがまた誕生する。これが共依存と依存症の夫婦である。支配する・されるの関係が貫いている。自分をACだと自己認知することで、この鎖を断ち切ることができる。自分が生まれ育って身につけてきた対人関係がゆがんでバランスを欠いていると自覚すること。親になりたがらない人もいる。自分が親から受けたものを考えると、親になるということがとても恐ろしい。自分のような存在をもうつくりたくない。 ○親の問題が整理できたときに、夫婦の見方が変わる。親の問題の整理がつかないことを、配偶者との関係に移しかえて解決をはかる場合がよくある。父に求められなかったものを夫に求める。母に求めて満たされなかったものを妻に求める。こうした期待は配偶者に親を期待することであり、当然夫婦間では過重である。それが満たされないのが不満となり、夫婦の不和になっている場合がとても多いと思われる。 ●異性の親に求めて得られなかったものを異性に求める。これはエディプスの発想か?世代を違えて、欲望が成就する。自分が親になったと考えてもいい。 ○ACはなんでも人のせいにしているといわれるが、人のせいにすればいいと思う。人のせいにできなかったから、ここまで苦しかった。自分であまりにも過剰に背負い込んで、自分の存在までも余分じゃないかと思い、生まれてきたことも申し訳なかったと思う。人のせいにするどころか、自分を肯定できなかった。 ●なるほど。そういう人もいるだろう。しかしそうでない人もいる、と頑固に考える。そこが難しいところだ。こちらの目も、日々変化している。 ○ACという言葉は、親の影響、親の支配、親の拘束といったものを、認める言葉。「あなたの責任ではない」と免責する言葉。 3383 精神科医の独りよがりで視野の狭い理解。これほど患者を失望させることはない。自分は所詮は理解されないのだと思ってしまう。精神医学は自分を抑圧するものでしかないと思ってしまう。 しかしながら、そのように判断してきた精神科医も、浅薄な別の精神科医によって、「病気だからどうしようもない」とレッテルを貼られて、おしまい。 精神科医が診断をしてレッテルを貼ることも、支配の一つの形である。ここから生じる外傷体験を語る人もいる。分裂病だといわれた。躁うつ病のはんこを押された。 これは支配である。ここにもACの発生する温床があるだろう。 一般の弱者に対して権力を行使する。この点では精神科医は小役人のようなものだ。 3384 パニックや恐怖症の形成を、アドレナリンと、アドレナリンレセプターで説明できないか? また、仮にそうだとすれば、アドレナリン・ブロッカーが、治療に有効なはずではないか? アドレナリンの大放出というエピソードは、レセプターを増やして、かえって過敏にするのではないか?(ここはドーパミンでの、分裂病と似ている。履歴効果。大放出にさらされると、かえって過敏になり、再発作を起こしやすくなる。) そのことは、再びの危険を回避する効果があるだろう。また、そのような危険に二度と近付かないことは、生存に有利だろう。 βブロッカーは有効だろうか。 慢性にアドレナリンが高い状態とは別なのだろう。その場合には、ダウンレギュレーションが起こるだろう。 一時的に過剰なアドレナリンにさらされる。そのことによる変化が、恐怖症であり、パニックであり、不安症である。 体質としてアドレナリンレセプターが増えやすい人がいるだろう。 また、体質として、レセプター量の調節ができにくい人がいるだろう。 また、アドレナリンレセプターと言っても、体のあちらこちらにあるだろう。「どの部分の」、という議論も大切かもしれない。 3385 会社でのストレスのチェック。「すぐ開始」。 す 睡眠 ぐ ぐったり(疲労) か 家族・同僚との会話 い いらいら し 仕事の不調 3386 好感度 信頼度 広告 医院経営の要素。これらをどのようにミックスさせていくか。 3387 子供らしい子供時代が子供には必要ではないか。 過度に大人であったということは、ほめられるべきことではないようだ。 子供らしくすることを許されていなかった。家族の配置として。また、経済的条件として。 子供らしいわがままや依存は拒絶されていた。そして拒絶の場面が明瞭に記憶されている。拒絶でない場面も多々あったのだろうが、現在回想可能なものとしては、拒絶の場面が鮮明である。そのような傷として、わたしの中に格納されている。 失われたものはもう失われたままなのだろうか。何らかの方法で、代償可能なのだろうか?償うことができるのだろうか? わたしはわたしの中に生きている自分のために、自分の人生のために、償いができるなら行いたいのだ。 子供時代の喪失と言えるだろう。何か大切なものを失ったままなのだ。 過剰に分別があった。分かっていた。だから自制した。そのようにして周囲を助けて、自分を殺した。犠牲にしたのである。 その苦しさをもっと発散してよかった。 甘やかされたという財産を持つ人が、人を甘やかすことができるのではないか。言葉のよい意味で。 3388 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・他人のための自分。自分のための自分。 ・「犠牲者物語から英雄物語への転換」。聞く者に「危地をくぐり抜けた者のゆとり」を感じさせるようになる。それとともに、話は現在のことが中心になってくる。 ●他人のための自分でしかいられないのが共依存である。 ・被害者は、そのような被害にあってしまう自分というものへの自信と肯定感も失う。 ●自信、自尊心、自分はいいのだという感覚。これが傷つけられたままでいる人は多い。しかも、そのことに気付かないでいる人も少なくない。そんなにまで自尊心を傷つけられて、それでも別れられない、だって、寂しいから。 ・戦場で傷ついた人が、また戦場に赴く。自分ではコントロールできなかった状況での心の傷を、自分の身を同じ状況に置くことによって再現し、それによってその状況を自分の医師と力で今度こそ支配しようとする試みと解釈されている。 ・トラウマが人生を支配するとき ・H.クリスタル「災難症候群」 @コミュニティ・サポートを利用する能力の低下(孤立化) A絶望感を伴う慢性・反復性の抑うつ B心身症・不定愁訴 C感情反応の遮断 D失感情症 ●孤立に至る背景には、「わたしが悪いからだ」という罪悪感が微妙にあるのではないか。 3389 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・憎しみへの嗜癖(クリスタル)‥‥どこへ行っても誰と会っても、他人への不安や怒りに圧倒されて、人間関係を作れないまま人生から逃避する結果になる。 ●不安の増大に対処する方法として、憎しみを採用している。 ・虐待された人は、自分の中の攻撃性を調節する能力、あるいは他人からの攻撃に対する不安を調整する能力が弱まっている。 ●自分も身に染みて嫌なことだと分かっていながら、相手に暴力を振るってしまう。自分が傷つけられたのと同じ仕方で相手を傷つける。このようにして、不幸が再生産されている。これはなぜなのか。かっとして、相手を傷つけたいと思うとき、それが心底のものであれば、自分がもっとも傷つけられた方法で相手を傷つけたいと思うだろう。怒りの瞬間にその人は相手を完全に滅ぼしたいと思うのだろう。それが攻撃性というものではないか。 ●攻撃した後も、また平常の付き合いが続く。これも問題を複雑にしているのではないか。そのような攻撃性を向けた相手とは、もうそれ以後は平常の付き合いはできないだろう。しかし人間社会はそれを許さず、いろいろな形で付き合いが続く。これは人間の本性と社会の仕組みが合致しない例ではないか。 ・次の世代の子供を安全に育てること以上に有効な精神医学的予防策はない。 ・家族という危険地帯。 ・虐待される女性。「ここで妥協すれば、あの人が優しくなるかもしれない」という幻想を捨てきれない。 ・被虐待女性に共通するのは、自尊心のなさ、自己評価の低さ。 3390 川口親子のケース ・夫婦の溝。八歳違い。夫は甲府の大学で英文学教授。甲府と茅ヶ崎で二重の生活。愛情薄れ、性交渉もなし。金は主人の親が援助し、妻に直接わたされる。妻は誰に相談することもなく、自由にその金を使う。洋服や靴が増える。妻は会社役員の子供で、元来裕福だった。 ・妻の母は子育てに命がけの人。子供をいい学校に入れることに熱中した。 ・見合いで望まれてした結婚。その時も、玉の輿と周囲に言われ、親も勧めてくれた。恋愛感情といったものは希薄で、こんなものかと思っていた。 ・夫の親が破産。現在住んでいる家も、売却の予定。300坪の敷地に150坪の家。もうこれからは「普通の生活」をするしかないという「絶望」。 ・セックスには興味がない。子供のために、夫と仲良くすること、そのためにはセックスも必要というのなら、いくらでもする。 ・主人には物足りない思いを抱いている。大学の先生の給料はたかがしれている。 ・君は半分は親と結婚したようなものだね、と夫にいわれる。 ・そうした夫婦のあり方の不満のはけ口として、子育てに熱中する。日能研に行かせる。上の姉はうまくいった。下の子はつまずいた。 ・子供にしてみれば、「優しい暴力」である。「がんじがらめ」「逃げ場のない強制」である。あなたのためなら何でも、と言われて、成果が上がらないと、申し訳ない。 ・成績を上げることを強要されている感じがある。 ・子は親の悩みを不登校の形で悩み、親は子の悩みをうつの形で悩んでいる。それぞれが自分のことを悩めば問題は解決するだろう。 ・子供。キャンプに行って、みんなと寝られない。それで急遽帰ってきたことがある。 3391 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ●そこまで踏みにじられて、どうして?との感想を抱かざるを得ない。洗脳されたような印象。催眠術にかかっているような。なぜそんな事態から抜け出せないのか。 ・自尊心のなさが生む共依存。 ・共依存の本質は、「人に必要とされることの必要」です。自分にとって大切な人から、「あなたがいないとわたしは生きられない」と言われることで、自分の存在がはじめて承認されたように感じるところから、共依存者的生き方が始まる。 ●「わたしの生きがいはわたしだ」こう言い切ることは、古い世代の女性にとっては抵抗があるだろう。しかし、「わたしの生きがいは夫だ」といえば夫が窒息し、「わたしの生きがいは子供だ」と言えば、子供が窒息する。「私たち夫婦の生きがいは子供だ」と言えば、子供が窒息する。自分が自分のために生きて欲しい。他人にかかわるときは、全く報酬を求めない心であたって欲しい。 ・人に必要とされるための手っ取り早い方法は、その人の世話をし、情緒的な支えになって、その人が自分なしではやっていけないところまでもっていくことです。 ●なるほど。そういうものだろう。実例はたくさんある。 ・自分が一人になることに(あるいは自分で自分を直視することに)耐えられないために、他人に頼られる必要を感じてしまうところに共依存者の問題がある。つまり自尊心ないし自己確信の問題と関連している。 ●見捨てられて辛い経験をしてきた人は、一人になることを見捨てられることだと思ってしまう。他人に肯定されて育ってきた人は一人になっても、他人から肯定されている感覚を持ち続けることができる。 3392 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・自己に対する否定的感情を持っている人が、人に頼られることでこうした否定的感情を感じないように、考えないようにするところに共依存の核がある。 ・自己というものをそのままでは評価できないから、あるいは自己の感情や行動に確信が持てないから、自分から人を愛し接近するなどという大胆なことはできない。そのかわり自分を頼ってくる者、すり寄ってくる者の世話をして、いよいよ自分を頼るように仕向ける。 ●根底にある自己不確信、というわけだ。そうだろう。そうでなければ、あれほど自尊心を傷つけられて、平気でいられるわけがない。それでも離れないでいることが全く不可解である。しかしその人の内部では、帳尻は合っているのだ。 ・あたかも「弱い女性」の生き方のように見えるが、実際は、共依存はパワーとコントロールのための手段である。人を頼らせ、自分から離れられないようにして、相手を支配し、ペット化する。 ・支配するために相手に尽くす。 ・結果として相手の自立能力は削がれ、相手もまた、自己を確信できなくなる。 ●子供が登校拒否をした。親がすべきことは何か。子供の事情を子細に探ることではない。まず自分を正常化することである。子供を愛情という名の檻から解放することである。 ●「やはりわたしでないとだめなのね」と言いたいのだ。 ●セックス場面での支配と被支配、依存と被依存がこうした関係の原型かもしれない。少なくとも、事情を明確化するための比喩としては分かりやすい。 ●相手をだめにすることが、自分の利益になる。そのような事情。 3393 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・日本女性のほとんどすべては共依存。そのように長い時間をかけてしつけられ教育されてきた。 ・そうした教育は家庭や学校ばかりではない。漫画、ドラマ、ポップスの歌詞に至るまで、共依存のすばらしさを歌い上げている。 ●実例を探せば面白いだろう。 ・女性が自己確信的になること、自己の幸せを守るためだけに自分の力を使うことを薦める歌はほとんどない。 ・日本では特に共依存の病理が見えにくい。 ●共依存は二人でだめになる病理である。 ・回復の目標は相互に対等な親密性である。 ・本来の自分の判断を否定したり隠したりする。自分の感情に不誠実で、それを否認する。 ●頭の切替が必要だろう。昔の言葉で言えばパラダイム・チェンジである。否認することが正しいことだと教えられてきたのだから無理もない。問題は根深い。 ・「他人に批判される」ことを恐れ、結局は離れられない。 ・周囲の人間にもこうした形での「他者への配慮」を求める。 ●息苦しさの中で一緒に窒息していなければ気が済まない。他人だけが深く楽々と息をしているのは耐えられない。 ・自分の世話を受けている他人は、自分の仕事・役割に感謝し、少々の問題があってもそれを表面に出したりせずに、自分の支配下にいなければならない。典型的には親と子。共依存は支配と被支配を形成する。 ●親の愛という形での支配力である。 ●植物には水も必要だが、空気も必要だ。水をたくさんやればいいわけではない。 3394 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ●それは支配なのか愛なのか。親密性なのか強制なのか。親のためなのか子のためなのか。 ●親のために子が悩み、子のために親が悩んでいる。なぜ各々自分のことを悩んで解決しないのか。親子で境界を越えているところがある。 ・共依存者は他人の感情と自分の感情とをはっきりと区別することができない。相手が沈黙したり不機嫌そうな表情をしたりすると、自分が何か相手にとって不本意なことをしたのではないか、そもそも自分に欠陥があるのではないかと不安になる。 ・他人が感じる感情と自己の感情とを切り離せないために、例えば、自分の愛する者が自分以外の者に惹かれるとき、彼らをそれを受け入れることができない。共依存者の利他主義は、実はこうした自他の区別の曖昧さから生じている。 ・親密性の根底にあるのは自己肯定の感覚である。自分は自分という自己肯定が、彼らにいきいきとした感情生活を与え、シラフの生活そのものを楽しむ能力をもたらす。 ●「生きていくのには他人が必要」。この文章の意味内容が多様である。共依存的生き方の表明ともなりうる。また、著者の言う親密さの意義の表明ともなりうる。他人なんか必要ないということではない。他人なんかどうでもいいとか、道具に過ぎないとか、利己的になれとか、そんなことでもない。共依存は、見かけは利他的であるが真実は利己的だ。 人間は心底は実は利己的なのだから、その上に立脚して、他人を傷つけない生き方を探すべきだ。利他的なふりをして、実は他人を支配し傷つけ続ける生き方はよくない。 ●過剰な一体感は実は誰かの支配であり誰かの利益になっていないか。そして陰湿な強制力が働いていないか。オープンでない湿った感じ。 3395 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・男女関係はいつでも大人・子供関係へと堕落する危険をはらんでいる。 ●男女関係をとることができない場合には、あるいは面倒な場合には、親子関係をとってしまう。妻に対して子供と同じ立場で接している夫は少なくない。 ・自分の男性性に自信のない男がマッチョを気取る。暴力に至る。男が謝罪し、愛を告白し、女がそれを受け入れる。そのようにして始まる関係は、そのスタートの時点から男のプライドを傷つけることになり、我慢を強いることになる。彼の怒りは関係を結びなおしたその時点から、再び蓄積しはじめる。暴力男が自分を抑制し、静かにしているときこそ、暴力の欲求が蓄えられているときである。 ・なぜ逃げ出さないのか。 ●実にそれが不思議だ。 ・暴力から逃れるシェルターにたどり着いたとしても、女たちは言う。「自分がいないとあの人はやっていけなくなる。死んでしまうかもしれない。かわいそう」「置いてきた子供が心配だ」 ●だからこそ、嗜癖のパターンという。 ・まず教育プログラム。次にグループ療法。 ●これは大切。デイケアでもこれをきちんとすればよかった。 ・頭では分かっている。しかし離れられない。それが嗜癖。 ・嗜癖をやめられるのは、底をつき、死ぬか、別の生き方をはじめるかの選択を迫られるときだけ。 ●この現実を直視する必要がある。 3396 自分の人生を自分が信じる。それで充分だ。誰にも決めて欲しくない。他人に何が分かるというのだろうか。最終責任は自分がとるしかないのだ。だれも自分の人生を代わりに生きてくれるわけではない。 3397 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・夫婦間暴力、近親姦、児童虐待は、家庭の外に出ない。家庭内の権力者による権力の濫用である。加害者たちは、家庭の外で体験するパワーの欠損を、家庭内のこれらの行為で代償している。 ・そうした危険な場所の中で心理的に破綻しないでいられるためには、病的な心の防衛法に頼らなければならない。こうしてものをいつまでも使い続け、問題の解決が引き延ばされるうちに、子供たちは次の世代の加害者や被害者に仕立て上げられる。 ・夫婦間暴力の場合、子供たちが、繰り返される暴力の目撃者の役割につく。あるいは母親の情緒的不安定の影響を受けながら育つ。 ・夫婦間の暴力の場面は次には愛着の場面に切り替わる。これが親イメージのまとまりを悪くする。「よい親」と「悪い親」が分割されて存在するようになる。 ・悪い親は否認されたり、親以外の他人に転化されたりする。(→投影といっていいだろう) ・よい親に対しては自分を、叱られ、無視されて当然の存在と感じるようになる。ここから自己肯定感の損傷が始まる。自己評価の低下が始まる。これは子供の安全感を危険にさらす。その結果、よい親を取り入れて、自分のものとする。加害者の暴力男に同一化して、無力感を幻想的な全能感に置き換える危険な子供がうまれる。 ●いまひとつの論述。親の像のスプリッティングから、内的対象のスプリッティングへ、そこから病理への発展。ここがもっとうまく描けるはずだ。 3398 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・「彼は父とそっくりだ。危ないと思った」「でもその後、一緒にいないとたまらなく寂しい」。社会生活では不器用な、プライドの高い、危険でマッチョな男を、哺育し、自分だけを愛する成熟した男に仕立て上げることは、彼女にとって一生をかけても悔いのない大事業である。これに成功すれば、良心との生活の中でひび割れた部分を補修することができると無意識のうちに考えている。「普通の男」ではもの足りない。 ●欠けた部分の補修を人生の目的とするタイプ。それは実際には多いかもしれない。 ●事柄の本質は逆ではないか。上の記述は目的志向であるが、進化論と同じで、結果的に彼女は多くの報酬を得る(誤った報酬ではあるが)ので、その行動パターンが固定化するということだろう。 ・機能不全家庭。その意味の範囲は広い。 ・アダルト・チルドレン。忘れられた子供。静かでいい子。問題を起こさない。注目をあびない。 ・子供にとっての安全な基地であること。その中で子供が十分に自らの「自己」を発揮することができること、これが健康な家族の機能である。 ・言葉にされないルールにからめ取られ、子供の心の発達はある段階で停止する。 ●なるほど。秘密のルールというわけだ。見たことも見なかったことにする。口にしてはいけない。感じたことも感じなかったことにする。そのような家庭というもの。 大日本帝国というシステムも、そうしたものの一つに思える。 3399 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・子供たちは機能不全家庭を維持するための役割を担うようになる。 ・自分の都合ではなく、家の中の雰囲気、母親の顔色、父親の機嫌などを優先して考える。 ●このような人は多いだろう。特に受動的で女性的で、なんだかんだといっても家庭にとどまるようなタイプの人たちには多いのではないか。自分の経済的社会的立場を確保する点でも、必要な戦略なのだろう。たとえば自民党・官僚・大企業のもたれあいの中で、自分が生きて行くにはやはりその末端に連なるしか方法がないようなものだろう。既存の権力に対抗できない場合は、結局、権力を補強するのだ。また、対抗していたとしても、かつての社会党のように、結果的には権力の補強に手を貸していたと注釈をつけていい場合もあるだろう。反逆しているように見えて結果的には権力者の権力維持に貢献している場合が、家庭でもあるだろう。 ・彼らは自分の感情を感じることができない。自分の欲望を持つことができない。自分の欲望を棚上げしたまま、他人の欲望を自己に取り入れ、それを自分の欲望のようにして生きている。それが共依存である。 ・このような人たちはアルコール、薬物による酩酊に頼りやすい。それらは本来の自己、欲望をもった自己を取り戻せたような気にさせる。 ●利他的生き方と共依存の生き方との違いを明確にすればよいだろう。共依存の場合には、何か強制的で支配的な側面がある。完全な利他の立場で接していますかと点検し直すことが必要だろう。「あの子のために」といいながら、「それがわたしの生きがい」となってしまっている。その息苦しさを分からないのは利他主義ではない。 3400 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・周囲が期待しているように振る舞おうとする。それは彼らが「見捨てれられる不安」に脅かされているからだ。 ・治療を受けるようになってから余計に抑うつ的になる場合がある。治療者に見捨てられるのが恐いから、自分を病人とみなす治療者の視線に迎合する。 ●診察室で、患者として扱われることの心地よさはあるだろう。 ・ACは極端に自己評価の低い、自尊心の損なわれた人である。それが彼らを完璧主義に導き、その結果、かえって何もできなくなっていることが多い。 ・何かをすると自分の中の完璧主義の声がその成果を批判する。だから恐くて何もできなくなる。 ・他人からの批判は、たとえ暖かいものであっても、手ひどい非難のように聞こえてしまう。たたきのめす。 ・尊大で誇大的な傾向もある。真の自分を知られたくないところに由来する部分もある。 ・自己愛性。自分が場の中心に置かれないと、寂しくなったり、怒りが湧いてきたりする。 ・孤高を気取って高慢に振る舞い、周囲を下俗、無知などと罵るのは、自分に従うものだけを周囲に集めようとするから。 ●そうしておけば、自分は批判されないですむ。無批判のまま賞賛に包まれるという幻想を続けることができる。その代わり、現実の変化には対応できなくなる。地震の前に地殻に蓄えられるひずみのように、徐々に破局が用意されてゆく。 3401 生育歴に現在の障害の原因を求める方向。やはりもっと真剣に考えていいだろうと思う。わたしは病気主義に傾きすぎの傾向がある。 3402 女性の社会進出は何をもたらすだろうか。 進化の仕組みとして、優秀な、適応度の高い精子を選び出し、次の世代の適応度を高めるようにできている。そのために、男性は適応度の試験を課されている。それを見定めて、女性は受精に応じる。 女性の社会進出は、女性の側の序列化をまた一歩進めるだろう。従来も、男性をはかるのと同じ物差しで女性をはかり序列化することと、女性独自の価値の序列の併存が行われてきて、その故の混乱も生じていた。 今後はこの価値の複数化による混乱がさらに深まるのではないか。 3403 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・共依存は「偽の親密性」である。 ・支配欲と愛情を混同している。 ・自己評価が低く、他人によい評価をされても、その背後にある悪意を読みとろうと「マインド・リーディング」を絶えずやっている。これが一歩進めば妄想になる。こうした態度は彼らを孤立させ、その孤立が彼らの自尊心をさらに下げるという悪循環に陥る。 ・表情に乏しい。 ・楽しめない。遊べない。 ・他人が自分をどう思っているかに気を取られて、楽しめない。 ・他者からの「あるがままの受け入れ」が得られないことに早々と失望してしまう。常に寂しさの痛みをかかえ、これが彼らに人生を苦しいもの、生きる価値のないものと感じさせる。 ・「その人に愛して欲しい」と思う他者に対する怒りや恨みを鬱積させ、ときに爆発させる。激しい怒り。これが心身症の形をとったり、摂食障害、薬物依存、ギャンブル依存の形をとったりする。 ・自己処罰の傾向がある。 ・親たちのために生きてきたのだから、親たちの期待からはずれたことを自覚すると自己処罰の感情にとらわれる。窃盗癖の場合でも、窃盗ではなく処罰に関心が向いている。 ・無力感・離人感。 ・診察場面でACに新たなトラウマを与えてしまうという失敗を犯すことがある。ACは人生にトラウマを呼び込みやすい人々である。 ・酒や夫のために生きないで自分のために生きること。 ・人のためにだけ生きて、自分の生に喜びを見いだせなければ、意味がない。 3404 精神療法 ・宇宙の広大さに比較して、自分の存在や、自分の悩みが、どんなに小さいものかを納得していただく。140億光年の孤独である。人間の生の無意味さを心底まで悟っていただく。それが大切だ。それがもっとも根本的な精神療法である。 ・解剖学の時間。徹底的唯物論。この塊がつまりは人間なのだという認識。そこから出発すれば、現世のいろいろなこともかなり小さく見える。本当の大きさを測定できる。心理的錯覚を訂正できる。 ・人の死にゆく現場を体験する。この世に生きていることの大切さをもう一度思い出すことができる。「この桜の花の美しさ」をもう一度知ることができる。 ・ときどきは、このようなものに触れてリフレッシュする必要があるだろう。 3405 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・自分の欲望や感情に従って生きることをしないから「よい子」に見える。 ●抑圧される前に自分で抑圧している。内在化している。それがよい子、分別のある子と映る。 ・人の世話を一生の仕事として選ぶ人も少なくない。看護婦、ケースワーカー、医者にはACが多い。 ●例えば、医者にはACが多いと言われて、そこでそんなに悪い気はしないのではないか。それがACのいいところではないか。他人の責任も自分の責任として引き受けてしまっているところが悪いのだ。他人の悪いところも、内部に引き受けてしまっているところが悪いのだ。堂々と、そんなことは自分に関係ない!と言い放つことだ。そのようにして切り離すことだ。べっとりとまつわりついてくるものにいつまでもつきあう必要はないのだ。 ・共依存性‥‥周囲の他者の必要を満たすことによって、はじめて自分の存在を肯定できるような考え方、生き方。 ●自分自身は空っぽである。相互に他者を自分の人生の中身としている。中空である。そのような構造を意味があるものと考えたこともあったが、実はそうではない。それは病的な姿であった。そう考える。 ・ACのもう一つの側面、怒りと攻撃性。パワーへの渇望を心に秘めるようになる。 ・アリス・ミラーは精神分析に一種の精神的暴力を認め、一定の距離を置くようになった。 3406 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・ACは、憎悪の対象であるはずの親に似てくる。 ●必ずしも憎悪だけではないが、親の問題点を反復する。「否応なしにはまっていくメカニズム」が、実に不思議である。「刷り込み」のようなものだろうと思う。 ・迫害者の親イメージは分割され、パワー部分は神格化され、憎悪部分は他者に転化される。 ●転化の語は正しいか? ・被虐待少年は過酷な生活をファンタジーで癒す術を身につける。 ●日本の私小説家たちは、この種の人たちが多いのではないか。石川啄木、太宰治。? ・ドイツ女性たちのACとしての要素が、権力者ヒトラーへの共鳴を呼んだ。 ●日本ではオーム真理教の問題が記憶に新しい。教団に集まった人たちの中に、分裂病の人が沢山いる。正常度のやや高い、リーダー層の人たちには、マイルドな精神病の人たち、性格障害の人たちが、かなり含まれているだろう。そのような人たちの混合物である。 ●また、藤沢病院のデイケアを核として成立している劇団。中心部分には性格障害者たちがいて、周辺部分には分裂病者たちがいる。これも宗教団体と同じ構図であろう。 ・自己を癒す必死の手段として、ヒトラーの演説があった。 ●こうした病理が、個人の病理にとどまらずに、社会の病理にまで拡大して行くところに問題がある。多分、宗教という現象は、このような成立過程を持つのだろう。 ●何が健常で何が病理であるか。それは政治の問題だとも言えるだろう。多数決の問題である。「現実との照合」という面と、「多数決」という面と、両面がある。 3407 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・家とは、人工子宮が子供の成長に沿って拡大したもの。人間は早産で生まれるから、生後数ヶ月は親の腕と胸が作る空間(人工子宮)の中で過ごす。 ●家という空間。育成、刷り込みの空間。子は逃げられない。 ・この世界には一定の秩序と連続性があり、自分の生は周囲の人々から支持されている。この信念を破壊するのがトラウマである。世界観に亀裂が走る。 ●それを「人間不信」と言ったりするのだろう。世界観という観点で診察室で問題にする人は少ない。しかし同じことだ。彼らにとって世界とは他人のことだ。 ・生後初期に群から切り離された場合、たとえその後群に戻され順調な発育を遂げたとしても、群に混乱が生じてストレスが高まったりしたときには、攻撃的な行動や極端な引きこもりが見られる。 ●生後初期にこうした意味でのストレス耐性が決定されるのだろうか。「ストレスに弱い個体」は、集団にとって何か意味があるのだろうか?それとも単に、淘汰されるべき、無価値の個体なのだろうか? ●ストレス耐性の低い人は社長になってはいけない。危機に際して頭が真っ白になる。しかしそれでは、成長過程の劣悪な環境がすべてを決めてしまう印象である。劣悪な生育歴「にもかかわらず」立派に人になる、こうでなくては説得力がないではないか。 ●しかしスポーツ選手の場合にも、骨格の成長など、臨界期に充分適切な環境にあることが大切と考えられる。脳でも同じではないか。臨界期に心に「隙間」や「空洞」ができると、それ以後、その上にいろいろな構造物が乗せられることになる。危ない。もろく、崩れやすいものとなるだろう。 3408 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ●生後初期の分離体験は、生後初期に、強いストレス下での適応を強制されることだ。そのような個体は、ストレスに強くなるはずではないか?なぜなら、そのような劣悪な環境下でも生き抜いたのだから、それだけの強さはあるはずである。ストレス試験に合格したから、今生きているということになるだろう。それなのになぜ、生後分離体験のない者のほうが成長してから問題が少なく、分離を経験した者は後に障害を発生する可能性が高いことになるのだろう? ●生後初期の分離体験が、心に「ひびを入れる」。それは分かる。ひびの入った心は、いろいろな局面で、ひびの影響を受けるだろう。ひびの入っていない陶磁器のほうが丈夫で長持ちするだろう。 ●脳の成長のプロセスで、本来予定されていないストレスにさらされて、予定外の成長をたどることはあり得るだろう。それは結局は「破損」と評価されるべきことなのかもしれない。 ●しかし、生きていれば、心にひびを入れる出来事はたくさんある。最初のもろい時期にひびが入ってしまい、しかしそれでも生きているのだから、それ以後のひびには強いのではないか。 ●心の古いひびと新しいひび。ひび割れ。 ・男児の場合、被虐待児は加害者に同一化することによって、恐怖と絶望を防衛する傾向がある。 ●悲しい連鎖である。しかし仕方がない。それがこの世界の構造である。あえていえば、初期条件を定めた者の責任である。結局どんなことも本人に責任なんてないのだと、精神科医風に語りたくなる。脳の損傷も、生育の欠損も、あるいは何かの過剰も、本人の責任の範囲ではない。 3409 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・暴力の目撃者になることも、トラウマになる。 ●内山の例。父は外に女をつくり、母に暴力を振るう。足で顔をけって、指が目に入り、母は失明した。いま父はその女と暮らしている。そして母を責めたのと同じような調子で、いま内山を父が責める。気に入らないという。 ・「やさしい暴力」 ・子供への期待の圧力。親の価値観の押しつけ。親の夫婦関係は冷たい関係にあることが多い。 ・夫は仕事依存。家族とのかかわりが極端に薄い。夫に置き去りにされた妻は、子供との間に情緒的距離を保つことができず、母子間軽は極度に密着して、親と子の分化が充分でない。姑の存在など、上の世代からの圧力にさらされている場合も多い。 ●夫に置き去りにされた妻は、子供を完璧に育てることで、見返そうとする。夫は妻を、「役に立たない、世間知らず」となじる。その批判に答えるために、子育てに熱中する。完全に支配し、「成果」を上げようとする。成績を上げさせる。そのことで夫に対して、姑に対して、自己主張している。子供は何だろう?ただの道具である。子育てを通じて夫と姑に対抗している。子育てを通じての自己実現といった程度のものでもない。完全にそれ以下である。 ●姑に対しての対抗心も強い。姑は夫を育てた。それ以上の子供を育てなければ妻の「負け」である。 ・親は子供の世界観に侵入し、これを暴力的に制圧する。親はその暴力性に気づいていない。親自身がすでにその心を他者に制圧されているからである。 3410 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・父は職場の期待を読みとり、その期待に沿って生きる。母は夫や姑の期待を読みとり、その期待に沿おうと共依存的な生き方のなかに溺れていく。「子供もまた、親の期待を読みとり、その期待を満たす方向に生きるべきである」と親が考えたとすれば、この考え方がすでに暴力的である。これが「やさしい暴力」であり、「見えない虐待」である。 ●自分の大切な人のために生きるという標語は美しいものとして定着している。宇宙戦艦大和は、「愛する人を守るため」に戦うのだった。 ●いい成績を上げ、立派な人になることを期待されている子供。あなたがわたしの生き甲斐なのよと言われて育つ。その期待から逃れる方法はない。それは立派な親だから、反抗しようがない。 ・統制と秩序、効率性。これを子供に押しつける。 ・よい子たちは、真の自己とは無縁な、偽りの自己の鎧を着込んで、喜びの少ない生涯を送ることになる。 ●喜びを味わうこと。 ・よい子たちの多くはいずれ親の期待を満たすことに絶望するようになる。 ・何らかの挫折体験をきっかけとして、家庭内暴力が始まる。 ・絶望のサインを親に送る。これまで言ったこともない要求をする。 ・要求をのむと騒動は大きくなる。子供が本当に求めているのは、個々の要求ではなく、自分の存在そのものの「承認」である。「わたしのほうを見て」「わたしそのものをそれでいいと言って」というメッセージを親が汲み取ることを求めている。 ・自己処罰の傾向が事態を複雑にする。親による処罰がさけられないところまで、自らを追い込む。 3411 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・暴力の結果として生じる家族関係の変化は、結局荒れる子供の母親の「隠された意図」とを実現したり、「表現されない怒り」を表現したりしているように見えることが多い。 ●なるほど。こうした側面はあるかもしれない。 ・子供の暴力は、危険なまでに融合した母子関係(情緒的近親姦)を切断し、息子と母の距離を広げることに役立っている。 ●母と息子、母と娘、この非対称な関係。 ・「お母さん、あなたは空虚です。」「自分の中身を充実させて欲しい。」青少年たちが母親を「ロボット」と呼ぶことはまれではない。 ●自分の幸せ、自分を充実させる、そんなことを言われてもどうすればいいのか?カルチャーセンターに行って趣味を見つければいいのか?そのように困惑していた人もいた。自己実現の感覚に乏しい。 ●誰かの応援団になることでその人を部分的に(できれば全面的に)支配する生き方。自分がプレーヤーにならない。自分は観客席で応援したり、監督になって指示を送るだけ。 ●共依存の母子カプセルはスポーツ選手やタレントの場合を考えるとわかりやすいかもしれない。母はマネージャー、子はタレントまたはプレーヤーといった場合。勉強もその延長にあるだろう。 ●そんなに勉強が大事なら自分が勉強すればいいのだ。そう母親に言えばいい。また妻に言えばいい。 ・息子の迷いと自分の迷いを区別できない母親。 ●変なカウンセラーの害は大きいものだ。無責任である。しかしそのことを自覚していない。事態が悪化すればそれは子供や親の責任。改善すれば自分の手柄というわけだ。 3412 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・親たちのミーティング。「まず親の治療から」。妻の共依存、夫の仕事依存と「男らしさの病」。 ・暴力を振るう子供の問題点は、暴力と「理解されない要求」という形でしか、親たちに思いを伝えられないことだ。 ・治療者にできることは、子供のメッセージの意味を親たちに通訳し、親子間で途絶したコミニュケーションを回復することである。そのためには、親たちに聞く耳を備えてもらう必要がある。自らの価値観を変え、人間として成長していただくことが不可欠である。うまくいけば、子供は親たちの問題を引き受けることをやめて、自分自身の問題に直面するようになる。 ●母子癒着のカプセルの中で、母親の葛藤を子供が苦しむ。暴力や登校拒否の形で苦しみを表現する。まさに一体である。子供が学校に行けないということを今度は母親が苦しむ。それは自分のコントロールが失敗しているということでもあり、また、子供が苦しむべきところを母親が代理で苦しんでいるということでもある。 ●母の心の中には子がいる。子の心の中には母がいる。このようないれこ構造ができている。どこにも「中身」というものがない。 ●しかし考えてみれば、中身とは何だろう。せいぜいが趣味程度のもの、よくて仕事、しかしそれもどうも人生の中身、人間の中身というには疑問が残るのではないか?母子癒着で生きている母親に限らず、人間一般に、空っぽなのである。また逆に、中身があるなどと本気で思っているとすれば、そちらほうが甚だしい思いこみではないか。 ●空っぽなのはむしろ自然である。空っぽのままでいいのだ。そこを他人で満たそうなどと思うから、いけない。そこは神の通り道である。時々神の風が吹いてすぎる、そのために空けておかなければならない。 3413 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ●だから結局、適当に距離をとるということだ。盲目になって、この子が大好き!などといっているうちは、妄想状態である。妄想で考えられている子供と現実の子供との間に差がある。その差を縮めようと子供は努力する。適当な範囲に縮まればよい。しかし縮まる前に子供が息切れしてしまうことがある。そのとき子供は、現実のこの自分が大切か、親の心の中にすむ幻想の子供像が大切か、二者択一を突きつける。そして親に拒まれたとき、こどもは自分を認めろと交渉を始める。 ●しかしまた逆に、子供も、親の中の幻想と張り合うのもいい加減にしないといけない。それは親の心の中のことである。子供が全部支配できるわけではない。その点では距離をとることが必要である。人それぞれのファンタジーを抱いて生きている、それだけのことだ。母親はそのファンタジーを子供に押しつけてはいけない。子供は母親のファンタジーを捨てるように強制してもいけない。現実は現実、ファンタジーはファンタジーである。どちらも大切である。厳密に一致させる必要はないではないか。なぜ適当に距離をとっていられないのだろう。「距離をとることが必要だ」と知識として分かればそれでいいのではないか。 ・家庭内トラウマが起こった時点で子供の心の成長は停止する。 ●しかしなぜそうした困難を、自分のプラスの教材として主体的に読解することができないのだろうか?辛いことでも、人間や世界のあり方の一面として教材とすればいいではないか。全面的なマイナスの体験というものもないだろう。読解する力の問題ではないか。そこに何が書いてあるか、分からないだけの話ではないか。そうしたことの導きをしてあげるのが親というものだろう。→これが先輩の仕事である。辛い体験があったとき、それをなかったことにするのは親として正しくないだろう。 3414 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・ACにとって、外界は自分を迫害する恐ろしいもの、自分は迫害を逃れるためにカメレオンのように変化する主体性を欠いた存在。 ●無力な自分が生き延びるための方法。自分を変化させること。記憶を変化させること。主体性を捨てること。都合の悪いことを分離すること。 ●自分があまりに無力なうちに分離を体験した場合は、こうした「無力である自分がいかに世界に適応するか」「圧倒的に強力な迫害社に対していかに自分を守るか」といった課題に、「生存のためには自分を変えて、主体性を捨てて、生き延びる」といった方式の戦略で臨むことを学習するのではないか。 ●成長に見合った適切な課題が必要である。子供に重すぎるバットを握らせるようなものだ。骨折してしまう。 ・ぬくもりと安全感を与えるグループ。 ・君はそのままでいい。君はそのままでこの世界に受け入れられている。 ・「どうしてこの家を嫌いながらこの家を離れなかったのか、いまでは分からない」 ・成長の始まりは、問題に名前を付けること。 ・ACの成長は、@安全な場所の確保、A嘆きの仕事、B人間関係の再構築。 ・偽りの自己を捨てること。真の自己にかぶせられた偽りの自己は、外敵の攻撃から身を守るためには有効である。しかし一方では、真の自己を窒息させてしまう。 ・ACは、共依存的自我を手放そうとしない。手放したときに自分を襲う新たなトラウマを予想し、その恐怖にうち勝つことができない。「苦悩の中の安定」に身を置き続けようとする。 3415 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学、学陽書房。 ・「わたしはすべてを犠牲にして、この娘のために生きています」と語る母。 ●しかし、こうした共依存的生き方にも理由はあるのだろう。進化論的有利さがあるのだろう。たぶん、生存環境がもっと厳しくて、自己実現どころではない環境では、有効なのかもしれない。栄養と睡眠をとり、病気から身を守る、それだけのことで全部のエネルギーを費やすような環境下では、共依存的生き方が有利なのではないか。 ●また、農耕民族の中では共依存的生き方が報われる生き方だったのかもしれない。狩猟社会では、共依存的生き方は報われることの少ない「病的な」ものと映っていたのではないか。 ・まず力の抜き方を覚えていただく。 ●アルコールにはまる人が何と多いことか。民間の安定剤である。 ・援助が急すぎると、かえって彼らの自尊心を傷つけ、力を剥ぎ取ってしまう。→再度の傷つけにつながる。 ・よちよち歩きの幼児が転んだとき、幼児の立ち上がる力を信じられる母親は、幼児を見守るが手を貸さない。泣き声にも動揺しない。立ち上がった子供の力を称える。子供は自分を見守る母親の瞳の中に、自分の力への賞賛を見いだす。それを肯定的自己イメージの素材とする。 ・こうした見守り(ウォッチング)には、時間と心のゆとりが必要である。ゆとりを欠いたとき、母親は性急に抱き上げたり、叱りとばしたりする。このような体験を繰り返す子供は、自分の能力を自覚する力を発揮させることができず、母親に依存し続ける。 ●その母親にとってはそれも利益である。 3416 ある大学講師。「同級の彼らが遊んでいるときに、自分は勉強していた」と語る。恨みがこもっている。彼はそのようにして自分の未来に投資してきた。だから、その未来を手放すことができず、姑息な手段を弄して組織の中で生き残ろうとしている。しかしその未来は彼にコントロール可能なものではない。不安定要因が多すぎる。そこで彼は深刻な葛藤状態に陥る。彼にしてみれば、当然の報いを要求しているだけなのだろう。彼は自分の未来に投資したのだから。しかしそれは保証のない株投機のようなものだ。報われないからといって、誰のせいでもないではないか。 そのような彼の葛藤が周囲の人々を傷つける。痛ましいことである。 3417 心療内科の患者がこんなに多いなんて、やはり現代の社会のあり方に問題があるのではないか。 不安神経症、自律神経失調症、不登校などがこんなに多いなんて思わなかった。 軽症精神障害。入院が必要なほどではない。 3418 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学 学陽書房 ・「よい治療者は、わたしをコントロールしようとするのではなく、わたしが自分で自分の行動を決めるのを助けてくれた」 ・援助するつもりが、逆に新たなトラウマのきっかけを作ったり、本人の力や自尊心を剥奪してしまったりすることが多すぎる。 ・安全な場所とは何か。 ・「先生はわたしの話だけではなく、わたし自身に関心を持ってくれる」 ・肯定的自己イメージを徐々に人格に統合する。 ・自分が狂っていたのではなかった。狂っていたかに見えたものは、極端なストレスへの正常な反応だった。これが現実に即した認識である。 ●このような説明がいいだろう。患者を育てることができる。診断はしばしば患者を切ることになる。 ・自分が安全を売る商売をしているという自覚を持たない治療者から安全を買おうとしても無理である。 ・まず食欲と睡眠の安定を図る。不眠や不安をコントロールすることは自分を守る第一歩である。 ●この説明もよい。薬でコントロールできるのはこのあたりです。その先の精神的なことについては薬は届きませんと説明するのもよいだろう。 ・なぜあなたが危険な場所にしがみついてしまうのか、そのわけを理解し、その場所から去りましょう。 ・ACはACに出会うだけで、孤立感から救われる。安全な場で、こうした出会いがあるといい。 3419 クリニックに行かないと母親の機嫌が悪くなるから。そう言っていた息子。その後でカウンセラーに、「いい年をして、化粧濃くて、男がいると色目を使って」などと悪口を言っている。そんなに母親が好きか。嫉妬してどうする。やはり母子分離が必要だ。あるいは、もっと高級な防衛機制を使って欲しいものだ。それが大人というものだ。 3420 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学 学陽書房 ・まず心理教育的な講演会を六回程度。聴衆として話を聞くという受け身の態度を維持している限り、過度の情緒的動揺を体験することもなくてすむ。 ・集団の目的と、方法が指示的に与えられる。どのように振る舞いどのように考えればよいか、悩まなくてすむ。 ●デイケア場面でこれが必要だった。患者に理解がなく、さらにひどいことに職員の側にも著しく理解に欠けている人たちがいた。何を、何のために、どうすればいいのか、分からないまま、患者の病理に巻き込まれていく。巻き込まれていることが優しさで、その苦痛に耐えることが専門家だと誤解している。 ・グループというものは、成立と同時に、グループ維持のためのルールが生じ、メンバー間の秘密の共有やタブーの発生に犯される。あらゆるグループはこうした腐敗に犯されやすい。 ●こうした集団力動の特性を理解した上で運営しないとうまく行かない。さらにこの上に個々の人間の病理が重なるから複雑である。 ・ようやくの思いで人に話したところ、ばつの悪さと屈辱感、罪悪感だけが残ったという場合、語る相手を間違えたのである。 ●アドバイスはしばしば相手を傷つける。こうした傷つけへの感性がないといけない。 ・トラウマ体験を話すことは、退行と依存を生じさせる。それが相手の共依存性を刺激する。共依存関係に入り込み、お互いの成長が停止する。その関係はいずれ破綻して両方に新たなトラウマを与える。 ●語ることで再度傷つくことがあるわけだ。 3421 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学 学陽書房 ・年上の男性セラピストと若い女性セラピストの組み合わせは禁忌である。彼らの問題は基本的に男性による「権力」支配の問題に関連しているから、男性の権力がグループに浸透しているような場では、回想も悲嘆も発展しない。 ・初期の個別面接では、回想は感情を伴わない単調な繰り返しであることが普通である。 ・「クライアントから投げ出される連続写真やサイレント映画の一部のような回想の断片に、音楽やセリフをつけること。」(ハーマン) ・イメージの断片を記憶として統合すること。 ・「家族のアルバム」から気になる数枚を抜き出してもってきてもらう。 ・子供のうちから成人としての責任や役割を負うことになってしまった場合、その嘆きは人格に統合されることなく、「内なる子供」の悲嘆として、いつまでも残る。 ●このあたりの感覚はよく分かる気がする。「子供のうちから成人の役割を引き受けた」そのことがなぜ、後年になって苦しさとして残るのだろうか?一種の恨みとしてとらえてよいのだろうか? ・恋人と別れるという喪失が、小さい頃自分が親に愛されなかったということによる喪失体験を呼び起こす。こうして自分の中の過去と向き合う。 ●このあたりは精神分析的感覚。 ・共依存自己は、外傷を受けた真の自己の傷が、歪んだ形で覆われて生じるもの。偽りの自己でもある。 ●その内側に真の自己がいる。 3422 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学 学陽書房 ・「でもわたしは愛され、悩みを聞いてもらい、面倒を見てもらって当然だったのですよね。わたしがわたしらしく成長していくためにも、そうしてもらうことは必要だったのですよね。」 ●なるほど。こうした平明な感覚がいいかもしれない。しかしどこか少女漫画の世界のようだ。 ・グリーフワークの涙には怒りが含まれている。 ●残酷で抑圧的な母親に対する涙。 ・空虚感と寂しさと無気力に打ちのめされては救いを求め、そこで癒される代わりに治療者に反感を抱き、最後は嫌悪と反感を抱いてそこから離れる。これを繰り返して次々に治療者を渡り歩く。 ●基本的に親またはその他の重要人物との関係を反復するのだろう。 ・グリーフワークの基本。自分というものについての物語を編むこと。自分について語ること。物語を聞き手と分かち合うこと。 ●ここに治癒が成立する。 ・シェアリング(分かち合い)が始まる。 ・他人から何かをしてもらうのだと誤解したまま、漠然とセラピーに参加していても、何も起こらない。 ・聞き手の批判や査定や解釈は話しての安全感を脅かすので、厳重に避ける。 ・話し手は自分に誠実であること。 ・語ることは精神的ストリップではない。「ここで話せるのはここまで」という話しての判断に誠実であることも大切。「自分の心を守ることに誠実」。 3423 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学 学陽書房 ・貧しい家の中で長女として家族を支えてきた。自分には人並みな子供時代というものはなかったという恨みのような感情。 ●一生の財産ともなるような大切な時期を、自分が「立派」だったばかりに逃してしまう、その悔恨。自分がだめな人間でそうなるのなら仕方がない。諦めもつこうというものだ。しかしそうではない。立派だから、そうなってしまったのだ。これは悔恨に値するだろう。 ・人格は変わる。それは世界の認知の仕方の変化による。 ・新しい自己の創造。‥‥自己を守り、自己を傷つける相手と戦うことを学習し、トラウマに再び出会うことを防ぐ術を身につけた新しい自己である。 ●なぜ自分で自分の利益を守らないのだろう。それが不思議だ。利益というものの内容が違うのだろうと思う。おそらく、もっと別の利益を守るために、自尊心を犠牲にしているのだ。自尊心を傷つけても、一人になるのが恐いという人は多い。 ・夢想を具体的な計画に変える。自己の限界を受け入れた上で、自己に備わった力を自覚し、それを着々と伸ばすことができるようにならなければならない。 ●自己の限界を実は彼らは受け入れていないのかもしれない。 ・ACに固有の、他人への不信感。 ●他人への不信感は世界への不信感ということだ。人間には絶望するが、自然を愛する、自然に慰められる、そういうこともしばしばある。 ・悲惨な過去の体験を受け入れ、その過去が自分の将来に影響を及ぼすことを拒否しようと考えている。 ●これこそ大事なことだ。自分の人生を自分で守る。 3424 患者は何を言って欲しいのか。それに敏感であることだ。彼らは真実を欲しているとは限らない。慰めを欲していることもある。背中を押してくれる人を求めていることもある。言葉には有効な時期がある。 3425 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学 学陽書房 ●本当はそのように自分で自分の人生を守ったりしなくても、自然のままに生きて、神(または偉大な何か)の摂理のままに身をゆだねることができれば、最上である。「なされるがまま」である。なされるがままの哲学は、人間と世界を全肯定しているように見える。果たしてそうだろうか?人間と世界の全否定の上に成り立つ、徹底的な無力感ではないだろうか? ・わたしを守るわたし。 ・親の援助を受けていては、親の支配からも離れられない。 ●物質的前提、下部構造から考えていくことの必要。 ・「あなたはもう、一人で生きていく力を備えているのに。」 ・「もういい加減に親を怒るのはやめなさい」「過去のことなのだから」「親だって大変だったのだから。それを理解して和解しなさい」といったようなことは一切言わないようにしている。 3426 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学 学陽書房 ・家庭内に閉じこもって暴れている子供は退行(子供返り)している子供である。自己流に「内なる子供」を表現してグリーフ・ワークしている人たちである。せっかくグリーフ・ワークに乗り出したのだから、怒りを、特に親に対する怒りを途中で抑制させないで、これを用いて家族関係を変える努力を親の方でしてみることが大切である。 ●閉じこもりを退行と規定して、そこから始めるのがよいのだろう。わがままと見えるものは、内なる子供の表現である。子供の頃に甘えきれなかった、内なる子供の発露である。そしてそれをきっかけとして、親の生き方、親の側の家族関係を変えるように努力する。 ●親が不幸せだから、閉じこもる。このようにはっきりと公式化するとよい。だから、親が幸せになることが必要だと結論が出る。 ・暴れる子は、自分の体を張って、親(特に母親)の表現されない怒りや欲望を表現している。家庭内で子供が暴れている家では、数年もすると夫婦関係の改善が見られるようになる。 ●これが家族を一つのシステムと考えるということだろう。 ・親自身が、子供であったときの親との関係で傷ついた自己を直視できるようにならなければならない。 ・怒りは欲求不満を訴える一つの方法である。訴えが届けば止む。届いていないから続く。子供の言うことに「でも」と応えてしまうから届かない。 ・今までの人間関係の中で感じていた怒り、不幸、惨めさを全部親に振り向けていたメカニズムが変化し、「この頃なんとなく生きるのが楽だ」という感覚が生まれ、その感覚が過去の親に対する恨みの感情を癒す場合がある。 3427 「アダルト・チルドレンと家族」斎藤学 学陽書房 ・親に対する怒りや嘆き、親からもらえなかったものに対する嘆きを自覚する必要がある。それに気付かず、漠然とした恨みになっているときは、自分を犠牲者とか、被害者だとか思いこんでしまう。原因も分からないまま、どこの場面に行っても、犠牲者になったり被害者になったりする。 ●それは他の誰からでもない、親から貰いたかったのだと主張していいのだ。 ・人に嫌われるように振る舞っていながら、わたしはどこに行っても邪魔者にされると言う。みんなが怖がって寄りつかないのを、「いつも孤独だ」などと言っている。 ・問題の中核には親との関係がある。しかし面接の中で親との関係の話になると、クライアントの方が親を弁護することがある。親への怒りを否認する。その場合には面接では深めない。グループに導入して、仲間が親について語る場面に立ち会うことを薦める。親に対する怒りは、ある程度グループになじんでから、はっきり表現できるもののようである。 ・私たちは親を選べない。変えることもできない。 ・私たちの人間関係の成長は、「親があのようである」ことを受け入れるところから始まる。親を変えることの魅力から離れることができたときに始めて、現在の自分のまわりに存在する温かい人間関係に気付くようになる。 ●親を変えたいとする欲望。なるほど。そうかもしれない。 3428 東京ラブストーリー ・その時心の中で「お母さんごめんなさい」と叫んでいた。‥‥面白い。 ・愛としがみつきの区別。 ・別れに弱い体質。 ・恋愛嗜癖。 ・人間の心理を拡大鏡のように見せてくれる。 ・なるほどと感じるのは、自分の心のどこかに同じような病理があるからだろう。 3429 心を殺された私 緑河実紗 河出書房新社 ・「ショック」が与える、「それ以前の人間と、そのあとの人間」「同じ人間でありながら、別個の人間になる」という過程が、表現されている。村上春樹の小説。 ・サリンの怖さというものは、これまでに一度も言語化されたことのない種類のものです。だから被害者の方も、本当の意味では、その時の恐怖感をまだきちんと言語化できていないのだと思いますね。結局うまく言語化できないから、そのかわりに身体化するしかないということになります。感じていることを言語に置き換える、あるいは意識化する回路ができていません。だから仕方なく無理に押さえ込んでしまおうとする。でもいくな懸命に意識で押さえ込んでも、身体の方は自然に反応してしまいます。それが身体化ということです。 ●よく言われることではある。例えば歴史の中で見ると、性の抑圧、女性の人権の抑圧、日本では家父長制による人権の抑圧、こうしたものがあった。最初は疑問を呈する言葉もなく、反抗の言葉もない。後には明確に言葉が与えられる。例えば、日本の家父長制の犠牲になった人たちの、意識化されない苦悩が身体化した症状としてどのようなものがあったか? ●言語化すれば、身体は悩まなくてすむのはなぜだろうか?言語空間に代理の現実が出現し、そこで体験がなされ、脳内の処理は一段進展する、それでもいいわけだ。脳にとって、現実空間と、言語によって創出された空間との本質的な区別はないのかもしれない。→これは妄想論にまで通じる問題である。 3430 心を殺された私 緑河実紗 河出書房新社 ・圧倒的な力による、無力化、孤立無援化。自力が及ばず、抵抗が望めない体験。 ・通常の範囲のショックの場合、その後のケアするシステムが人間の内部にある。しかしそのケア・システムでカバーできる範囲を超えるショックが与えられたとき、心的外傷となる。1 恐怖に圧倒される。2 出口のない罠のような状況に陥れられる。3 消耗の極致にまで追いやられる。人間の限界までの「孤立無援と恐怖」が特徴である。 ・暴力に対する抵抗も闘争も可能でないとき、人間の「自分は大丈夫」という安心感覚を伴った自己防衛システムは圧倒され、解体に向かう。 ●闘争と逃走が可能でないとき、つまり戦うことも逃げることもできないとき、それがストレスの本質だろう。戦ってしまえば、また逃げてしまえば、終わるのだ。しかし終わりにすることができない。その場合、アドレナリンによる行動体系が無効である。しかし相変わらずアドレナリンは分泌され続ける。多分、アドレナリン過剰は、別の系のスイッチとして働くのではないか。そこで学習された無気力とか、うつ状態とかが発生しそうである。言ってみれば、一種の自爆装置のようなものか。自分を抹殺することによって、集団に奉仕するのではないか。闘争も逃走もできないのでは、生きることができないということだ。 ・自分の症状について明確化できない苦痛。 ●これは大きいだろう。わけが分かっていれば、辛くても耐えられる面はあるかもしれない。「一体何が起こっているのか?これは何なのか?これからどうなるのか?」こうしたことについての理解が本質的に重要である。これは宗教でも、民間伝承でもいい。理解のフレームが与えられる。 3431 心を殺された私 緑河実紗 河出書房新社 ・自分は汚れて、無価値であるという感覚。 ●これが自尊心の傷つき。 ・できるだけ早い自己受容が、早期回復につながる。問題を隠蔽することではなく、反対にリフレーミング(問題の引き直し)を行う必要がある。 ●リフレーミングが必要であることは痛感する。感じ方や考え方に、硬直が見られる。あたかも洗脳されたような、マインドこんとろーるでも受けているような、普通の感覚や理屈が通じない部分がある。そこが「とけていく」ことが、回復の第一歩だろう。そのような「通じない部分」ができてしまうのは、やはり孤立ということと関係があるだろう。 ・羞恥心、敗北感、異常な憎悪、自責、否定など。これらが背景にあるので、心が硬直してしまう。 ●やはりリラックスするには自信がないといけないのだろう。普通の自信でいいし、親との普通の結びつきでいい、それさえあればなんとかなるのだが。 ・遭遇した事態を、自分の責任=我慢してやり過ごすと考える。 ●何か失敗したときに、親に失敗しましたと報告できない人。失敗したこともショックなのに、親に叱られることが二重のショックになる。そもそも失敗がショックなのは、親が背後にいて、にらんでいるからだろう。 ●どんな子供でも、自分が無力な時代から親は親なのだ。だから親には好かれたい。それが精神の習慣である。その親を失望させたり、怒らせたりするようなことはしたくない。そこで何か起こっても、親には報告しないで処理しようと考える。 3432 心を殺された私 緑河実紗 河出書房新社 ●このあたりは親も考えないといけない。ダブルバインドになっていないか?失敗を報告すれば叱られる。報告しないことが分かればまた叱られる。結局、報告しないし、さらにはばれないようにするしかない。親の愛をつなぎ止めるためにそうせざるを得ないのだ。 ・泥棒を招いてもてなしたようなものだ。 ・人は何か害にあったらここまで怒っていいんだ。沈黙しなくてもいいものなんだ。私なんかレイプされても耐え忍んでいたのに‥‥。 ・闘わなきゃ、それで自分なりにこの問題をクリアしなきゃ。 ●闘って、勝つ感覚、それが大切ではないか。その後の自分の自尊心の基礎になるのではないか。我慢してその場をおさめることは大人のやり方ではあるが、しかし泥棒に都合のいいやり方である。自分が泥棒だから、「世の指導者」は、そのように忍耐を語るのではないか?世の怒りを静めるためには、まず自分が怒りを捨てることだというのだ。そのように怒りを捨ててもらって都合のいい人がたくさんいるのだ。 ●わたしもかつて、怒りを捨てることの大切さを考えていた。それが聖人君子の教えであった。世界の平和につながる、人間社会の高い徳であると考えた。しかしそうだっただろうか?そんなことですましているから、いつまでたっても悪ははびこっているのではないか?有効な抑止力を真剣に考えず、ただ許すことを語るのは、泥棒の味方ではないか。 ●人民からの搾取という構造の上に文化が成立している。そこで下に向けて語られるのは、奴隷の道徳である。 ・本当に我が家はおめでたい一家なのだ。人を疑うことを知らず、人の気持ちを考える。 ●世間体もある。自分が我慢するのではなく、娘が我慢すればいいのだ。結局、この処理しきれない痛みは共有できないものである。「大人になりなさい」なんて平気でいうのだ。 3433 心を殺された私 緑河実紗 河出書房新社 ・好奇と困惑の瞳は即刻、分かる。医者、弁護士、警官、誰もがもっていて、わたしが何度も刺された目だ。理解しようとしない「あの目」には身が縮まる。 ●なるほど。ここを「被害的成分」と決定するのが、精神科医の役割である。そのようにして現在の体制を維持することに貢献しているのだ。 ・半年にわたる心理療法が必要。言葉を活用する。 ・「同情も何もいらないので、専門的に援助して下さい」 ●なるほど。しかしこれに適切に応えられないのが辛い。こういうことに対して「わたしが責任をもってあたります、お任せ下さい、悪くない結果を保証します」とは言えないはずだろう。分からないことやできないことについては、正確に言葉を返す方が誠実だと思う。それが拒絶に聞こえるとすれば、考え直す必要があるけれど、しかし悪い商売人と同じにならないように自己点検する必要がある。誠実な気持ちで、できないことはできないと伝えなければならない。 ・「安全環境での長期にわたるストーリー再構築」 ●薬剤に対しては否定的。薬を使うのが普通になってしまい、薬なしではいられなくなってしまうと考えている。なぜそんなことを考えるのだろうか?周囲にそんな重症の人がいたのだろうか? ・本当に深刻な事態に直面すると、人間は言葉すらも失ってしまう。 ・もし、心的外傷を、我慢しよう、耐えよう、許そう、こちらにも落ち度があったのだからと考えていたら、こう言ってあげたい。それは無理で不可能である。 3434 心を殺された私 緑河実紗 河出書房新社 ●奴隷の道徳を、精神科医も説くのだろうか?耐え難いことを耐えられるようにするために、安定剤を処方するのだろうか?そんなことがあっていいはずはない。 ・いままでのまともな時間と人生を返して。症状も全部なくして。わたしのいいところも、きれいさも、全部返して! ・専門治療期間からの否定は、孤立無援、無力、自己無価値感を深めた。 ・この時期手を離さないでいてくれた他人というものがありがたかった。 ●治療者は、これもできる。治すことは難しいが、手を離さないでいることはできるとはっきり伝えたいものだ。 ・忍耐が美徳とされる社会通念があったとすれば、それは個人を殺した上で成立していたのではないか。 ・物語るということ、ストーリーを再構築するという認識は、あらゆる心の葛藤に適応するようだ。 3435 「眠らない女」酒井あゆみ 幻冬舎 ●風俗関係の女性の聞き書きの形をとっている。生育歴、家族歴、現在の職業意識、異性に対する感覚など、おおむね項目を決めて、描いているようだ。筆は滑らか。 ●まるっきり、アダルト・チルドレンものの延長の感じがする。ACの具体例を、症例報告としてまとめた趣である。 ●「何か満たされない感じ」をうまく描いている。境界例的な側面。 ●夜の仕事をしていると、昼の仕事のイライラがあまり気にならなくなると、何人かの人が語っている。相対化できるというか、他人を見る見方に違いがでる。 ●客を軽蔑している人も多い。自分はそのような客を相手にしているのだと深刻に嫌悪する風でもない。 ●要するに金である。最初に借金ができてしまって、という例もある。一回生活レベルをあげてしまうと、もう元に戻せないという事情もある。例えば、証券会社勤務の人。客はみんな金持ち。すると自然に金遣いが荒くなり、自分の給料だけではやっていけなくなる。その他に多いのは、金銭感覚のおかしさ。金のためだといいながら、稼いだだけ酒を飲んだりしている。(なかにはしっかりしている人 もいるけれど。) ●決定的に病気というわけではないけれど、やはりすこし病的な人たちが多い。マイルドな病理が覆っている。 ●他人に「必要とされる」感覚を求めている人たちも多いようだ。 ●家族関係ではやはり共依存の関係がずいぶんでてくる。男関係ではまさに問題ありの人が大半である。どうしてこうなるのだろうか。 ●「退屈さを嫌う」言葉も多い。刺激のある生活を好む。好奇心に満ちている。 ●夜も昼も働いて、よく疲れないなというのが印象。一人で部屋にいて何か考えなくてはいけない時間を回避している、そのために懸命に働いている、そんな印象もある。 3436 母子カプセル。母子癒着。 子供がうまれたとき、「全く無力で、自分の世話を受けないと生きていけない生き物が、わたしを必要としている」という事態を経験する。これは大変嬉しいことだろう。生きる理由が見つかる。全く無力なものから必要とされる。 これは支配の快感につながる。 相手が無力のままで自分を頼りにしていれば、母親の快感は持続する。子供に生活能力がないままであれば、母はいつまでも楽しいだろう。 男子はは母に世話をしてもらい、結婚してからは妻に世話をしてもらう。かしずかれるとも言えるが、支配されているとも言える。 子供の自立は母親にとって痛手である。「空の巣症候群」が発生する。子供がいなくなれば、母の生きがいも消失する。空洞があらわになる。 逆に、女性は結婚してから妻ではなく母になる。 男子が夫・父となるときと違って、女子が妻・母になるとき、大転換を経験しなければならない。それは辛いだろう。 子供時代は、男子と同じで、母親がその女子を通じて生きがいを達成する、という構造の中に生きていた。しかし突然、誰か他人を通じて(つまり夫や子供を通じて)、生きがいを達成するという存在に変わってしまう。 それが自然にできれば、とりあえずはいいのだけれど、後で空の巣症候群などを経験しなければならない。 一方、それが自然にできなければ、それなりに苦しまなければならない。 3437 「御直披」板谷利加子 角川書店 ●レイプ被害者と警察官の間の書簡形式。くだらない。読み物としては下等。文章と教養が下等。程度の低い文学趣味。少女趣味と言ってもいい。ただ、だからこそ、一般被害者と、専門の物書きではない警察官の間のセンチメンタルなやり取りという雰囲気はでると計算したのかもしれない。 3438 アダルト・チルドレンの話。柴門ふみの若者の風俗漫画。 愛とは何だろうかと考え直す。 まず傷ついた心がある。生育の途中で傷ついたり、最近傷ついたりしている。 その傷をいやしてくれる人との関係を愛だと感じる。 例えばセックスもそうだ。セックスが人の心を近づける。髪をなでたり、昔話をしたり、リラックスした気持ちで打ち明け話をしたりする。それはとても人の心を慰める。秘密を共有するほどの親密な関係を持つきっかけになる。 しかし心の傷を癒してくれる人との関係が、愛なのだろうか? 柴門ふみの漫画で造形されている人物は、アダルト・チルドレンの要素がある。しがみつきを愛だと思っている。弱い者を手助けすることを愛だと思っている。共依存関係を愛だと思っている。分かれるつらさや一人で生きるつらさを回避するために、関係を続ける人たちがいる。 愛の定義なんかどうでもいい、男と女がいろいろな仕方で親密に関係する、それだけだ。そう考えてもいい。共依存が「悪い」、「改善すべきだ」となぜ言えるのか?そう考えてもいい。実際、そのような考えしかなく、その考え方の範囲内で生きて死んだ人たちもたくさんいる。考えてさらに不幸になるよりはよい人生だったかもしれない。疑問のない人生は、苦しみもあるが、安定している。自由という不安定に耐えるには強くなくてはならない。なぜ誰もがその程度までに強くなれると信じられるのだろう。 ドラマでも漫画でも、そこには共依存を描いて愛の物語とみなす精神の習慣が刻印されている。 次の課題は、共依存ではない愛を描くことである。それを本当の愛というべきか?それとも、また別の病理を癒す関係でしかないのだろうか? 逆に、病理のない人は、華々しい愛の物語を構成しないだろう。 柴門ふみの提示する人物は、共依存的でない愛を提示していない。自分の心の傷を癒してくれるパートナーを積極的に求めていいのだと語っているだけだ。かつてはそのように積極的にパートナーを求めることが不幸せの原因だと言われていたのだから、それは変化である。親の言うことを黙って聞いていればいいという時代ではなくなった。しかしでは誰を求めるのか?愛ではなく共依存であると言われてしまう。では共依存ではない愛はどこにあるのか? トラウマから出発する愛と、母親のイメージから出発する愛があるだろう。前者はマイナスを補うための愛である。後者はプラスを保持するための愛である。 しかし考えてみれば、母親の愛とは、自分が赤ん坊であるという決定的なトラウマが基礎条件となって生まれた感情である。赤ん坊は徹底的に無力である。それは極限のトラウマだろう。 従って、すべて愛は、トラウマの補いを求める心から出発していると言っていいだろう。 人間の心には原理的に大きなひび割れがある。そのひび割れを修復するために、異性の愛を求める。 男女の愛は、母と子の反復である。いわゆる女や妻はない。母があるだけである。女や妻として生きていると思われる人たちも、やはり母である。子どもとの関係でそのような行動をとる母は存在する。その母を反復しているだけである。 女の子は、両親に、どのような母になるべきかを教えられる。男の子は、両親に、どのような子であるべきかを教えられる。 3439 臨床場面で、スルピリドの聞き方が全く違う。男と女は別に考える必要があると痛感させられる。 3440 女装をして楽しむ人。どこかが壊れているのだろうか?本人は少し苦しそうである。 3441 時間遅延理論。周辺事項。 自閉。現実をいきいきと生きていない。現実との生ける接触の喪失。これは荻野のあげた、「自動的に」定期券を見せて改札を通るという例と似ているだろう。 自意識の関与が薄くなった状態。 他意識の作動だけがある状態が自閉である。としてみてはどうか? 感覚→処理→運動 これが神経系である。処理の部分が上の方向に複雑化して、抑制や促進で構築されたものが脳である。 反射経路や小脳は、処理の自動化である。迅速に省エネルギーで行う。 この状態の純粋化が自閉状態である。(自閉と名付けているものは一つではないだろう。) 3442 共依存・男女の愛 支配されているかのように見せかけて、実際は支配している女性。支配しているように振る舞いながら、実際は支配されている男性。このパターンが共依存には多いだろう。もちろん、この逆もある。 こうした男女の関係は、セックス場面でも明確に現れるのではないか。 欲望しているのは男性で、女性はそれを受け止める、または「処理」している、そのような構図。しかしその深層には、男性が欲望するように仕向けている女性がいて、その根本では女性が支配している。 愛していると言わせたい。必要だと言わせたい。言わせるように仕向けているのが女性であれば、支配しているのは女性である。しかしまたもう一段深く読むこともできるはずである。男性に、「君が必要だ」と言わせるように仕向けるように仕向けているのは男性である。 そうなってくると、どちらが先ということもはっきりしなくなってくる。 こうして入り組んだ「支配・被支配」の構図ができあがる。 セックスの最終局面では、男性が欲望しなければセックスは成立しない。日常生活場面でも、肉体的に強く攻撃性が強いのは男性であるから、能動的側面に関しては男性が受け持つことが多いだろう。また現代社会では金銭を家庭に供給するのは主に男性であり、その点から発する優位さもある。重大な決定に関しては男性が最終的に決定することも多いのではないか。しかしその場合、入り組んだ支配・被支配の構図により、実際は誰の決定かあやふやになる。 3443 痴呆のケアについて、地域医療の担い手として何ができるか、考える必要がある。 1)病院との連携をどうするかがまず大切。病院は一定期間を経過して病状が落ち着いたら、また在宅ケアにつなげる方向で考えて欲しい。しかしそれにはまず病院の態度が問題。そして次には、家族の考え方が問題。もう面倒くさいのはごめんだとの素朴な気持ちも分かる。しかしそれではいけない。うば捨て山になってしまう。 2)在宅で看取ることの援助。 (痴呆の程度とは別に、行動面での重傷度がある。さらにいえば、家庭介護の困難度がある。) (訪問看護、往診の活用。しかしなかなか難しい面もある。) 3)患者・家族教育。→痴呆の予防。始まりについての知識。どうなったとき何をすればよいか、教えておく。→これは青少年に対しての分裂病教育と同じ。中高年に対してのうつ病教育と同じ。 4)重症化を防ぐ活動。老人デイケアほど重くない人を、地域活動の中でいかに活性化していくか。→このあたりは地域コミニュティのありかたを問い直す活動になる。→会社に属し、地域に属し、血縁に属しという、複線のアイデンティティが確保できればよいのだが。 3444 中高年に対してうつ病教育を明確にしないのは、それがある種の人たちの隠れ蓑に利用されてしまい、結果として会社の生産性を低くしてしまう可能性があるからではないか。 「生活保護とはこんなもの」と宣伝しすぎたらやはりまずい結果が生じるだろう。 一方、青少年に対する精神病教育は必要不可欠であると思う。 3445 病気が重い人ほど、薬を恐怖する。 つまり、薬恐怖という病気であると考えられる。現実把握が悪くなっている。結局、病気が「薬をのむな」と命令している状態に近い。 3446 性同一性障害 心が女性だから、体を改造したいという。あるいはその逆。 本質的には脳が間違っていると思う。 しかし、そうしたいのならそれでもいい。 やくざが入れ墨をしたり、小指を切ってみたり、そんなことに似ている。 例えば脳が「母親を殺せ」と命令する。母親が承知すればいいけれど、やはり社会的に許されないことだ。 ここでも原則は、妄想であろうと何であろうと、人に迷惑をかけない範囲であれば、自分の勝手だということだ。小指を切る程度は勝ってである。ピアスをするのも勝手である。 しかし性の話には生殖のことが絡むので、全く個人の勝手というわけにはいかない。社会の出生率、ひいては将来の社会の活力にかかわる。 二つの社会があって、一方は性転換手術を認める社会、一方はそのようなものを抑圧する社会であるとすれば、長期的に見れば、後者の社会は前者の社会を圧倒するだろう。生殖に関係しない人間だけが増えるのはその意味では好ましくない。 その欲望が病気に発するものであるとすれば、病気を治すのが筋ではないか。刑法はそのように考えている。 ペニスを切り落としたいという欲望が病気に発するものであるとすれば、治療すべきだろうか?それは刑法の範囲にはないから、自由だろうか? 自分のペニスは自分でどうとでも処分してかまわないのだろうか? かまわないような気もするが。間違っている脳を止めることはできない。 3447 昔の嫌なことを思い出す悲しさ(1) 体験した事柄の中で、未解決のままに心に傷として残っている言葉や感情、情景。それらのものが、自分にとって何かしら許せるもの、受け入れ可能なものとして整理できていればよい。そうでないなら、何とかする必要がある。 忘れてしまえればいい。 そんなこともあったかな、と感情的に脱色してしまえればそれもいい。 しかし折に触れて思い出し、嫌な思いが蘇るとしたら、やはり心のケアが必要なのではないか。 こうしたことが原因になってアルコール症になったり、対人関係の不全が生じたり、自分の人生が充分いい人生だと思えなくなったり、そうした「症状」として結実すれば、それもまた解決への一歩である。 しかし症状として結実することはむしろ少ないだろう。 嫌な気分で、苦々しい思いで、思い出してしまい、そうした嫌な気分をどうすることもできずにかかえている。それが大多数だろう。 そうした心の傷をどのように解決できるか。 解釈変更の可能性はどれだけあるだろうか? わたしは悲観的である。思い出さないようにすることができるだけではないか。思い出さないためには、今が幸せならばいいだろう。 今が幸せならば、「そんなこともあったね」「そんな人もいたね」「昔は大変だったさ」などと軽い気持ちで言えるのではないか。 たとえば老齢になって、昔を思い出したとき、どうだろう。老齢はどの人からも希望を奪い、力の感覚を奪い、や幸せを奪う。そんなとき、昔の嫌なことが記憶の中から洪水のように押し寄せたら、どんなに嫌な気分だろう。 解決は、そんな嫌なことはなるべく回避すること。それしかない。多少の嫌なことも受け入れられるならそれはとてもいいことだ。 3448 昔の嫌なことを思い出す悲しさ(2) ・やはり根本的な解決は、多様な解釈を可能にする教養を身につけることだろう。 ・傷を他人に傷として返して、うっぷんを晴らすのはよくないと思う。そのことがまた自分の人生をよくないものにする。もっとも、他人に与えた傷は、それを傷として認知していない場合も多いだろう。 ・傷といえば、鋭く傷つけるというイメージがある。そうではなく、むしろ精神の腐臭といったものだ。腐った精神の餌食にされてとても嫌な思いをするのである。 ・例えば、先日の藤沢・東急ハンズで。3000円買うごとに抽選一回というサービスをやっていた。Tシャツを着た汚い身なりの35歳くらいの男性がやってきた。係りの二十歳くらいの女性が説明している。多分、こういうことだ。4000円のレシートで一回抽選した。その後で2500円の買い物をした。合計で考えると二回抽選できるから、もう一回引かせろというのだろう。係りの女性は、「一回抽選済みの印を押したレシートは使えない。そういう決まりだから、抽選はできません」と説明していた。男は納得しない。汚い言葉で怒鳴っている。女性は困って、そばにいた上司に委ねた。40歳くらいの女性は、一応話を聞いて、本当はだめなことを説明した上で、でもどうぞ一回引いて下さいと結論を出した。男は早速くじを引いて、参加賞ではない、ペンライトのようなものを当てた。そして立ち去るときに、若い女性のそばに行って、耳元で、また汚い言葉を投げつけたようだった。わたしたちはその何人か後だったが、若い女性はそっと目の端を拭っていた。ひどい場面だった。上司が方針を曲げたことも彼女には理不尽に思えたかもしれない。 なぜこのような目に遭わなければならないのだろうか。 3449 昔の嫌なことを思い出す悲しさ(3) ・ストーカーの被害にあった女性。いまだに後遺症に悩んでいる。なぜこのような目に遭い、さらに後遺症に痛めつけられなければならないのか。 ・こうした「昔」をどのようにしていやなものでなくしていけるだろうか?こうした体験のどこに、解釈変更の余地があるだろうか? ・運が悪かった、世の中にはそのような人もいるのだと学習できた、そう思えというのだろうか? ・自分にも落ち度があったと思えばいいのか?もちろん、それはいつでも可能だ。そんな場所にいたことが第一落ち度である。アルバイトなどしなければよかった。変なことを言われたらすぐに上司に代わればよかった。いろんなことは考えられる。 ・しかしそんなことは本当は学習しなくてもいいことだ。なぜそんなことで傷つけられなくてはいけないのか。 ・ドストエフスキーなら、「こんな世界の入場券はいらない」と言ってしまうかもしれない。神よ、これがあなたのつくった世界か。そしてこれがあなたが「配慮した」わたしの人生か。 ・傷つけた者の責任が曖昧になるのなら、神に責任があるだろう。神はどのように償うことができるのか。 ・同様のことは「不幸な家庭」にも言える。そしてさらに、不幸な家庭の場合には、「その遺伝子が自分にも組み込まれている」ということが、二重に人を打ちのめす。恨んで余りある人たちの遺伝子で、このわたしも構成されているのだ。その悲しさ。 ・解決されない多くの涙。流されるはずなのに流されないでいる多くの涙。この世に満ちている。清算されずにいつまでも漂う涙。神よ、あなたはこれをどうするつもりであるか。 ・むしろそのことを逆に神はわたしに問いかけているのではないか。「あなたはどうするのか」と。わたしはどう答えるだろうか。 3450 脳神経細胞の刺激・反応曲線の分類として、うつ型(depressive)、強迫型(anankastic)、躁型(manic)と分類できる。これらは連続して移行する分布として表示できる。 ・これによって病前性格が表示できる。 ・躁型神経細胞が躁期の後にダウンすると、この分布が一時的に変化する。当然、うつ型または強迫型が突出したパターンになり、かつ、そうしたパターンで生きることには慣れていないから、そのパターンで生きる技術に欠けている。そこでうつと強迫の混在した病状を呈する。 ・うつ病、躁うつ病、強迫性障害はこれで説明可能である。 ・躁うつ病‥‥うつ型と躁型の両方が突出したタイプ。躁病期の後に躁型細胞が機能停止すると、うつ型細胞が残る。そのときうつ病を呈する。 ・単極型うつ病‥‥躁病型細胞は少ない。うつ型は多い。躁病期は軽くて目立たない程度である。しかしその時期に躁細胞は疲弊し、機能停止する。そのときうつ病を呈する。 ・強迫性障害‥‥これも躁病型細胞が疲弊して機能停止した時点でのパターンが、強迫型細胞成分が多いときと考えられる。 3451 川口さん。 ・子供が言う。「僕が登校拒否してあれこれわがままを言っていたときの方がずっと苦しかったはずだ。その時に比べれば、いまはそんなに大変じゃない。」 ・住宅も生活資金も潤沢に与えられていたとき、子供がうまくいかないとすれば母親の責任である。子供たちの中で出来のよかった次男の息子だから、少なくとも次男以上にはうまくいって欲しい。それができないとすれば、母親の遺伝子か、母親の育て方か、どちらかに責任がある。そのように義父母からの圧力があっただろうし、そのように感じて子育てをしていたはずである。 ・今回義父母が倒産して状況が変わった。今度は義父母を責めることができる。義父母が謝る番だ。責任はわたしにあるのではない。義父母に責任がある。 ・こうした攻撃性の発露である。義父母を攻撃してうつになって泣いているのである。 ・お母さん自身は、「不登校になったときは大変だったけれど、お金があればなんとかなると思っていた。いまお金がなくなって、大変だと思っている」 3452 「子供に手を上げたくなるとき」橘由子 学陽書房・女性文庫 ・痛快。「わたしは子育てが嫌いだ」 ・男は男社会に守られて生きていける。 ・「母親には、正しいことを教えてくれる人ではなく、受け止めてくれる人が必要である」なるほど。カウンセリング場面でわたしはどうしているか。 ・中にカウンセリングの話と、小児科医の話がでてくる。これも面白い。 ・カウンセラーはじっと鏡になっていた。「わたしをそのままで受け入れてくれた」。なるほど。わたしはそんな風にできているか? ・小児科医の話。教育委員会・保守的道徳の代表のような小児科医が、子供が病気になるのは母親のせいだと言葉の端々で責める。それに対して近所に開業した親切な小児科医がいて、とても救われた。そしてその小児科医はとても繁盛した。 3453 親身のふりをする技術。 誤解されそうであるが、これは単に患者をだますことではない。 ・まず患者は親身に心配してくれる人を求めている。完全な味方を求めている。私心なく奉仕する人を求めている。その心に応えたい。 ・しかし一方、過度に踏み込んで欲しくない。正しいことでもプライドを傷つけられるような言い方はされたくない。最終的に「正しい状態」になることを求めているのではない。幸せのビジョンを他人に決めて欲しくない。押しつけられたくない。 ・そこで、親身にはなるが、踏み込まない。これが大事。 ・一つの方法は、徹底的に聞く、しかし多くを語らないこと。これは親身のふりをすることでもある。 3454 徹底的に聞くクリニックをつくりたい。カウンセラーが余裕を持って仕事ができる、かつ、患者が拒絶されずに充分に話せるクリニックをつくりたい。 たちの悪いカウンセラー。独りよがり、視力の悪いカウンセラー。こうした人たちによる弊害を取り除きたい。 本来語られるはずの言葉を語って欲しい。何かの理由でせき止められている言葉を解き放つ場であって欲しい。 3455 「家族」という名の孤独 斎藤学 講談社 ●会社または大人社会→家庭へのしわ寄せ→子供の適応障害。こうした因果関係が議論される。もっともらしいが本当だろうか?なにか説明力がありすぎて、疑わしい。 ●集団性動物としての人間の本能が、どの程度この現代社会での人間の生き方に影響しているか、掘り下げて考えてみたらどうだろうか?家族とは何だろうか? ●原始共産主義的社会から家族を経て、個人まで。大家族から核家族。地域社会の崩壊。ただ単に隣というだけの関係。関係というよりは無関係。 ●最近はキブツの社会も変貌しつつあるそうだ(1998年9月5日(土)付け朝日新聞)。豊かになったことの結果という。豊かになった人々は、個々の家族で食事をとるようになった。 3456 「自分のために生きていける」ということ 斎藤学 大和書房 ●専門家がこうした啓蒙書を読んでいるということ自体、問題ではないかと思うこともある。量子力学の専門家が、アインシュタインに関しての一般向けの啓蒙書を読んでも仕方がないではないか。 ・嗜癖は退屈と表裏の関係にある。 ●嗜癖は代用満足であり、真の満足には至らない。だから次第にエスカレートする。 ●退屈というより、欲求不満かもしれない。 ●退屈するということは、レセプターが減少してしまったということだろうか。あるいはうつ傾向と言ってもいいかもしれない。ドーパミン不足と言ってもいいかもしれない。 ・退屈感はある種の「寂しさ」を防御することによって生じる。 ・退屈感や寂しさの基底には自己認識の問題が横たわっている。 ・日常の中で感じるちょっとした違和感や自信のなさ。場違いな感じ。 ・厳しすぎる自己監視装置。これが自己評価の低さにつながる。 ・子供時代のトラウマの量と質が、自己否定の程度を決める。 ・患者の自己評価を高めるのが治療者の仕事。 ・「耐え難い寂しさ」‥‥●これが光源氏をつぎつぎに女性へと駆り立てていたものではないか。なぜ耐え難い寂しさか。答えは生育歴の中にあるというわけだ。母からの充分な庇護があったかどうか。一人で安心していられない人。だからこそ人を求め関係を求める。 ●しかしながら、それは代用の満足であるから、真の永続的満足ではあり得ない。いつまでも求め続けさすらい続ける。どこにもない場所を求めどこにもいない人を求める。 ・ジェットコースター人生。「おっぱい」を求め続ける。 3457 テレビで松井が打っているうちに家に帰ろう。 3458 若いうちは認知も揺れる。振り子のように。しかし振れた振り子は落ちて来る。だんだん中立的な認知に落ち着いていく。 3459 軽躁状態→シュープ→postpsychotic depression SとDの関連。 軽躁状態はシュープの引き金になりそうである。 一念発起 DAMで、躁状態の後でDAになったとき、シュープが起こりやすくなっているように見える。 そのメカニズムは何か。 3460 シゾチーム 場の風に合わせる能力 変化力 単に対人距離が遠いというのではないのではないか。 場に応じて、対人距離を柔軟に変化させる能力。 どのチャンネルを使うかを適切に選ぶ能力といってもいいだろう。 レセプター変更力 変更可能性 ボリュームのようなもの 3461 DAM 抗うつ薬はMをupさせる。だからdepressionを反復しやすくなる。当然躁転もしやすい。 Aにアナフラニール。ダウンしているMをupさせ、全体のバランスをかえる。 しかし他の抗うつ剤よりもアナフラニールが適しているのはなぜか? 強迫の人はAが突出しているはず。アナフラニールを投与するとMがupする。相対的にAの突出は目立たなくなる。→しかしこれでは何も説明していないではないか。 3462 順位制社会 メスは自分の順位を何によって判断するか。 子や夫が道具にされる。 順位決定アクセサリーである。 自分がどうかではない、誰が自分を評価してくれたか、それで順位が決まる。 この事情があるから、メスの順位は一層複雑である。 3463 レセプターコントロールの具体的な方法。 3464 「自分のために生きていける」ということ 斎藤学 大和書房 ●おっぱいを求め続けるジェットコースター人生もいいけれど、その人の求めている「おっぱい」は仮想的なものではないか。この世にないものではないか。この世にないものを求める人生は、恐ろしく空しいものではないか。必敗の方程式ではないか。結果は、「求めたが、得られなかった」となるしかないのだから。 ●源氏物語はさすがによくできている。エディプスは実の母を求めるが父の禁止がある。光源氏は実の母によく似た藤壺を求める。さらに藤壺に似た紫の上を求める。このような連鎖の系列が形成されている。次第に求めてもいい、許されるものになっていく。禁止は緩やかになっていく。許されるものになるに従って、強烈な感情は失われていく。原型はエディプスである。男の子のとっての母親というもの。求めても永遠に得られない満足。 母とその代理とのすり替えが、平安の宮廷の中で成立した。ここに実験的エディプス状況が成立する。 ●罪の味が、恋をさらに味わい深いものにする。深みのある味になる。 ●光源氏は何一つ欠点のない完全無欠の男である。ただ、「おっぱい」に恵まれなかった。ここでも純粋型の「おっぱいの欠落」が提示されている。「おっぱい」を求めて永遠にさまよう。小さな恋と小さな満足はある。しかしそれは彼の求めるものの影でしかない。 ・「安全な子供時代」と「人間としての尊厳」がない。そこでは自尊心が育てられない。そんな学校ならいかなくていい。 ・自尊心をはぎ取られたまま、すべて自分が悪いと思ってしまう人が沢山いる。今まで、あなたから健康な自尊心や自己評価を奪い取っていたものについて怒れ。それによって傷ついていた自分をいたわれ。傷つけられたあなたが悪いのではなくて、傷つけた方が悪い。傷つけられたあなたは癒されなければならない。これ以上、自分を叱咤激励する必要はない。 3465 「自分のために生きていける」ということ 斎藤学 大和書房 ・自分が受けた不当な扱いについて、正当に怒ることができれば、あなたの本当の感情がよみがえってきます。 ・悩みも恵みである。それは成長をもたらす。 ・嗜癖は根本的に支配をめぐるパワーゲームである。パワーゲームの価値観の中に生きている人間は寂しい。 ・誰かをコントロールしている間は、自分の無力を感じないですむ。 ・こうした上下関係から抜け出して対等な関係を築いていくことが大人としての成熟である。 ・親に強く支配された人ほど、パワーゲームから抜け出せない。 ●特に子供時代はそうではないか? ●夫婦の間でも、これは多い。普段着の関係になるから、なおさら、地が出てしまう。 ●大人になれば、自ずと多様な価値観の世界に住む。隣の人と価値観が違えば、パワーゲームも、お互いが自分の勝ちだと信じていられる。しかし子供はそうはいかないだろう。均質な価値観の中でパワーゲームは勝手に進行するのだ。 ・相手との対等で親密なコミュニケーションは成立しない。 ・過食することで周囲の人の情緒を振り回すというパワーゲームを始めてしまえば、過食を止めることはできない。周囲に、振り回される人がいる限り、「自分の思うままにコントロールしている」感覚が味わえるから、そのパワーゲームから降りられない。 ・相手の中に何を見るかは、自分の心をのぞくことである。世界の発見は自分の発見である。相手の中に発見したものを愛せるかどうかは、自分自身を愛せる能力にかかっている。相手を抱きしめられる人は自分自身を抱きしめられる。自分の中の何かを排除し否定している人は、その部分を誰かの中に見たとき、その人を抱きしめられない。 3466 「自分のために生きていける」ということ 斎藤学 大和書房 ・自分に欠けているものを得ようとして人を好きになるとしたら間違いである。 ●そのような「必要」から始まる愛は、愛ではなくやはり「必要」というものである。 ・自己評価が高く、自分自身がハッピーに生きていたら、他人にハッピーにしてもらおうとは思わない。 ・普段はテンションが高いが、プライベートな場面ではなかなか憂鬱な一面を見せる人。それはとてもプライベートな心の一面を見せたということで、相手に対しての親密さと信頼をあらわす。相手はそのように受け取って、普段は人に見せないこんな深いところまで開示してくれて嬉しいと思う。「こんなことは君にしか言えないけどね」という調子である。そのような恋愛の戦略がある。実際にはただ甘えているだけである。 ・「全人類を救うためにわたしは生きる」と考える人。ある程度共依存を昇華していると言えるだろう。 しかしこの場合も、全人類に必要とされなければ生きられないのだろうか?生きられないとしたら、やはり何かが欠けている。そしてその欠落を満たすために「人類のため」に活動するとしたら、やはりいい生き方ではないことになるだろう。 そうではなく、自分に何も欠けてはいないけれども、あるいは人類のためと力みかえらなくても楽しい人生を生きられるけれども、人類のためになることをしてみたいというのは悪くないのではないか。 人類のためにと空想して意味付けをしないと、現在の生活を意義あるものにできないとすれば、あるいは退屈な人生を我慢できないとすれば、やはり何かが欠けているのだろうか? それは欠落をかかえた人生で、よくない人生なのだろうか? そうではなくて、欠落をかかえていても、人に迷惑をかけないようにしなさいということだろう。 3467 別れた彼と会わない。電車は一本早く乗る。彼の借金のことを自分から調べたりしない。そのようにして自分の孤独を育てている時間があなたを成熟させる。 彼の抜けた穴がぽっかりと空くだろうけれど、それはどんな孤独でどんな寂しさでどんな怖さなのか、見つめること。それがあなたを成長させる。 バスの都合があって、彼と一緒に電車に乗るには、彼女が一本電車を待って乗ることになる。 どちらの電車に乗るかは、彼女が自分で決められる。 3468 補聴器でたとえる。レセプター理論。 補聴器のボリュームが大きすぎると、閉じこもり傾向になる。 しかしながら、分裂気質はそれだけではない。ある時急に対人距離がゼロになる。 それは場面にあった対人距離調整ができないということだ。 調整ができないので、いっそのこと最大にしておいて、危険を少なくする。うっかり近付きすぎたときの危険は何としても回避する必要がある。 3469 免疫不全状態→肺炎→咳 分裂気質(性格基盤)→分裂病→不登校 性格基盤→背景病理→前景症状 遺伝的基盤 +生育歴 +生活環境 3470 源氏物語 最後の後悔。欠けたものを求め続けて、しかし満たされず、結局は一番大切な紫の上も幸せにできないままで終わる。幸せにできなかったのは光源氏の洞察力の不足からである。 しかし洞察には本質的に経験が必要であり、そのために時間が必要である。分かったときにはすべては遅い。 自分が父に与えた苦しみを、いま自分が味わう。その辛さ。それもまた愛ゆえである。 愛の情熱、エロスの奔騰をよいものと賛美するのはたやすいが、しかしそれ結果を引き受けることは難しい。これは人類の課題であろう。 時間が否応なしに人を押し流す。 3471 98-9-6 生きる喜びに見放された人たち たとえばそれはうつの人である 診察していて、「それはうつのせい、うつが消えれば、そんな苦々しい思いも消える」などと言っている。実際そう考えてもいる。 しかしそれは、あなたの脳内の神経伝達物質の異常である、とイメージしているわけで、結局は、そうした悩みも物質レベルの言葉に翻訳しているわけだ。 悩みというものの実体を、神経伝達物質の異常、たとえばセロトニンの枯渇であるとみなしている。 では、自分の悩みも、そのように考えられるか?「人生はこんなに辛いものか」と思うのをやめて、「最近はセロトニンが少し足りない」などと思うのか? しかしこの宇宙の歴史を考える。 意識が発生して、現にこのように言葉を綴っていることは、確かに驚異である。 3472 この今日の日付が一回限りだということ! カラマーゾフの兄弟。アリョーシャが、子どもたちに呼びかける美しい場面。 人の声は人に届いて、人を変え、世界を変える。 そのために生きても、悔いはないではないか。 3473 嗜癖。 むやみに語ること。むやみに書くこと。これらは嗜癖の一種である。現実的効用に乏しく、ただ自分の不安を防衛するための営み。 3474 背が高いことは少年時代の栄養状態の良さを意味し、つまりは少年時代の裕福さを意味している。 太っていることは、背の高さが伸びなくなってから、栄養がよくなったことを意味する。最近の裕福さを意味する。 3475 ピラミッドの形成期。 生殖年齢に達するまでにピラミッドは確定している必要がある。女性の生理が始まれば、そのときに魅力的に映る男性との間に子どもができる。初潮年齢までに競争の結果は確定する。 猿の社会をそのまま人間に当てはめてもいけないが。現代の社会をよく見て、語る必要がある。 3476 人間は殺人もする、皆殺しもする。大量殺戮兵器も作った。しかしその一方で、セックスを続け、世界人口は増え続けている。 殺人しながらセックスを続ける。これは面白いことではないか。 人類の希望はここにあるのではないか。 悪いことをしながらもいいことをしている。 現在を破壊しながら、未来を建設している。 一方で、 セックスも暴力に汚染されている。 人殺しも、高い理想に染め上げられる。 3477 わたしの手元に迷い込んだ小さな虫を見て、誰かの生まれ変わりかと思ったりする。潰そうと思った手をとめる。 3478 忘れられてしまうということ。この世界の記憶から。 例えば神はこの世界の詳細な記録を持っているのだろうか?神はそれほどこの世界に関心を抱いているとは思えないふしがある。作って、それきり。あとは放って置いている、そんな感じだ。 あったこともなかったことになってしまう。 あるいは、あってもなくても同じ。 この世界に何の変化も生じない。 いや、部分ではあれ、この世界の有り様を変えているのだ。それは確実だ。そう考えることもできる。 それだけではなく、世界を実際に変えた人たちもいるのだ。 その確実な手応え。 その確実な手応えに憧れるかもしれない。 そしてそれは幼児的全能感につながるだろう。 3479 患者さんたちは、救われるに値する。 わたしも、救われるに値する。 3480 トラウマはいかにして癒されるか。 孤独の足し算。一人の孤独と一人の孤独を足し算すると、二倍ではなく半分になるとの提案。 トラウマは連帯によって癒される? 個人のトラウマは、個人の内部にとどまればマイナスの意義しかないだろう。しかし共同体の財産となることで、プラスの意味が与えられる。 そのように美しい夢想をすることはできないだろうか? 共同体的意識への変換がもたらす救済。 それはにせの救済かもしれないが。 結局、錯覚である。救いなどどこにもない。 神の国での救済。それと同じである。 ドストエフスキーが、さらに遠くはヨブ記の作者が、とりつかれていた問題。無垢の魂に降りかかる受難。 それは神の意図したことなのか?意図したとすれば、一体どんな意図なのか?意図しないとすれば、その受難は無意味なものなのか? わたしは自分が無垢の魂だなどとはいっていない。 受難というほどの難もない。 しかし割り切れなさを感じるし、その延長として、受難の感覚は知ることができる。 この世界に、小さな受難が満ちているだろうと思う。 3481 トラウマはいかにして癒されるか。 あるいはトラウマはいかにして癒されるべきか。 今、わたしが幸せになればいい。それしか解決はない。 3482 では、診察室で行われている癒しの操作は何なのだろう? 悪い面も多いのではないか。 忘れること。 気をそらすこと。 別の解釈を信じ込ませること。 世間というもののばかばかしさを受容するように洗脳すること。 長いものに巻かれるように指導すること。 世間の人と同じくらい、惨めで愚かで小ずるくて、ちっぽけな存在であることを教え込む。ほとんど悪魔のささやきに近い。 しかし悪いことばかりではない。 希望の火を再び灯すこと。 自己評価を高めること。 高い志の連帯を確認すること。 本物の芸術に触れたり、高い人格に触れたりすることは、やはり意味があることだ。 (本物の芸術ね、なんてひねくれたことも思う) 3483 インターネットは、情報の再加工技術であると思えてくる。引用を重ねるための道具。直接の体験がそこにはない。 直接の体験などあるのだろうか?脳というフィルターを通して見る限り、すべては直接ではない。目に映る光をトリガーとして、脳の中にある情報を引用しているだけだとも考えられる。 その意味では、インターネットは脳の外延である。 一次情報ではなく、二次情報を増幅させるだけの装置。現代社会そのものである。情報の加工技術だけが発達している。 3484 わたしの日本語が、どんどんお喋りに近くなる。独り言に近くなる。幼児の甘え言葉に近くなる。毅然とした大人の言葉ではない。 甘えた言葉。責任を回避している。悪く思わないでねとメッセージを発している。一応こんなことをいうけど、あなたとは仲良くしたい、と下手に出ている。 「あなたと対立するつもりはない。嫌われたくない。しかしその範囲内で、ひょっとしたら、わたしのいうこととも聞いてもらえたら嬉しい」そんな雰囲気か。それが甘えるということ。 嫌われない範囲で、最大限の利益を享受したいという図々しさである。それが甘えである。 3485 罪の償いをテーマとして生きている人。 神の理不尽さをテーマとして生きている人。 この違いである。 (わたしは思うが、人がどんな罪を犯したというのだろう。宇宙の途方もなさに比較すれば、ちっぽけなものだという気がする。) 3486 記憶があるから時間が発生する。時間が発生するから「もののあはれ」が生じる。 自分の存在を肯定できなくなる。 恐怖も生じる。 罪の意識も生じる。 3487 「自分のために生きていける」ということ 斎藤学 大和書房 ・振り返ってみると、あなたの人生が一つの物語になっていることが分かる。過食症もわたしの人生には必要なものであったと思えるときがきっと来る。それはあなたの人生のある一時期に絶妙のタイミングで起こったものであり、あなたの人生というジグソーパズルを埋めるのにぴったりのピースだった。それ以外のあなたではあり得なかった。 ●こんな言い方はナンセンスだと理解力のある人ならば考える。しかし相手は気持ちの弱っている人たちである。そうかと信じ込んでしまうだろう。困ったことだが、仕方がない。せめて自分はそんなことはしないようにしよう。治療者としての最低限の良心である。 ・親は自分に何を期待したか。そんなものに支配されていた自分を見つめ直そう。ついでに親に対して怒ってもいい。 ・「わたしは楽しくてしかたがないから、いつまでもお前の人生にかまっている暇はないよ」という親だったら、子供のほうも、親に世話してもらおうと思わないかわりに、親の人生の肩代わりもしないですんだ。 ●親の人生の肩代わり。これがキーワード。 ●その根底には、DNAを介しての連続という抜きがたい観念があるから、厄介である。 ●親の脳の満足のために子供が利用されるなら、間違っている。親のDNAの満足のために子と親が利用されるのは当然である。そのように考えて整理してみてはどうか? ●子供の成績を理由に、母親の母親グループ内での順位が上昇したとして、何になるだろうか?母親の脳が嬉しいだけではないか。 ●親の期待に応えるために自分の限界を隠す必要はない。 ●子は親から逃げられない。親に病理があることも少なくない。原因は親にあるが、親には病識がない。そんな場合に、治療は行き止まりである。 3488 「自分のために生きていける」ということ 斎藤学 大和書房 ・あなたにとっての正しい答えは、あなたの中にある。 ・信頼できる友人に聞いてもらうのもいい。ただし、説教好き、アドバイス好き、批判的、攻撃的人間は選ばないこと。 ・彼らを救ってやろうと焦らないこと。それでは元の木阿弥で、あなた自身が大迷惑を受けた、「優しい暴力」と同じになってしまう。 ・相手によかれと思ってやった善意の行為が、相手の自尊心を奪う。 ●この指摘は大切。結果としていいというだけではなく、そのことが相手の自尊心を傷つけないか、注意する必要がある。「いつかは分かってくれる、彼のためだ」と言うなら、よほどの注意が必要である。 ・他人の状態が正確にわかるはずはないし、その人にとって何が正しいか知っているのは本人だけである。 ●このような言い方は正しいか?甘言といえよう。 ●何が正しいかは誰にも分からない。本人にも分からない。ただ、自分で正しいと思って選択したのなら、その選択の結果を自分で引き受けることにも納得できる。だから、自分で選択した道を進むのがいい。それだけのことである。 ●子供が不調なのは、母子癒着のせい。母子癒着を切るのは、父親の役割。これだけで、子供の不登校の責任が、子供→母親→父親とつぎつぎに転嫁される。理論は責任逃れを手助けしている。 ・死ぬときに、ああよかったと心の底から言えるか。誰かに包まれている実感をもって死ねるか。たとえ山の中で凍死しても、心の中で自分を見守ってくれるいる人を思い描いて死ねるか。それとも、世を呪って恨んで、孤独で惨めな人生だったと思って死ぬか。 ●極端な比喩であるが、そのようなことはあるだろう。実際には両極端の要素の適度な混合であろうけれど。何が違うのだろうか。経験そのものに大きな決定的な違いがあったとも思えない。受け取る態度の違いであろう。その態度の基礎は子供時代につくられる‥‥?母との基本的信頼。 3489 トラウマの癒しは、「本質的な連帯」である。 トラウマがなぜトラウマになるのか。その本質は、人間あるいは他人への信頼を傷つけることにあるのではないか。 やや心理学的にいうなら、トラウマがトラウマであるのは、基本的信頼を傷つけられる体験であるからと言ってもいい。 そうならば、トラウマを癒すのは、より上質の連帯ではないか。やはり人間は信じられると再度確信することではないか。 基本的信頼の再建である。 ここでも「孤独なバナナ」のイメージ。 トラウマは、バナナが引きちぎられること。 一人ではないことの再確認である。 本当の味方がいることを確信できるようにする。 その意味で、母親が基本的信頼の基盤として機能しない場合が困る。 3490 一人で悩んできたのね。もう今日からは一人ではないのよ。 3491 人間の順位を決める要素に、準拠集団がある。 所属集団と言ってもいい。意見の対立があったときに、だってこれは‥‥の意見だから××の意見よりも正しいのだと信じることができる。そのとき主観的に優位に立っているのだ。それが順位付けにつながっている。 しきたりや趣味の良さ、そんなものは相対的なものであるが、それでもやはり順位付けの道具になる。 3492 「自分のために生きていける」ということ 斎藤学 大和書房 ・離れていても、母親に愛され、母親と共にいることを確信している子供は、一人でいられる。 ・このような確信が持てない子供は、一人でいることが不安で、どうしようもない寂しさをかかえている。一人でいることは寂しさと絶望であり、一人でいても、自分を愛してくれている人が存在していることを信じられない。一人でいることに耐えられず、つねに落ち着きなく活動し、何かに依存しないではいられない。 ・「一人でいられる」は「○○なしではいられない」の反対。 ・誰かのために、何かのために、自分を犠牲にする必要がない。 ・一人でいられる人はしがみつく必要がない。相手を束縛する必要がない。 ・わたしたちにとっての真の欲望は、自分以外のもう一人の人から「承認」してもらうことである。しかも条件を付けない「丸ごとの承認」である。 ●生まれて成長するということは、それを失い続ける過程である。 ●同時に、未来を失い続けることである。 ・そのような欲望を相互に満たし合う関係として、親密性がある。適当に譲歩し合う。 ・自分を承認してくれる他人を探す。自分より強いもの、優れたものに出会って、その人に承認を得ようとする。承認の前段階に攻撃があり、パワーゲームがある。子供が暴力などで親を支配してしまった場合、承認を得たい強い相手ではなくなる。だから親は、子供の自己主張に適度な規制を加える気力を持ち、子供が承認してもらいたい人としてとどまる覚悟を持つ必要がある。 ●そんなのも甘えだと思う。親が何でも関係ないではないか。自分は自分だ。 3493 石上も青木も、父への不信をあからさまに表明している。父への不信があるから、素敵な男性との出会いからも遠ざかり、結局あまりよくない男性と出会い、歴史は繰り返す。 3494 患者の逆恨み。被害的な人は逆恨みも平気で口にする。しかしそれは病気のせいだからしかたがない。ところが、親までもそれに同調したりする。親も病気だったわけだ。しかし母親は子育てをしてたまにパートに出て、ゆっくり暮らしているから、分裂病でも破綻しないですんでいる。この種の人たちは病識がない。しかも被害的で、他罰的である。わがままで反省がない。悪いことの原因はすべて外部にある。そんな世界観の中に埋没している。どうしようもない。 この種の親は治療目標も理解しない。一時的に家で暴れても、閉じこもりから脱却する過程として受け入れればいいものを、「家に閉じこもっていた頃のほうがおとなしくてよかった」と文句を言う。一瞬完全治癒の魔法を使えというわけか。当然そんなことは不可能である。 逆恨みの餌食になる前に逃げることだ。それしかない。全てを治せるわけではない。 3495 ユウキ君。自分の欲しいものを手に入れようとして、おばあちゃんを相手に泣きわめく。おばあちゃんは世間体が悪いからと買い与えてしまう。 これは結局、子供にどのように育ってもらいたいかよりも、世間体を守ることが大切だと、子供に表明しているようなものである。 世間体はこの際どうでもいい。どのように育ってもらいたいか、それだけが大事だと毅然として教え込む。そこに親子の絆ができあがる。世間体よりも子供が大事だと表明することだ。 3496 「自分のために生きていける」ということ 斎藤学 大和書房 ・対人恐怖から嗜癖に至る。ものとの付き合いであれば、「自分が承認されるかされないか」という恐怖から逃れられる。 ●不安をしずめるために、ものを使う。あるいは不安をしずめるために、真性でない対人関係を結ぶ。真の安らぎには至らないから、いつまでも求め続ける。 ●日本のサラリーマンは、バーのママと、保育園の保母さんと子供のような関係をつくって甘えている。家には妻ではなくママがいる。ついでに会社は大きなママである。無条件に保護してもらうかわりに、無条件に奉仕する。 ●確かに、相手の配慮をあてにする習慣があるように思う。はっきりとした契約関係を振りかざすのはいい態度ではない。黙々と頑張って、そのことを正当に評価してもらう。評価を配慮として示して欲しい。そのような関係があるのではないか。図々しく自分の努力をアピールするのはいい態度ではないとの考えがあるのではないか。 ・「わたしへの愛と見えた多くのものは、母が自分の不安、心の傷を覆い隠すためのものでした。母は自分を絶対必要とする存在がどうしても欲しかったのだと思います。」「おまえは一人では生きていけないよ。わたしがいなければ何もできないよ」という子守歌を聴かされて育った。 ●「あの人はわたしを必要としている!」この感情が確定したときに、愛も確定する。日本女性の愛とは、このようなものである。つまりは母性愛である。 3497 一般向けの著作の多い精神科医 多産の精神科医‥‥斎藤学、町沢静夫、大原健士郎、小此木啓吾。 評判のよい、ほとんど神格化された精神科医‥‥中井久夫。 笠原先生は著作も少なくないのに、あまり評価されない。なぜか?泣かせるものがない? 外来を続けている。日曜にNHKののど自慢を見かける。これと同じだ。この人たちが外来に来ているのだ。そしてこの人たちがテレビを見て、本を買う。 3498 「あぶない心」どこが問題かわかる本 都精研編 講談社(ソフィアブックス) ・「察し」を期待する心と甘え。 ●「配慮」や「察し」を期待する。それが甘えである。なぜ自分は配慮や察しに値すると思うのか?家庭でならば、それはそれは大切な子供であろう。しかし組織ではそうではない。集団内では別の感覚が必要ではないか? ●精神療法場面でも、配慮や察しを要求している人がいる。そうした甘えが満たされないと、怒る。または不平を言う。面と向かってはいわない。陰口である。いい子でいたいから、甘えるのだ。面と向かって要求すると嫌われる。しかし要求はしたい。嫌われないで要求を通す方法が、甘えるということだ。 ●甘えは、察しや配慮を求める心であるが、それをあからさまに求めた場合、かわいげがないし、断られた場合に傷つけられる。自分を守りながら、要求するのである。守るとは、二面があり、「自分はそんなに図々しくない」と守り、一方では、うっかり要求して拒絶され、嫌われた場合の傷つきから自分を守っている。あからさまに要求しなければ、あからさまな拒絶もない。 ・「会話から対話へ」の時代。表面的なあいさつや世間話だけで人間は我慢できない。 ・I want to be myself.この欲求は日本でも増えつつある。 ●「ああ、いまわたしは自分自身だ」と満ち足りて思える瞬間。どのようにして可能であるか?どれだけの人が、その感覚の欠落に苦しんでいるか?このような感覚は結局、宣伝の結果つくられるものかもしれない。誰も感じていない幻想的な満足感を宣伝して、「わたしにはそれが欠けている」と思わせ、何らかの消費行動に駆り立てる。そういったからくりがないと言えるか? 3499 共依存。 必要とされることにエクスタシーを感じる。無力な人間が自分を頼っていると、喜びを感じる。必要とされることの必要。 さて、共依存を未熟と決めつけるべきだろうか?自分は自分、独立して生きるのがいい、生き甲斐についても、他人は関係ない、「他人が何かの状態になる、それがわたしの喜びだ」という喜びは、その「他人」を不幸にする、というわけだ。果たしてそうか? 世の中には確かに共依存傾向の行きすぎた人がいて、明らかに異常である。しかし微妙な程度の共依存傾向がある、そんな人たちの場合にはむしろ普通というべきだ。 人間の生きる喜びは、ある程度共同体的である。 環境が豊かになれば、個体優先になる。環境が貧しくなれば、集団優先になる。 共依存傾向は、集団優先であり、生きる環境が貧しかったころの生き方、生きる感覚であった。 現代は豊かな時代であり、個体優先の感覚になりつつある。 3500 分裂病者は、「孤独なバナナ」になっている。 感覚器も、思考力も、表出も、どこといって障害はないのに、孤独なバナナになってしまう。その長期にわたる結果として、陽性症状、陰性症状が発生する。 拘禁反応がモデルとなる。 3501 少年少女とテレビ ・テレビは世界のどぎつい事件ばかりを集めている。人間が五感で生きている世界とは随分違う。しかしテレビの中の世界が「本当の世界」と思ってしまう。 ・テレビは人間の全体ではなく一部だけを伝えている。虚像であることを認識しているかどうか?多分認識していない。偉い人も隣のおじさんとして付き合っていればいろいろな面が見えてくる。そのようになってはじめて人間のモデルとなる。 ・いつのまにか権威になっている。テレビからのメッセージが「正しい」のである。正しさをチェックする能力がない。論理能力がないから、より高い権威を求める。単純化していえば、馬鹿だからだまされている。 ・影響される子ども。その親はやはり影響されている。無批判に影響される態度が遺伝している。 ・テレビは答えを提示するのか、考える材料を提示するのか?能動的聴取の能力。 ・テレビの特徴。自分の話を聞いてもらえない。ただ「権威ある人」の話を聞くだけ。カウンセリングとは対極的な状況である。 ・端的に、テレビの真似をする子供がいる。これはしかたがない。そのようなものだ。人間の一部はそのような人間なのである。分別もなく、自分の欲望のために他人が傷ついても何とも思わない。そのような感受性が決定的に欠落している人がいる。欠落の原因はテレビではない。しかし、欠落している人に、欲望発散の手口を伝え、実行をそそのかしているのはテレビである。そのような、欲望制御の欠落した人間と、普通の人間とを区別しないで扱うことから出発するとすれば、まずその前提を確認することが必要だ。 無論、刑法は犯罪発生後に機能するのであって、予防的に機能することはない。従って、現状では、一部にそのような人間を含む社会を、どのように運営するかということになる。 だとすれば、利益の考量は、普通の人の楽しみという利益(そして実はそれで儲ける人が社会を動かしているのだから、その人たちのの利益)と、犯罪が発生したときの不利益を天秤にかけることになる。 現実の問題として、次のようなことが考えられる。テレビでひどいシーンを放映するとする。その場合に、スポンサーがつくか、出演する俳優たちは拒否しないか。ひどすぎる場面ならばチャンネルを替えられないか。そうしたことをクリアーして、そのシーンは子供たちの目にふれることになる。小さな不利益という痛みがあるとしても、大きな利益が優先している。社会はそちらを選択しているのだ。 3502 980920の朝日「声」。取り柄がないわたしだけれど、ボランティアで訪れた障害者施設で、手を強くつかまれて、自分が必要とされていることを実感できた。 ああ、ここでも、「必要とされる快感」「必要とされる必要」である。でも、いいんだろう、これで。 3503 この国でエリートとは、税金の山分け構造にどれだけ深く組み入れられるかで定義される。 国家という暴力組織は、税金の徴収と山分けという側面を持つ。むしろその側面が中心といっていいかもしれない。その徴収のために暴力装置も用意している。 国民はそうした権力装置の恩恵を浴びる側と、被害を被る側に分かれる。税金の山分け構造の中心に近い人ほど、エリートということになる。 そんなエリートになるために勉強しているのではない。自分で事の善悪を見きわめ、未来の方針を決める、その自信を養うために勉強するのだ。 3504 「あぶない心」どこが問題かわかる本 都精研編 講談社 ・子供たちに共通してあるのは、「申し訳ないの妄想」。「わたしは親の期待するような子供でなくて申し訳ない」と思っている。 ・ほとんどの子は何かしらの挫折感をもっている。 ・暴れている子供に対して、「おまえが生まれてきたときには、わたしたちはほんとうに元気がわいて、頑張るほかないと思って、それで生きてこられたのだよ」ということをきちんと伝えたほうがよい。「ほかでもない、おまえの親をやれて、わたしたちはほんとうに嬉しいのだ」と伝える。そういうメッセージの場を与えることが治療者の仕事である。 ●しかしそんなことを言ったら、どんどん要求がエスカレートしてしまうのが心配ではないか?北風ではなく太陽として振る舞って、おさまればいいが、おさまらない場合、どうすればいいのか、と悩みは尽きない。 ・「どんな人が来ても、治そうとしないで、分かろうとしなさい」 ●なるほど。これはいい指摘。ありのままでいいと肯定してあげることにもつながる。裁判所ではないのだから、これでいい。しかしまた、自分の趣味に合わないことであったら、「わたしはいやだ」と治療者が発言する権利も留保しておきたいではないか。公立の機関ならば、そのようなことは許されないだろう。しかし当院のような私設の、しかも大変小さな場所である。そのような自分の主張を持っていても悪くないと思う。自分の好きな「商品」だけを売る権利があると思う。 ・泥棒をする人に、「おまえが泥棒をするからには、泥棒をせずにおれない事情があったんだろうな」と聞く。それがカウンセリングの精神である。 ●なんという性善主義!まるだしの性善論である。まずこの前段階に、その来談者の精神構造の分析が必要である。普通の人が泥棒をするにはわけがある。しかし普通でない人もいるのだ。そこを見落とさないのが専門家である。 3505 「人間扱いされていない」と怒る人‥‥構造的悪循環について ・大部分はもともと被害妄想である。 ・しかしながら、治療者は微量ではあるが、「病気の人だから」という感覚をもっている。 ・患者が治療者の態度について被害妄想的になって、あれこれ訴える。「自分をどうせ病気だと思っているだろう」「人間扱いしていないだろう」など。そのようにしてしつこく訴えているうちに、治療者の側には、「やっぱり病気だな」とか「気をつけなくては」などといった気持ちが生まれ、強くなる。そうしたところをつかまえて、患者はさらに、「ひどい扱いをされた」などと言い続ける。すると治療者はさらに警戒的になり、さらに「患者扱い」するようになる。こうして悪循環は成立する。 ・しかしこの悪循環から逃れるのは難しい。患者の言葉に動かされて「患者扱い」は絶対にしないと考えたとする。しかし特別扱いすると、治療は成立しない。奴隷のように奉仕する関係になる。私的生活保護になる。最初の中立的立場を崩さないのが一番であるが、たいていは一対一の関係ではなく、第三者が介在し、話が複雑になる。この手の患者は、アルコール症や薬物依存、さらには性格障害の人たちが多い。第三者を動かすことも多い。 3506 「あぶない心」どこが問題かわかる本 都精研編 講談社 ・人生の中で、たった一人でも自分の気持ちが分かる人がいたということが、その人の生きる力の源泉になる。 ●ああ、きれいな言葉だ。そのようなきれいな世界に住んでみたい!どこかにあるのなら。 ・「それは君だけではない。みんなそうなんだ。僕だってそうだったよ」 ・思いこみの自分はほんとうの自分ではない。現実の自分がほんとうの自分である。ほんとうの自分に気付かなければならない。そして事実に即して行動する必要がある。 ●なるほど。しかしこれは人気が出ないだろう。人の気持ちに寄り添うことと微妙に背反する。この矛盾をどうにか克服しながら、カウンセリングは進む。 ●つまり、患者を肯定し味方になり誉めようとすれば、現実直視の気分には遠くなってしまう。現実を突きつければ、その時点では患者は拒絶され否定され、無理解にさらされたと思う。この矛盾をどのようにして解消できるか。それが問題である。君を肯定している、しかし現実には二人で立ち向かう、そんな気分を作っていけるかどうか。子育ても同じ。 ここで、「条件付きの肯定」をしてはいけないとよく言われる。丸ごとの肯定をしつつ、現実には直面させる。この操作の呼吸。これがカウンセリング。 ・an。時代の価値に従順な人たち。 3507 家族療法 孤立した家族 個人も、学校や会社の他に、地縁、血縁、趣味の集まり、コンピューター通信などでつながっている仲間がいれば安定する。自分をサポートするものの複線化である。 家族も同様で、孤立している家族は弱い。 孤立したバナナは早く腐る。これは家族も同じ。 その点で、地域の意義を再確認したい。そうすれば、地域医療の新しい側面が見えてくる。 こうした地域主義とデイケア、在宅医療などが連動する。 3508 AN なぜそんなにやせたいのか、理解できない。この理解しがたさが、この病気の本質を告げているのではないか? 3509 「あぶない心」どこが問題かわかる本 都精研編 講談社 ・心理的安全感が保証されることがカウンセリングでは大切。安全感が得られれば、右脳が活性化されて、何かがひらめきやすくなる。 ●すごい話。でも、安全な場所を設定して話していただくことで、別の面から光をあてたり、総合的に見られるようになったり、いまの事態の辛さを相対化することができるようになる。 ・いいお父さん、いいお母さんは、自分の本当に言いたい気持ちを抑えているから不安や不満が強い。すると子供も、良心の顔色を伺いながら育つ。自分を殺すようになる。自分が好きなことをするよりも、親の機嫌がいい方を選ぶ。こうして自分をなくしていく。 ・親や世間の期待に応える「いい子」になる。 ●いつまでもそうしていて報酬が得られればよい。しかしそうでない場合も多い。期待に応えられなかったり、応えても報酬が少なすぎたりする。報酬が少なければ、もうそれ以上はつきあう必要もない。しかしその時に、自分は何を本当にしたいのか、分からない。「もう他人の期待通りになんか生きないぞ」と思っても、次に踏み出せない。期待という信号、そして報酬がないと次に何をしたらいいのか自信がもてない。 自分で自分に報酬を与えるような習慣がない。自分の内部の満足感だけで完結していない。自分の満足のために必ず外部の賞賛を必要とする。ナルシスティック・サプライが外部にある。そのように依存している人は、自分を殺して、期待に沿い、報酬をもらい、生き続ける。 ●これがいけないと議論されている。いけないのだろうか?いけない面もあるが、いい面もあるように感じる。 3510 演歌 失われた人間の絆、あるいは信頼を取り戻す試み。信頼はあるのだと、愛はあるのだと信じさせてくれる歌。 傷ついた心を癒す。傷とは、人間を信じる気持ち、世界はいいものだと信じる気持ちが、損なわれること。 人間と世界を信じるその気持ちが、人間を人間として生かす。安心が生まれる。 そこに傷つきが生じたとき、酒を飲みながら、演歌で慰められる。 3511 「家族」という名の孤独 ・女性のケアを必要とする男と、男に必要とされる必要を感じている女が出会う。ケアは愛と混同される。女は母のような役割を背負い込み、その役割の重さに酔って、自分の人生を失う。男は、異性を愛することができるようになるという真の成熟の過程を失い、子供帰りの道を引き返す。双方の欠陥がそのような出会いを生む。当人同士はそのことには気付いていない。自由意志で相手を選んだと思っている。お見合いならこの種の出会いを避けられる。 ・娘たちの多くは、母のように配偶者を選び、母のように男に接し、母のように幸福を感じたり、不幸を嘆いたりする。 ●徒労感。やりきれなさ。行き止まり。どうしようもない。不幸の再生産の構図である。 ●異性をどのように愛していいのか分からない人たちである。愛とは何かを知らない。愛とはケアであったり。一方的な要求であったり。物を買ってもらうことであったり。いずれにしても「ずれて」いるのだ。 ・父と同じように欠陥を持った男が、A子の愛で成長し、A子を大切にし、安全にしてくれる優しい男に変身するとしたら、彼女は自分の人生の全てを受け入れることができるようになる。 ●その時全ては報われる。このやりきれなさが一挙に意味のあるものになるのだ。 ●神の概念や、来世の幻想も、同じ。この世で清算されない、報われない、マイナスの部分を、いかにして清算し、報われるものにし、プラスに転じるか。みな同じ構図のようである。 ・家族の機能‥‥安全を提供すること。 ・未熟児で生まれる→保護を必要とする→保護のシステム ●同時に、保護を要求するシステムも生まれる。子供のかわいらしさや甘え。あからさまに要求はしないが、察しを要求する。 3512 我々は世界観というものにくるまれている。 この事情を正確に描写できないか? 例えば養老先生の唯脳論なども、「人間が生きているということは世界観にくるまれているということなのだ」ということだ。 「世界そのもの」「ありのままの現実」というものは現実にはない。人間の五感と世界観により構成された「何か」があるだけであり、それは現実を生き延びるのに役立った。従って、そのような世界観を持ったものが生き延びてきた(進化論の原則)。 それは国家だったり、アニミズムだったり、性的幻想だったり、してきた。 3513 風俗嬢の発言 男は女の身の上について悲劇を聞きたがる。「劇団の上演資金を稼ぎたくて」では満足しない。父親の借金とか、母親の病気とか、そんな悲劇を聞かされて、可愛そうにと同情し、それでやっと勃起するというのだ。 そのようなファンタジーが必要なのだという。なぜか? その風俗嬢は、自分が買春していることの後ろめたさを、そのような悲劇を背負った女を助けるというイメージで、打ち消していると考えている。 また、ポルノ小説で多い筋立ては、高貴な身分のお嬢様・奥様が、セックスの力で、または暴力やその他の権力で、主人公の言いなりになってしまうというもの。 性的描写というよりも、本質的には権力関係の成立と変化の描写である。性的魅力に服従するとする筋立てならば、ポルノといえるだろう。 多くは表の社会での権力関係とは反転した形での支配と服従が成立することになる。 そうした筋立ては多くの男性が下層階級であることと呼応しているから、そこに小説としてのファンタジーが成立するだろう。 悲劇の風俗嬢でいて欲しいと願うのはなぜか?対等な取引と思いたくない。資本主義的取引と思いたくない。そんな部分があるのではないか? 3514 セックスの外注化 現代社会は、いろんなものを外注化して、生活単位としての家族を解体化している。 食事がそうである。衣類もそうだ。病気のときの介護もそうだ。 なぜ人は一緒に暮らす? 心のケアとセックス。心のケアも次第に外注化されつつある。セックスだって外注化されてもおかしくない。 土台、なぜセックスが秘め事で、秘密の事柄なのか、そんなことも、問い直してみれば、以外と理由のないことになっているだろう。 たとえば遺伝子診断がもっと簡単になれば、夫は自分の子供の認知がしやすくなる。そのために妻のセックスの相手を選ぶ権利を縛る必要はなくなる。 外食をすることと、セックス産業のお世話になることと何が違うか?男が、「ここのおかみのごはんはおいしくて」と通い詰めることと、セックスがよくて通い詰めることと、何の違いがあるか? そうなったら、家族とは何だろうか?それでも夫婦である理由はどこにあるのだろうか? あるような、ないような。 親子は、血縁によって家族である。契約の問題ではない。 夫婦は、契約によって家族である。根本的に違う。 3515 自己実現などと、聞いたようなことをいう。 その実体は、「自分が偶然に持ち合わせているいくつかの資質を最大限に利用して、最大の利益を得たい」というだけのことだ。ようするにできるだけのし上がりたいということだ。 いま自分にある資源を最大限に利用していないことから来る不全感は誰でも持ち合わせているのだ。そこを利用して、自己実現などといった言葉が繁殖する。 3516 精子は時々刻々新たに生産される。→適応を反映する。 卵子は、適応の高い精子を選択する能力が必要である。何を基準にするか? 女にエネルギーを注げるということは、全体の余裕がある、全体の能力が高いということにつながるだろう(英雄色を好む)。しかしそこで見せかけの戦略が発生する。(動物行動学にこのような例がある。)全体の適応は高くないのに、メスの気を引く部分だけが突出して進化している。 卵子は、精子の全体能力と、その中から自分にどれだけのエネルギーをさいてくれるかを評価する。 女に男が興味を持ち、エネルギーを投入する。その場合、男が他のことにもとても能力があって(たとえば100)、その一部として女にエネルギーをそそぐこともあり(たとえば10)、一方、男が他のことには能力が乏しく(たとえば20)、しかし女にはエネルギーを注ぐ(たとえば10)こともある。結果として女が受け取る分は10となるが、一族の繁栄のためにはどちらの男を選択すべきかは明白である。 だめ男だが、自分に優しい男を選べば、子分が一人である。有能な男だが、さして優しくない場合には、子分が百人位できる。どちらがいいか?そんな問題でもある。 3517 神経伝達物質とレセプター 音と補聴器のボリュームでたとえる。→レセプターコントロール技法について説明。 3518 「家族」という名の孤独 ・「男は女の母親的部分につけ込んでいる。」 ・アルコールを飲むと男は自慢話を始め、攻撃的になる。女は世話焼きになる。「相手を自分に依存させるケア(世話焼き)」をする。 ・男と子供に気をつかい、世話することで彼らをコントロールする。そのようにして家族の中で支配権を確立する。 ●自分が必要とされる必要。これを生きがいとして生きている人は会社で偉くなったりしない。なぜか? こうした人たちは会社組織にはなじまない。会社では個人は「歯車」であり、取り替えがきく。取り替えがきかない特別の人として、自分が必要とされたい、そのような人は会社になじまない。その結果として、家庭や水商売などに生きる場所を見いだす。 知能が高ければ、家庭婦人としておさまるだろう。そして支配の劇を反復する。経済力が必要な場合には、仕事をばりばりやっている。 一方、知能が低い場合には、水商売や下層家庭にはいる。水商売も、金のためである。男を養うには金がかかる。 あなたでなくてはだめだ、と強くいわれるのはまず家庭である。妻として母として、必要とされる。何より乳児の母として、必要とされる体験は強烈だろう。完全に無力な存在が完全に依存してくる。その強烈な喜び。そこには奉仕の快感も、支配の快感も含まれている。 3519 うつになると睡眠リズムが崩れる。 食欲もなくなる。これも、リズム障害と考えることができる。 リズムは、マニー細胞が作るのではないか?マニー細胞がダウンすると、リズムが消える。 3520 「家族」という名の孤独 ・「愛しすぎる女たち」。彼女たちは一人になると、苦痛や虚しさ、恐れや怒りにとらわれるので、恋愛を麻薬として利用する。パートナーとの仲が不安定で、困難を伴うものであればあるほど、より強烈な気晴らしになる。問題のある男性を愛したり、精神的苦痛を覚えるような状況に身を置くことで忙しく過ごし、自分と向かい合うことを避けようとする。 ●一人で寂しさに耐えるくらいなら、辛い恋愛をしていたい。恋愛への嗜癖の体質がある。現在の社会は全体にそのような恋愛嗜癖へと人を駆り立てるところがある。恋愛を煽れば商売になるから。しかしそのせいで、苦しみも拡大されている。 ・彼女たちは、優しくて安定した信頼できる男性を退屈と感じてしまう。「大人の男」は「養育する喜び」を与えてくれない。親との間で生まれた心の傷を、パートナーとの関係の中で修復しようとする。自己中心的で冷たいパートナーを、自分の愛情によって変化させ、暖かい保護者につくりかえることは、貴重で喜びの多い作業である。傷ついた自己評価を回復することができる。 ●このあたりが「斎藤節」である。なぜそのような喜びのパターンに固着するのだろう。 ・この女性たちは、自分の感情や身体をいたわることを学ばなければならない。安心して抱擁される場所と時間を提供されなければならない。その上で自分の能力と時間を自分のためにだけ使うことに習熟しなければならない。対等で相互に交流する「フェアな愛」を学ばなければならない。 ●こんなに理想的な境地を目指していたのでは、いつまでたってもたどりつけないだろう。こんな人はいない。 3521 薬の副作用 副作用情報として、たとえば牛乳を考えてみたらどうだろうか。 下痢をする。日本人に多いアレルギー原因物質の一つで、じんましんがでることがある。コレステロール値が上昇する。肥満の原因になる。 薬剤情報の一部は、こういったことをことさらに書いているわけだ。使用量の問題だと思う。 3522 最近の若い人たち。魅力的ではない。なぜか。 自分たちに合った美の基準を失っているのではないか? 美、自尊心、自己肯定感、集団肯定感、こうしたものは、ある程度小さなまとまった集団の中で、自分たちに適合した形で形成されるだろう。 現代はマスコミが情報を流し、美の基準や自尊心の根拠を提供しているところがある。 君は君のままでいいというメッセージは商売にならない。君はお金を払って、個々をこう変えなさいといえば商売になる。 そうなると、自分たちの持っているものへの自信よりも、持っていないものへの憧れのほうが強くなる。結果として、金髪に染めるなどという現象になる。 自分は自分のままでいいという自信とは反対の極にある現象のようである。生まれ持った自分の資質を肯定できない。なんという苦しさだろうか。 3523 人は安らぎたい。本当の自分を知りたい。本当の自分に帰れば、無理をせずに、楽に、幸せになれるのではないかと期待する。 例えて言えば、お金持ちの親戚からの相続財産を夢想するようなものだ。とても素晴らしいものが自分の内部に眠っていて、そのおかげでとても幸せになれる、そんなことを夢想しているのではないか。 そこまで図々しくなくても、現状の苦しさから解放されるきっかけが自分の内部に埋まっているのではないかと考えることはあるのではないか。 3524 怒りのエネルギーのすさまじさ 境界例患者とその妹が来て、怒りを爆発させた。 患者は、男に捨てられ、「結婚するという約束が嘘なら、慰謝料を払え」と言い、「結局金か」と言い返された。「あんな奴、許さない。殺したい。殺せないなら、死んでやる。」というわけである。大量服薬して、医者はもう薬も出さない、病院にも来るな、ということになった。 一方、妹は、姉がこんなに苦しんでいるのに、薬を出すだけか、専門家だろう、何かもっと役に立つことが言えないのかと怒っている。「こんなに苦しんでいるじゃないか。薬でこの苦しみが消える分けないだろう。いい先生だというから来たんじゃないか。ただ薬を出すんならだれでもできるだろう。」 目がつり上がって、喧嘩を売っている。結局は、入院をすすめて欲しかったのかもしれない。自分のところで看病するのは大変だから。 この人の中に虐げられて生きてきた人の怒りを見る。根本的に人に踏みつけられ利用される人生にはまりこんでしまい、世間と人々に対する怒りを鬱積させている。このような人たちの捨て鉢の怒りの怖さ。彼らは失うものは何もないのだ。 今医者から少しでもいいサービスを引き出すためにどうすればいいかとも考えない。 ただ積もり積もった怒りに身を任せてしまう。そして今現在の人間関係を壊してしまう。そしてまた怒りを背負い込む。 そして次の瞬間には、またいつもの、卑屈な作り笑いの人に戻るのだ。しまったと思いつつ。 抑圧した怒りが、暗い目になる。 磁石のように、怒りを吸着し続けるのである。なんという不幸だろうか。なぜそのような行動パターンを修正できないのだろうか。何か利益があるのだろうか? 3525 98-9-27 前景症状が盛りだくさんすぎて、あるいは次々に変化して、どれが主症状とも言えず、さらに背景病理も明確に指摘できず、困る例がある。たとえばミネオ。 あるいはfirst common pathwayのようなもので、非特異的な症状ばかりで、今後の成りゆきを見守る必要のある例もある。 3526 症状を、過去のトラウマの後遺症としてとらえる見方。 1)「甘えるな」との発言は、発言者の症状である。 過去にどんなことがあっても、現在を他の人のように当たり前に生きられないのは、やはり本人に欠陥があるからだとする考え方も多い。甘えているだけだ、人のせいにするなというわけだ。人は生きていれば誰でも辛い目にも遭う。それなのに誰でもが症状に苦しむわけではない。本人にきびしさが足りないのだとの結論に到る。それは時代の精神ということもあるだろう。戦争を生き延びてきた人たちにすれば、生きるということ自体がとてつもない戦いである。「甘えるな」という発言が出るのも、ある程度はやむを得ないと思う。 そのような「厳しい派」発言は、それ自体が、トラウマの症状であると思えてくる。目の前に苦しんでいる人がいて、その人に「甘えるな」と言ってみても何の解決にもならないことが分かっているのに、それでも「甘えるのもいい加減にしろ」と言うとしたら、やはりそれはひとつの症状であると思われる。 3527 症状を、過去のトラウマの後遺症としてとらえる見方。 2)過去の奴隷。 人はなぜ過去の奴隷になるのだろうか。過去の体験に原因する苦しみを現在生きているとすれば、その人は現在を生きているのではなく、過去を生きていると言っても間違いではないだろう。 多分、こういうことだ。現在を生きていて、適応が落ちてくると、退行状態となり、過去を生きるようになる。適応低下の結果として退行が生じるのは一般原則である。退行状態を試行してみて、うまく行けば、また現在の生活を生きるようになる。うまい行かなければ、さらに退行するか、全く新しいジャンプを試みるか、いずれかになる。いずれにしてもさらに危険な賭になる。危険を冒すよりも、「過去に縛られた現在」の苦しみを生きた方がいいと判断する場合もある。そのようにして固着が生じる。その苦しい過去よりも、耐えやすい時代はその人にはなかったのではないか。何かの点で、その人はその過去を生きることで利益を得ている。その利益は何か。 伝統的な考え方は、その過去の苦しみを克服するために敢えて生き直しているのだというものだ。しかし、それならば、忘れてしまえばそれでいいのではないか?あるいは、もっといい経験で「上書き」してしまえばいいではないか? 考えてみれば、人間の記憶は、それほど客観的でもないし確実でもない。かなりの変形を施された上で記憶されている。その変形の仕方を考えようというわけだろう。 3528 はじめの症状は、身体的。二回目からは心理的。パニック発作も、自律神経失調症も、同じ構造である。心身症一般、アトピー、喘息、なども同じ。 頭痛なき偏頭痛などと言われるような状態。自律神経系の失調状態。 3529 光源氏。そしてまた、演歌の歌詞。 「あなたは胸に理想の誰かを宿して生きている。わたしではだめなのね。」と女は歌う。 このタイプの人の場合、恋は理想化から始まる。恋のプロセスは、次第に進行する幻滅である。男は理想と現実の違いに幻滅する。女は、自分が飽きられていくことに苦しむ。あるいは減点法で採点されることに苦しむ。恋愛の時間の大部分は苦しみとなる。 惚れやすい男はこのタイプである。光源氏など。 境界例の理想化と脱理想化。惚れ込みと幻滅と訳していいのではないか。 3530 「家族」という名の孤独 斎藤学 ・共依存者が支配の道具としてセックスを用いることがある。相手が黙ってつまらなそうにしていると、自分が嫌われているように感じ、何もしてあげられない自分に嫌悪やあせりを感じてしまう。このような息詰まる関係を苦痛に感じて、逃げようとする。「親密性からの逃走」という。セックスはこのような息詰まりを解く。 ●真の意味での人間の交流から逃走して、真の親密性に至らない、偽の交流だけを続ける。 ●「必要とされる必要」に従って生きている女性は、セックスでサービスしようとするかもしれない。それが相手の求めているものならば。そして充分打算的になることができず、与えてしまう。(このことは、セックスを人生の武器として使う、普通の女性にとってみれば脅威かもしれない。セックスを商売の武器として使うなら、まだ許せるのだろう。)それでも、その女性にとってみれば、充分に見合っているのかもしれない。必要とされる喜びの故に生きていけるのだ。生きる根拠を提供してくれるのだ。 ●援助交際などの他者交流の形式も、自分が必要とされる場所を見つけたということなのかもしれない。うだつの上がらない自分が、一人前として評価される場所をやっと見つけた。その安心感と自信。そのような形でしか、自己実現の道を見つけることができない。 ・男が女に「癒す母」を期待するとき、男は女を恨むようになる。息子は「自分の気持ちを理解してくれない母」を殴り、夫は「母のように自分をいたわってくれない妻」に復讐する。 ●「僕の精神安定剤代わりになって下さい」というわけだ。それでは破綻するだろう。しかしそれでも精神安定剤の役割を引き受け続ける女がいるのだ。それが不思議である。その不思議が保存され続けることがこの社会の秘密である。 3531 過去の傷は消せない。しかし意味付けすることはできる。無意味な傷が最悪である。 3532 現代の人間関係 任意加入の集団では、個人を「なかったこと」にできる。昔の血縁、地縁集団では、好き嫌いは別にして、居場所はある。しかし今は、誰かがいなくなっても、空白ができない。何かの都合で出ていないと思われるか、出ていないことを意識されずに過ぎてしまう。その程度の、任意加入の集団になっているのではないか。 自分は集団内で特別ではないのだという感覚が生きにくさにつながっている。 3533 生活習慣病や加齢変化に対する過剰診療(過剰検査と過剰投薬)。 ビタミンDやカルシウム剤の大量投与。骨密度測定で「大変だ」と脅かされる。カルシトニンの連続注射。コレステロールの過剰コントロール。食事指導と運動処方をどの程度しているか。 それも患者が求めるから仕方ないと? ここでも悪貨が良貨を駆逐するのである。 愚かな社会へいちもくさんである。 内科医から見れば、精神科医は患者を薬漬けにして平気なのかといいたいのだろう。しかし、精神科医から見れば、「それ以外に方法があれば教えて欲しいものだ」ということになる。 同じ患者に対する対処法がまったく異なるということなのか。患者が違うから自ずと対処が異なるということなのか。その点を明確にすべきだ。 3534 「家族」という名の孤独 斎藤学 ・この暴力男は自分なしでは生きられないと確認することは、ある種の女性にとっては、自らの心身の安全よりも貴重なことである。 ●そのようにして「生きる理由」をつかんでいる。支配の感覚をつかんでいる。女性の場合、赤ん坊に対する支配の感覚に似ているのだろうか。赤ん坊は母に支配されているが、一方、母を完全に支配している。そのような依存関係。 ●いわば「わたしの赤ちゃん」である男性を見つけたとき、女性は共依存者になる。 ・男が暴力の後で示す、優しさや愛の誓いを過大に評価してしまう。 ●認知障害ではないか。認知の是正をトレーニングした方がいい。何とも歯がゆい思いで話を聞くことになる。肝心の所で、引き返してしまうのだ。 ・アル中の男は、妻に嫉妬していることが多い。妻の男性性や社会的能力に嫉妬する。 ●嫉妬しないでいられるものだろうか?たとえばクリントン。やはり根底には嫉妬があり、それが不適切な女性関係の動因になっていないか? ・緊張の高い家庭で育つ子供。世話焼きをして時間を過ごす。思春期に入って家から離れると、自分が何のために生きているのか分からない。空しく退屈で緊張して疲れる。嗜癖に逃れたり、「自分なしではいられない無力な人物」との出会いに救われたりする。こうした依存的な人の世話をしているときに元気になり、充実を感じる。 ・子は家族関係のあり方、対人関係のあり方を刷り込まれている。夫として妻としての役割やコミュニケーションのパターンが刷り込まれている。 3535 「家族」という名の孤独 斎藤学 ・テストステロンと暴力性・権力志向。 Y染色体によってつくられる内分泌器官によって、男児は胎生期からテストステロンやジヒドロ・テストステロンに影響され、男性脳が作られる。言語野の左脳局在、貧弱な脳梁。テストステロンにさらされた個体が、能動性と攻撃性を発揮する。 人間では、誕生後にテストステロンはゼロに近くなり、思春期に向けて濃度が高まる。男性の第二次性徴を引き起こす。 大きく太い骨格、厚く強い筋肉、外皮を覆う体毛と髭、敏速な逃走・攻撃反応、高感度の視空間認知。 この戦闘者としての能力を用いて、男性は女性を支配する。家族という「権力と縄張りの機構」をつくってきた。 男は順位闘争に駆られているために、女性より嫉妬深い。まず序列を決めたがる。順位争いの中で孤立していく。 ●こうした、人間を生物学的に根本的に規定している部分から出発した考察が必要である。 ●能動性はよい。攻撃性は悪い。しかし一体のものである。 ●女性が攻撃的な態度で人生を送ることを奨励されている。家族という「チーム」ではなく、「個人」で勝利するように奨励されている。ここに間違いがあるのではないか? ●しかしこんなことをいえば、女性に忍従を強いるものだといわれてしまう。男性支配を続ける無意識の方向付けだと批判される。 ●家族は縄張りの機構である。主には、食料の独占と分配に関する、縄張りの機構である。糞が他人にとって臭いのはこのことに関連している。 ●長い足は、敏速な移動を可能にする。つまり縄張りを拡張することができる。そうすれば食料を多く確保できる。これは女性にとっては魅力である。骨端線の閉止までの間、良好な栄養状態であったということだ。親が優秀だということを意味するだろう。 喧嘩は強い方がいい。リーダーの方がいい。「ハンサム」とは?遺伝子に欠損が少ないことを意味するので、有利なことが多いだろう。だからハンサムな方がいい。(しかしもてる男は資産を分散する傾向がある。この矛盾を解決する工夫が女性には必要である。あちこちに子供がいたのでは困る。) ●多産を実現するような女性の特長を好む雄は、何世代かを通じて見れば、子孫を多く残すだろう。そのような特徴をセクシャルと感じる雄が多数を占めるようになる。だから、そのような特徴が男性にとって魅力的ということになる。 ●昔は男同士が順位を決めていた。現在は女性も交えて順位を決めている。これが正当なことかどうか、やはり疑問がある。しかしこれは言うとしても慎重な表現をとる必要がある。 ●そのような女性たちのテストステロンレベルはどの程度であろうか? 3536 「家族」という名の孤独 斎藤学 ・親たちは親の役割を手放せない。子供が15歳になれば身体的には大人である。30まで我慢すれば、どうしても限界である。親をやめて、男と女に戻る。「さあ、これからどうする?」と話し合いが始まる。でも面倒だ。子供の世話を焼いていれば役割があるので楽だ。すると子供が迷惑する。 ・核家族では親子の絆が強すぎる。 ●子供たちが、社会集団の予行演習として、子供集団を充分に経験しているか?核家族がそれを邪魔していないか?核家族は個人を過剰に大切にしていないか?核家族の中で生きていると、社会集団はいかなるものであるのか、知らないで過ぎてしまうのではないか?そしていきなり社会に出ると、困難が生じる。 ●男性ホルモンが順位への敏感さに拍車をかける。母親は子供の順位で社会的序列が決まる。両方の要因で、順位に敏感になる。これは喧嘩ではないから平和である。しかし試験はいつまでも続くから、厄介である。上には上がいて、終わりがない。強迫性性格傾向を育成してしまう。 ・拒食は、「異性への接近ゲーム」から退避させ、家にとどまらせる。「子供の役割」を続けることができる。 ●母親の支配的態度は確かに印象的である。 ●メスも順位を気にするが、自分で駆け登るよりは、夫や息子の男性ホルモンをあてにしたほうが効率がよいと考えるメスも多いだろう。愛されないメスは仕方がない、自分で登る。自分で登るよりはオスに登らせたほうが効率がいいと考えるときは、間接的に競争に参加する。内助の功であったり、教育ママであったりする。 ●しかしそんなことの果てに何があるというのだろうか?何もない。ただ空っぽの自分である。人は空っぽ以外にありようがないと言えば、それでもいいが、そうだろうか? 3537 他者の内部状態に関しての推定 自分の場合:f1(event)=feeling この関数ができあがる。 これを他者にも応用して推定する。しかし、社会を生きていればそれなりに「常識」が形成される。 Aさんのばあい、f2(event)=feeling という推定をする。 知らない人でも、学者さんだから‥‥、医者だから、ソープさんだから、主婦だから、女子高校生だから、といった推定をする。 そのような、他者の内部状態に関しての推定の総和が、人間観であるといえるだろう。 この推定がうまくいかない原因として、 1)情報収集と整理がうまくできない、知的能力の欠損。 2)基本モデルとなる自分の感情反応が、一般他者とずれている場合。(性格障害の一部) 3)感情反応はずれていないが、自分の内部状態をモニターする能力が欠損している場合。(内的盲目。これも性格障害の一部) 共感能力の欠損。 (しかし、一緒に泣いているような人でも、真に共感能力があるかどうかは、怪しい) 現代社会のように、自分と生きる環境が相当異なる人が、自分のそばにいるという状況では、他者に関する推定は有効でない場合も多いのではないか。 3538 精神科医療。 誠実にやろうとすれば疲れすぎる。 続けることが患者のためになると考えて、疲れすぎない程度に続けようとすれば、いつのまにか自分の内部から腐る。 この矛盾を解決できない。 なぜか? この苦しみを他科の医者は知らないのだろう。 3539 心のモデル。 1)自分自身についての外的体験と内的体験の対応。 2)他者についての、内的状態の推定。 3)2の推定は、自分自身の体験を基礎として、かつ、その他に他人の行動や内的表白に接したことの総和を動員して、なされる。 4)この推定は、他者の心を読むので、他者の次の行動を推定しやすくなる。このことは集団内での自分の立場をよくする。食事や性行動で有利である。 ●他人の気持ちが分かるので、異性に好かれる人と、それとは別に、性的魅力があって好かれる人とがあるのではないか? たとえて言えば、眼鏡をかけて他人を見ている。眼鏡に他人の動作や表情が映るたびに、内的状態に翻訳されて、眼鏡の内部に表示される。たとえば感情、意志などである。 眼鏡であれば、頭を回して景色が移れば、感情も移るはずである。ところが景色は変わっても感情は変わらないことがある。 分裂病で、敵の回し者が至るところにいる場合。眼鏡の内部に「敵がいる恐怖」がへばりついていれば、敵は至るところにいて、患者が散歩するたびに姿を変えてついて来ることになる。  ●このモデルで、精神病状態と神経症状態とを区別できるか? ・自分についての眼鏡に傷が付いているのは、神経症。他者(外界)についての眼鏡に傷が付いているのが精神病。 ・神経症とは言っても、心気症が典型。強迫性障害は別だろう。例の、心因性二次悪循環回路が典型である。 しかしながら、眼鏡に傷が付いていたとしても、現実と比較対照することで、訂正できるはずである。訂正不可能であることが、もう一つの不可欠の病理である。 つまり、眼鏡に、外的現実とは無関係の感情が付着することが病理のひとつ目、それを外的現実と比較照合して訂正することができないことが病理のふたつ目、である。 ●妄想の種類。 a そこに殺し屋がいる。(外的現実) b 胃が痛い。(内的現実) c わたしは太っている。(中間的領域) わたしはうつだ。わたしは気力が出ない。→内的現実の歪曲知覚の場合もあるだろう。 外的現実の歪曲=妄想→精神病 内的現実の歪曲=? →神経症 こうして考えると、強迫性障害はやはり別物のようだ。 3540 変えられない過去をいかにして受容するか。 人を苦しめ続ける過去をどうすればいいのか? いま、幸せになれば、自然に忘れるのではないか?過去を振り返り続けるのは、現在の問題に対処しきれないことの結果ではないか?あるいは、現在の問題から目をそらしたいから、過去について悩んでいることにするのではないか? いま、幸せをつかめばそれでいい。 そんな方針はどうだろうか? 「変えられない過去」写真のタイトルにちょうどいい。 「受け入れられない過去」 しかしそれは実は、 「受け入れられない現在」 ではないのか? 失った未来 未来がすでに確定したものとして感じられるとき、うつである。 過去が真っ黒に見えるとき、うつである。 3541 「家族」という名の孤独 斎藤学 ・学校は評価と順位付けの場である。 ・中学は英雄崇拝の時期。逆に、劣位者を決定する必要もある時期。 ●こうしたイデオロギーを否定していかなければ、いじめの解決にはならない。しかし、昔から続いているこの優勝劣敗の原則をどうすることができるだろうか?現にあるものを、ないはずだと言い張ることができるだろうか?いや、実はそうではなくて、全ての人が、いじめられず、搾取されず、仲良く、平等に、暮らしていけるのが、人間というものの可能性の中にあるのだろうか? ●こうした優勝劣敗の原則の中で(これに反するのが、核家族の中で、個人が大切にされる制度である)、社会の現実というものを学ぶ。ここで学ぶことを拒んだものは、社会でも適応できないだろうか?あるいは、社会は学校とは違って、もっと多様な価値観の存在する場所で、このタイプの子供たちも、自分にぴったりの場所を見つけることができるのだろうか? ●学校は、エリート選抜の機能がある。それはつまりは、支配者と被支配者を決定しようということだ。まあ、支配者といっても、それほどのものではないけれど。支配者層とはいっても、その内部でさらに競争は続き、長い間の忍従を要求され、勝ち残ったとしても、自分の思い通りにできるわけではなく、組織のために働く歯車の側面が強い。だから、どちらになっても失望する他はないのだ。 ・「親の期待で子供を縛る」という「見えない暴力」。妻の期待や会社の期待がサラリーマンの過労死を生む。 ●結局、「親(またはその人にとっての重要人物)の期待するものが何か」ということだろう。 3542 「家族」という名の孤独 斎藤学 ・それぞれが他人の気持ちを敏感に察知して、その期待に沿って動こうとする。そうする人は、他人からもそうされることを期待する。それぞれが他人にとっての必要な人であり続けることを望むことによって成立していて、そのかわりに個人のあからさまな怒りや欲求は我慢させられている。これが共依存家族である。 ●この手の家族が現代にいたって種々の問題を呈しているのはなぜか。そして、共依存家族が、親密性家族になったとして、新たに抱えることになる問題は何か。こうした方向の議論が必要だ。つまり、下部構造はどう変動していて、上部構造の何の変革を要求しているのか。 少なくとも、長い間の家族は、共依存家族であったと思われる。共有しているものがあまりに多い、言葉を要しない程度の親密な関係が支配していただろう。それはそれでよかっただろう。 言葉を用いて、語り合わなければならない関係は、これからの課題である。家族の中にアメリカ人が発生したのだといってもいいのではないか。 ・学校生活の中でいつまでも親を満足させ続けることは難しい。親は気付かなければならない。 ・他人にとっての価値によって、自分の価値をはかるという態度。これが共依存。 ●さらに、自分を価値あるものと認めてくれる他人が、世間で価値ある人ということになっていれば、なおさら嬉しいわけだ。世間で無価値な人が自分を認めてくれている場合、仕方がないから、その人は本当はすごい人なのだけれど、いろいろな事情があって、いまはこんな姿になっていると、納得するための物語が用意されている。 これは例えば売春婦を買う男もそうだ。目の前にいる女は価値のある女であって欲しい。そこで、事情があってこんなことをしているという物語を用意する。それに納得してはじめて、商売が成立する。 3543 「家族」という名の孤独 斎藤学 ●他人にとって自分の価値はどうなのか、それ以外に自分の価値をはかる尺度が何かあるだろうか?他人というものは別にして、自分が本当に納得できる自分の価値。そんなものがあるだろうか?ない可能性が高い。価値はつまり、社会での流通の問題であろう。つまりは他人の思惑の集合体であろう。 例えば、キリスト教的神の存在は、こうした、共同体を過度に重視する態度からの救いになるだろうか? 共同体的価値に対立して、絶対者的価値を信じることができるだろうか? しかしそうした価値にしても、その淵源をたどれば、共同体的価値ではないかと疑われるのだ。実際の他人ではなく、自分が考える理想的他人がいたとして、彼の目に、価値ある自分でいたいとする考えのようでもある。 ●真実の根源の三種を思い出す。直接経験と、共同体的真実と、絶対者からの啓示。 ・子供があれこれの要求をするとき、子供は結局、丸ごとの自分を認めて欲しい、存在そのものの承認を求めているのだ。 ●それはそうかもしれないが、ではどうすればいいのだろうか?学校がとか、試験が、卒業が、とこだわる親もたまにはいるが、みんなそんなに愚かではない。途中からは、そんな世間並みのことは二の次で、あなたのことを大事だと思っているのよと言い続けるようになる。しかしそれでも、解決するわけではない。条件付きの愛をいつまでもいっているわけではないのだ。それなのに‥‥。親は絶望的になる。カウンセラーは抽象的なことしか言わないではないか?いったい親として、どんなひどいことをしたというのか?世間並みのことをしていただけではないか? 3544 「家族」という名の孤独 斎藤学 ・特定の教義の中で葛藤を解消することと魂の成長とを混同してはならない。 ●生活がある程度安心して送れるような経済的基盤ができれば、あとは心の葛藤を何とかしたいと思うだろう。生活自体が大変なときには、現世利益的宗教が必要とされる。豊かで知的な階層では、現世利益ではなく、心の葛藤解消型の宗教になる。 魂の安らぎや魂の成長が、メッセージになる。そして悪徳商法と結合する。 3545 人の気持ちが分からない人。何が起こっているのか。改善の方法はあるのか。 1)出来事に対応して発生する自分の気持ちが、世間の人に比較してずれている場合。 2)自分の気持ちのモニターがうまくできない場合。 3546 SSTを生活技能訓練と訳したりするから、誤解が広まる。 生活技能というから、買い物の方法とか、切符の買い方、電車の乗り方などを練習しようということにもなる。 むしろ「対人関係技術」と訳したらよいと思う。 まあ、生活技能を身につけることも大切である。そのことで生活のストレスを減らすことができる。 3547 偏頭痛百科 オリバー・サックス ・偏頭痛は、前兆と頭痛を合わせた、自律神経系の乱れである。頭痛のない偏頭痛もあると考える。 ・頭痛を止めても、他の症状になって出現することがある。頭痛を止めて、どれだけの利益があるか、よく考える必要がある。 ●以上二つは、日本でいう、自律神経失調症や不定愁訴の特徴にあたるだろう。 ・「吐き気がする」「むかつく」は、身体感覚でもあるが、感情でもある。 ●なるほど。 ・耐える必要のある頭痛の総量は決まっている。しばらくなければ、強くなる。むしろ定期的に、少ない痛みで終わってくれたほうがましである。 ●そういう面があるだろうか。痛み物質の総量が決まっているようなことがあるかもしれない。一定量ずつ次第に蓄積する「頭痛物質」。その放出パターンにさまざまあるということ。 ・てんかんと重なる側面と、自律神経ストームと重なる側面とがある。だとすれば、自律神経発作との関連を考えるのが自然だということにもなる。必ずしもそうではないだろうが。そもそも、偏頭痛の発生頻度とてんかん発生頻度は桁違いに異なる。 ・偏頭痛の保身的反射としての側面。休息が必要なときに、偏頭痛が起こり、結果として休息をとることになる。 ・ストレスに対する反応。 ・動物は受動的反応を見せることがある。例えば、脅威に際して、下痢をする、脱糞する。スカンクも同じように、進化した汗腺から大量の分泌物を出す。人間の下痢、便秘も似たような側面がないか?下痢をすれば、臭くて、他人は寄りつかないだろう。 3548 偏頭痛百科 オリバー・サックス ・偏頭痛のときには部屋に引きこもり活動停止する。そのことが何らかの利益をもたらすかどうか。 ・脅威に対する反応。1)攻撃と逃走。交感神経亢進。2)受動性と不動性。 ・攻撃・逃走は、怒りと恐れに対応する。 ・急性反応と持続反応。 ・受動性と不動性。→「頻繁に出るあくび。皮膚は蒼白、浮かび上がる汗の粒。筋肉は弛緩。虚脱。下痢。」 ・動物界の受動的反応。不動化。分泌・内蔵活動の亢進。おびえた犬は縮こまり、吐いたり脱糞したりする。「死んだふり」をする動物は多い。スカンクの分泌反応。抑制的反応は危険や脅威を避けようとし、結局は危害を加えられる可能性を少なくしてくれる。 ・文明化した社会では、攻撃・逃走は不適切で、長期化した受動的反応がむしろ適応的である。 ・フロム=ライヒマン:「偏頭痛とは、意識の上では愛している人間に対する無意識的な敵意の肉体的な表現である」 ・人類の十分の一が偏頭痛に苦しみ、五十分の一が古典的偏頭痛を持つ。 ・偏頭痛の発生パターンと決定因子を明らかにしようとする際、二種類の日記が役立つ。一つは偏頭痛の日誌、もう一つは日常の出来事を記した普通の日記。 ・医師はアドバイス、心の支え、分析を患者に与える。 ・医師と患者との関係が重要である。権威、共感、望ましい医者・患者関係の中で形成される連帯。医師の言葉や行動と同じくらい重要である。この関係こそが、あらゆる機能性疾患の患者を扱う際に決定的に重要である。 3549 偏頭痛百科 オリバー・サックス ・偏頭痛という生き方を選択する人がいること。 ・患者に対する医師の伝統的な役割の一つは、心配しないこと、休息をとること、十分な運動をすること、夜更かしをしないことなどを、言いきかせることである。 ・「頭痛に悩まされる大学教授より、健康で幸福な農夫のほうがよい」と宣言した彼自身、頭痛に悩まされる大学教授を辞めていない。 ・偏頭痛を誘発しやすい特定の状況を回避できるような忠告。それは医師の洞察力にかかっている。 ・「人は椅子から決して立ち上がらないと決心することはできるが、決して怒るまいと決心することはできない」 ・専門家には専門家の働きがある。 しかし、専門家にとってわたしたちは、専門的知識の中のほんのつまらない一例に過ぎない。 わたしが信頼を置くのは、 診察をまかせる前に、ともに世間話をし、ともに杯を交わしたことのあるような医師である。そして、わたしたちの身体の訴えを理解することが、 以下にむずかしいかを認める人である。 なぜなら、わたしたちの身体は、みなそれぞれ 自分だけの、言葉で語るからであり、 しかもその言葉は一生を通して 変化し続けるからである。 (W.H.オーデン) 3550 脅威に対する反応。 1)攻撃と逃走。交感神経亢進。→パニック発作につながるもの。 2)受動性と不動性。副交感神経亢進。→「死んだふり反応」につながるもの。 非常に急激で激烈なストレスに対しては、死んだふりに近い反応が起こるだろう。それほどではないストレスに対しては、パニック発作が起こるだろう。 しかし人によって反応の形式は異なるだろう。個々の内部特性が問題になる。 3551 患者の語る言葉。 例えば「痛い」「冷える」であるが、正確にどんな事態を意味しているのかは、慎重に考える必要がある。 ある意味で、伝達不可能な事態を伝えようとして言葉を用いているのだ。 だから伝える側も、受け取る側も、詩人の営みが必要になる。 3552 牛乳とアルコールで、薬品副作用警告のパロディをつくること。 3553 若者が魅力的でないことの理由 一つには、言葉の問題がある。もぐもぐと何を言っているのか分からない。耳が遠いせいもあるが、NHKのアナウンサーの言葉はよく聞き取れるから、耳の老化のせいばかりではないはずだと患者さんの一人はいう。 そして彼らの言葉が魅力的でないことの背景には、彼らの文化が魅力的でないことがある。なぜ若者の文化が魅力的でないかといえば、現代社会・現代文明が未来を持っていないからだろう。 快適で楽で面白いものなら、下部構造は上部構造を引っ張る。つまり、未来の下部構造が魅力的でないのだ。それが一番の問題である。 むしろ、いまの若者を見てかわいそうと思う。教育程度も低下し、倫理観も低下し、社会の活力がなくなり、国際競争力もなく、誇るに足る文化を味わうことさえ自分たちではできなくなる、そんな時代を生きるのだ。 3554 偏頭痛百科 オリバー・サックス ・もっとも大切な規則は、患者の話を聞くこと。聞かないで無視することはいけない。 ・医師と患者がお互いに理解し合えるような人間関係とコミュニケーションを確立しようとする一般的な姿勢が、あらゆる治療法に先立って必要とされる。 ・患者に受動的・従順な態度を要求する権威主義的態度は、有害である。 ●精神病は、このコミュニケーションの部分で本質的な欠損がある場合がある。それが難しいのだ。しかしまた、このように他人のせいにしてすむわけでもないのだけれど。「あらゆる治療法に先立つ基盤」がまさに欠損しているわけだから、難しい。 ・頭痛は何時間かすれば必ず終わる。この数時間を我慢できるようにする。濃いお茶・コーヒー、安静、暗闇、静寂。アスピリン。 ・自然に対して忍耐強く、ある疾患がその自然の経過をたどるのにまかせ、患者の不快感をできるだけなくす努力をするが、断固とした介入は、ふさわしい瞬間(カイロス)が訪れたとき以外は控える。これはヒポクラテスの設けた基準である。騒ぎ立てることは治療的ではない。 ・治療が必要なのは、偏頭痛ではなく患者である。 ・純粋に機械的な、攻撃的で、あわただしく、検査漬けと薬漬けの、現代医学は、偏頭痛の患者の治療には敵対的なものである。 ・治療の中心には、時代遅れの、個人的関心がすえられねばならない。 ・医師は病を理解するだけではなく患者を理解しなければならない。それを通して患者の導き手、道連れになる必要がある。この意味で医師は権威を持つ必要があり、患者は信頼を持つ必要がある。両者にあるのは倫理的関係である。偽りのない深い理解が必要である。そしてこの関係は腐りやすい。 3555 偏頭痛百科 オリバー・サックス ・医師が最終的に与えるべきもの。理解、勇気、病に対抗する生命肯定的な態度。 ・患者は一人で立ち上がる力を必要としている。医師はそれを与える。 3556 愛するのも自分だけ 憎むのも自分だけ 攻撃するのも自分だけ そのような人の夢 ヨットの上 真っ白な服でわたしは立っている 誰かがヨットの甲板に横たわっている 任務はその人を湖に投げ込むこと その前に顔をオールで潰さなければならない うつ伏せの死体だ 顔を上に向けるとそれは自分だった 自分だけが住んでいる世界の象徴である そこに他人が住むようになる それが成長だ たとえばヨットの白い服を着た人は恋人で その人を抱きしめてキスをする そのような夢になるように治療は進められる たとえばヨットの白い服を着た人が父ならば その人を湖に投げ捨て象徴的に殺すことで 父を乗り越えるだろう 君が父といっているものは 自分だ 君には他人はいないから 3557 わたしの言葉はあなたに届かず ただわたしの内部でこだまを返している 届かないからなおさら繰り返して語り続ける しかし届かず 内部でのこだまばかりが繰り返される 3558 医師が患者を診るときの目。 一人の人間としてもう一人の人間を理解したいと触れ合うときの目。 この二つの違い。暖かさと冷たさ。判定者と共感者。理解と了解。 障害者と付き合うときには、この観点が強調される。また例えば、子どものケアの際には、「子どもと同じ目の高さで」というのが決まり文句である。 勿論そんなことは常識である。子どもに見える世界がどんなものであるか、そのことを意識しない想像力欠如の人間は、障害者のケア以外でも、決定的に人間として欠けているだろう。 むしろ、そのような、欠如を抱えた人間が、好んで障害者ケアの世界にかかわろうとする事実を考えた方がいいだろう。そのような想像力欠如の人間は通常社会では敬遠されるだろう。その人にとって、居心地のいい場所はなかなか見つからない。しかし障害者のケアの場では、「その人は障害者に対して優位に立ち、ケアを与える側の人間である」として自然に、当然のこととして決定される。そういう場所ではそんな人たちも生きにくさを感じないですむ。 ところが、障害者にしてみれば、辛いことが起こる。その人は想像力が欠如しているから、付き合っていてとても居心地が悪い。普通人同士ならば、「あの人は変」と思える。しかし障害者の場合には、「自分が変」との思いがまず先にある。自分が変なのだと思うしかできない。 ケアする側も、自分が変なのだろうかとの反省には至らない。障害者は変だから仕方がないと思うだけだ。反省のないところで、一応居心地は悪くない。 このようにして、障害者ケアの場所は、実は障害者が堪え忍ぶ場所となる。そして一般社会でやっていけない想像力欠如の変な人が、そのおかしさを「のびのびと」発揮してしまう場所となる。 そんなわけで、やはり、人と人として謙虚に、向き合う、その態度は大切である。 例えば、地位も教養もある人が、心臓病になったとして、医師は「患者を診るときの冷たい目で診断する」だろうか?一人の人間として接するのではないか? 一方、長期にわたる障害が固定している人ではどうだろうか。障害が固定している場合には、社会・経済的地位が低下していることが多い。そうした背景を診察室に持ち込んで「冷酷に機械的に判定」しているという印象が生まれる。医師はエリートであるという社会的背景があるから、こうしたことは起こりがちである。 だから、貧富の差、地位の差、社会的有用性、性格のよさ、美醜、そのような一般の社会的判断を超越して、誰にでも、医の心をもって、対応するようにする、これが大切である。 一般社会で冷遇されている人の場合にも、その人の奥に、無垢の魂が宿り、世界を経験してるのだと思う。その無垢の魂を思えば、いま現在どんな姿で医師の前に現れていようとも、やはり畏敬の念を持って、診療に当たるべきだろう。 しかしまた、こうしたことを前提として、次のような事情もある。 性格障害の精神障害者がいる。「オレを人間扱いしろ。患者扱いはよくない。ひとりの人間とひとりの人間として対等の高さで話をする必要があるのではないか。」などと言う。一般論としては正論である。 その一方で、普通の人間同士ならば、つきあいを断られるような、自分勝手で、自己中心的な振る舞いをする。その場合、相手が「そのようなことをするなら、つきあいはごめんだ!」と言えば、「やはり最初から見下しているのか!」と反論する。狡猾にも敢えて事態を混同するのである。 そうした進みゆきになると、こうした事態を上記のように分析的に見ることができない職員は患者に翻弄されてしまう。 しかも、さらに問題がある。職員はアダルト・チルドレン系の人が多いのだ。過剰な一体化をする。相手のためではない、自分のために、いくらでも共感する。そしてもう一人ダメな人間を作ろうとする。そのような職員にかかれば、こうした狡猾なタイプの人は、いい餌食なのである。 患者から見れば、いつものやり方で、自分のペースに巻き込んだと思う。世間では通らない自分勝手が許される。 しかしAC職員から見れば、こちらも、やはりいつもりやり方で自分のペースに巻き込んだと思っている。「わたしの愛の力だ。わたしだから、あの患者さんは心を開いてくれた。あの患者さんのためなら特別サービスも喜んでしてあげたい。なぜなら、いまの彼にはわたししか理解者がいないから。」こうして、餌食を一人増やして、職員のAC的病理は満足を得る。 客観的に見ればとても困った事態なのに、両者とも満足しているのである。 これを竜宮城状況と呼びたい。一般世間で生きることができなくなってしまうのだ。患者も職員も。 3559 子育てに悩むお母さんへのアドバイス ・一人で抱え込まない。……助けを求めるのは恥ではない。むしろ母親として責任のある態度である。 ・ちょうどよい距離をとる。……保育所や親戚に頼って、物理的に距離をとる。 ・自分を責めすぎない。……ありのままを受け入れる。子どもが嫌いな自分も受け入れる。 3560 人は他人の痛みや苦しみを本当に理解することはできない。 そばにいる人がいつもいつも苦しみや痛みを訴えていれば、イライラしてきて腹を立てる。 苦しみや痛みは、ジョーカーのようなもので、強いカードである。痛みを訴える人に、慰めではない強い言葉を投げかけることは、自責の念を引き起こす。 ジョーカーを乱用されると、そのことに腹が立つ。 痛みを対人関係の駆け引きに使うという、「生き方」を選択する人もいるのだ。 3561 制度への依存 時間を価値に変換する。残るのは何か? 例えば、ある人が時間をかけて何かの資格を取ったとする。その社会ではその資格は有効で、生きていくのに役立つ。 一方の人は時間をかけて人間の文化を学んだとする。その社会では特に評価されず、就職にあたって有利になることもあまりない。 ある日、その社会が消えたとする。制度が消えてしまったとき、制度に依存した資格や身分は消えてしまう。そのようなものに時間をかけていいのだろうかと考えてみる。 この世に生きて、何をするか。 3562 火星の人類学者 オリバー・サックス ・「図書館には不死が存在すると読んだことがあります。‥‥自分とともに、わたしの考えも消えてしまうと思いたくない‥‥何かを成し遂げたい‥‥権力や大金には興味はありません。何かを残したいのです。貢献をしたい。自分の人生に意味があったと納得したい。いま、わたしは自分の存在の根本的なことをお話ししているのです。」 ●なるほど。「何かを成し遂げたい」この欲望かもしれない。この一節はとても心に響く。 ●この世に生まれて、この世を体験する。 経験の後に、次の世界にいくか、元の世界に帰るか、全くの無になるのか、分からない。 分からないが、この世を経験し味わい、そして出来れば何らかの貢献を残して、去っていきたい。そう思う。 例えば図書館の一冊として有意義な本を加えたい。 ●全くの「観賞する人」「味わう人」の立場もある。しかし、それを基本としながらも、変革ではないが、世界に貢献する立場もよい。 ●世界はよい・悪い。世界を変革する・味わう。この二つの軸でいえば、世界はよい・世界を味わう、これがわたしの基本の態度だ。しかしこれに「可能なら世界に貢献する」を加えたいと思う。 ●図書館には不死が存在する。これはポッパーの哲学を思い出させる。三世界の考え方。脳が文化をつくり、文化が脳をつくる。そのような一体のものとしての関係。脳は長期間存続することはできない。いつも新しいものとして学びつつ成長しつつ存在している。文化はそれらの脳の総体として存在する。この特殊な関係が美しい。 ●「自分の人生に意味があったと思いたい」これこそ、豊かな時代の欲望である。安全が満たされた人間は、人生の意味を求める。しかし、意味の次元でも自由主義的な社会は、価値の選択を個人にまかせる。そこから苦しみは生まれる。 3563 「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー(岩波同時代ライブラリー349) ・世界に「普通」の人々はごく少ししか存在していない。 ●特別の不幸はとても普遍的である。 ・人々の心の痛みに対して伝統的な宗教はあまり役に立っていない。 ●実にその通りである。なぜか?宗教はあまりにビジネスになった。良心的な人たちは宗教の腐臭に耐えきれず離れていく。異様な腐臭にも鈍感な人たちだけが残る。そしてますます腐臭が立ちこめる。 ・「悲劇も本当はよいことだ。不幸に思えるこの状況も、本当のところは神の偉大な計画の中にある」これらの言葉は善意のつもりではあっても、傷つき痛みに耐えている人々にとっては、「自分をかわいそうがるのはやめなさい。このことがあなたに起こったのにはちゃんとした理由があるのです。」とたしなめているように感じる。 ●慰めの言葉を考えるのは尊いことだ。しかしときには間違った答えをしてしまう。人間はそんなものだろう。間違いの背景には、やはりいろいろな動機があるだろう。他罰、嫉妬、攻撃。あるいは自分の信じる整合的世界観を守りたいとする欲求。そして他人の痛みに対する盲目。 ・(不幸に耐えかねて家出した人。)彼らはその痛みに対応することができなかった。現実を受け止め問題に対処することができないから、彼らは家を出て痛みから逃げ出すという「解決」の方法をとった。 ●非合理的であるが、否認にはなる。問題が自分の視野の外に去るようにする。弱い人間にはそんなことも必要だろう。 3564 悲しみに沈む人に、「世の中にはあなたよりも不幸な目に遭っている人が沢山いる。自分だけが不幸だと思ったら大間違いだ。」と語る人について、どう解釈すればいいのだろうか。正直に言って、慰めには思えない。不幸の追い打ちとしか思えない。 共感性の不足が根源にはある。しかし、この発言者は、ある意味で嫉妬を感じていたのではないか?不幸が起こり、ある人が世間の注目をあびる。ある意味では不幸のヒーロー、ヒロインが誕生する。自分を差し置いて、世間の注目を集める人が出現するのは許せない、そう思うのではないか。みんながあなたに注目して同情して、さぞかしいい気持ちでしょうけれど、ちょっと待ちなさいよ、と冷水をかける。 自分の言葉が、本当に慰めになると考えているほど、それほど鈍感で頭が悪いのだろうか?あるいは、自分の悪意を承知しつつ、そのように発言するのだろうか?その時、その人は快いのだろうか?「この人に、これだけは教えておきたいわ。いい気味だわ」といった具合だろうか? 分からない。一体何になるというのだろうか? 嫉妬に駆られた発言と考えれば分かる部分もある。 たとえばこういうこともある。攻撃性の高い人は順位をとても気にしている。攻撃を仕掛けて、相手から屈服のサインを引き出して喜ぶ。このタイプの人にとって見れば、悲しみのさなかにある人はいい餌食である。ましてや、日頃、その人に対してひけめを感じ、何とか順位の逆転ができないものかと思っている人ならば、相手のそのような状況を利用することもあるだろう。 相手が傷を負っているときに、ことさらに攻撃を仕掛けるとは、スポーツマンシップのかけらもない。アンフェアな振る舞いである。そんなことをしたら、どんなに自分が貧しい人間か、思い知ることになるだろうと考えられる。 まさかそんなことが、と思う。しかし人間はそのようなものではないか。葬式の席で、そんなことが起こっている。 3565 愛と赦し。他人を批判しすぎる習慣がある人に、必要なもの。あなたはその人を育てることができるのではないかと考えたらどうだろうか。この世界をよくするために、あなたにまずできることがそれだ。 状況を批判するのは必要だ。しかし人にはそれぞれ行動の必然がある。全否定してそれでいいというものではない。 3566 日々新しい日を迎えて、年をとるとはどういうことかを体験しつつある。どの人にとっても、その年齢を生きることは初めての体験である。 3567 正義を求める心。そして正義の貫徹されない世界であることを神に抗議する心。 これは嫉妬心に似ているのではないか? 愛と幸福の分け前が公平ではないことを神に抗議している。それを正義と言い換えている。 この世界は公平ではない。制度は公平に出来るが、自然も人生も公平ではない。この現実をどうとらえるか。 フィクショナルに、実は全ては公平なのだと考えてみることもできる。公平の概念を洗練させることもできるかもしれない。 しかし自然な気持ちで事態を見つめれば、不公平は厳然と存在するように思う。 幸運を与えられたと見える人も、それが不幸の始まりであったり、と考えることはできる。実際にそうだろう。人生はいろいろなことが起こるから。 才能も寿命も財産もチャンスも不公平に与えられる。そのような世界である。 しかしそれを受け入れられるかどうか。そのような世界をあっさりと受け入れてさらに前進できるか。あるいは不満を神に向けて、あるいは周囲に向けてこぼし続ける人生にするか。 ある程度の幸せがあれば、忘れていられる。そんなものだろうと思う。自分にふさわしい幸せはどの程度のものであるか、その基準以上の幸せがあれば忘れていられる。自分にふさわしい幸せの基準が高すぎる人は不幸である。 3568 「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー ・悲しみにくれている人に対する援助。「ものごとには時がある。手の施しようがない状況が確かにある。あなたがどれほど努力してみても、修正したり解決したりできないことがある。それでも、そんなときにもできることがある。悲しみに打ちひしがれている人のそばに、ただ黙っていてあげ、その人が泣いていれば泣く手助けをしてあげる。そうすれば、その人が置き去りにされひとりぼっちで寂しく泣くということはなくなる。」 ●肯定的に寄り添うこと。 ●しかしこの時、悲しみに沈む人はあまりに無防備である。相手の人が攻撃的であったりすると、ひとたまりもない。パワーゲームをしかけられ、屈服の仕草で返すまで、攻撃される。なぜこんな時にそんな目に遭わなければならないのか? ・どんな人であれ、「六ヶ月が過ぎました。もう立ち直る時期に来ているのですよ」などという権利もない。 ●なるほど。しかし医師の場合にはまた別だろう。過度の甘えを予防することは大切である。しかしその時、医師としての判断ではなしに、「もうそろそろ仕事しなくちゃね」と感じていないか、チェックが必要である。 ・人生は善であり聖なるものであり、病気や死が悲劇にすぎないことを理解した。 ●病気や死などの悲劇に意義を見つけようとすれば、それは慰めではなく攻撃になる。これがポイント。そんな慰めよりは、その人の感情のままに十分に泣き、悲しんでもらうのがよい。その間、寄り添うこと。遠慮なく泣いてもらうための場所と考えていい。 ・自分たちの悲しい体験を希望に変え、同じような体験で苦しんでいる人たちに自らの経験を語りかけ、援助の手をさしのべる。 ●これが自助グループの原理。不幸を希望に変える。それは可能か? 3569 「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー ・人生の不公平さ。 ●これに我慢がならないと感じるとすれば、それが真の意味で豊かではない証拠ではないか。 ・不公平な出来事に対する深い痛み。憤り。わたしは悪い人間ではなかった。 ●ここがヨブの叫び。答えは結局、不幸には原因もなく意味もない、その無意味さに耐えなさいということだ。 ・神はそれぞれの人がその態度や行いにふさわしい人生を送るように見守っている。 ●このような神の観念が、不幸に遭う人にとっては居心地が悪い。神がそのようなものであるならば、不幸にあった人はその不幸にふさわしい悪い人だということになる。正しい人も悪いことに見舞われるならば、神の観念についての訂正が必要である。著者は、神の観念について部分的修正を加えようとしている。全ては神の意志だとはしないで、神にもどうしようもないことがこの世には多いと考える。神の働きによって不幸が起きるのではなく、不幸が起こった後の人間の対応の仕方にこそ神の働きがあらわされると考える。しかしこれは、そう考えれば不幸を耐えやすいというだけである。神の観念は、不幸を耐えるために役立つ「装置」でしかないのか?本末転倒ではないか? ・この世に正義があるのなら、こんなことが自分に起こるのは間違っている、と考えている人に読んでほしい。 ●つまり正義などないのだとの結論が待っているのではないか?しかしそれを言ってはならない。不完全でも神はいてほしいのだ。なぜか?神がいなくなって失われるものの大きさを思うから?日本の社会のようになることの恐怖と言ってもいいかもしれない。知的水準は低下してもいい。倫理の水準が低下するのが根本的に恐い。それはドストエフスキー的野獣を社会に放つことになる。例えば、中国人がうごめく新宿のようだ。 3570 「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー ・なぜ善良な人が不幸に見舞われるのか?これが根本的な問いである。 ・宗教はまったく安らぎを与えなかった。むしろ、宗教が彼らの気持ちをことさらにみじめにしていた。 ●伝統宗教は、まったく世俗の権力装置である。その人が不幸に見舞われて、社会・経済的階層が低下すると、宗教はその人に辛くあたる。 ・根拠のない罪意識によって、人々は神を憎み、自分自身を憎むようになる。 ●このあたりが本末転倒である。神という「装置」はこのような構造的欠陥を持っている。しかしまあ、そんなに目くじらを立てなくてもいいだろうという気持ちで、たいていの人は通り過ぎる。人々はこんなことばかり考えているわけではないから。 ・病院や老人ホームの実態を知っていながら、全ては神の思し召しだと言えるだろうか。 ●確かに、実態はひどい。考えさせられる。しかしそれが人間の限界でもある。誰もどうにもできないことがあるだろう。福祉を充実させようとすれば、何かを削ることになる。無駄づかいを減らせばいいが、それがなかなかできないのが人間の社会である。それほどの高度な倫理を求めることは難しいのだ。特別なときの倫理と、ふだんの生活の倫理とは、連続はしていても、同じではない。 ・不正直で良心を持たない輩は、しばらくは栄えることが多いが、ついには正しいものが追いつくのだ。邪悪は草であり、正義はナツメヤシである。同じ日にまいたら、草の方が早く芽を出し成長する。しかしそれは一時的なことで、ナツメヤシは長い時間をしっかりと生き続ける。よい。しかし願望が多く含まれている。 3571 特別なときの倫理と、ふだんの生活の倫理とは、連続はしていても、同じではない。 一般人が従うべき倫理と、わたしが従うべき倫理とは、連続しているが、同じではない。 3572 「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー ・人は理由もなく災難に見舞われ、神は世界と何のかかわりもなく、運転席には誰も座っていないという考えをかかえて生きていくことは、もっと苦しいことだ。 ・もし神が支配していないのなら、誰が支配しているのか? ●偶然である。と結論したとき、どんな苦しみが始まるか。 ●同様に、死後の生はない、と結論したとき、どんな苦しみが始まるか。あるいは、人生は無意味だと結論したとき‥‥。 ・神に対して怒りを抱く自分に罪の意識を感じる。 ●このあたりが辛いところである。人は良心的であれば苦しむ。 ・理由のない苦しみ、身に覚えのない罪に対する罰としての苦しみは耐え難い。 ・「何のための苦しみかは教えて下さらなくてもかまいません。ただ、神よ、この苦しみがあなたのためのものであるという確信を与えて下さい」 ・まったく理にかなわない苦しみを、人に負わせる神を、どうして別扱いして許す必要があるのか? ・苦難には教育的な意味があるか? ・「苦しみの目的は、その人の人格の欠点を修正するところにある。苦しみは徳を高め、高慢さや浅薄な考えを浄化し、その人をより大きくするためにある。」 ・「いまは理解できなくても、いつか成長して、この苦しみも自分のためだったと知るときが来る。」 ・医療について何も知らない人が外科手術を見たら、一種の拷問と思うだろう。 3573 人間が永遠に生きるなら、人生に選択はない。人生の時間が有限だから、選択する必要が生じ、苦しみが生じる。 3574 ピアノ教師の悪癖 誇大な形容を多用する。根拠薄弱なのに断定する。良識の支配する社会では、このような悪癖は排除され、訂正されるだろう。しかしピアノ教師という立場は、この悪癖を助長する方向に働いた。 客観的な評価基準がない。教師や権威を崇拝にまで高める、頭の悪い「顧客」がたくさんいる。そんな中で、市場の一角を確保していくためには、ある程度のはったりや威勢の良さ、あるいは断定が役立つだろう。 そんなことの果てに、何が真実であるかを見失ってしまう。 医者の仕事もある程度は似ているところがある。注意が必要である。 3575 「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー ・神の立場を守り、悪を善、痛みを恩恵と言い換えることでしかない。 ・苦しみの原因が神あり、神がなぜわたしたちを苦しめるかを理解しようとしている。ここに誤りがある。 ・ヨブ記‥‥善良な人の苦しみをなぜ神は黙認しているのかという問い。 ・「わたしの子供たちは悪人だったから死んだとでもいうのか?わたしが邪悪な人間だから不幸になったというのか?」 ・どうしてそのような神が、義の神と言えるだろうか? ●不幸になったこと、その不幸の故に神を信頼できなくなること、あるいは、他人の心が信じられなくなること。このようにして、不幸は二重の構造となる。 ●幸福なときには周囲の人たちは幸せな顔で接してくれる。人間はいいものだと信じられる。不幸になれば周囲の人たちはそうした信頼を打ち砕く。不幸な人はさらに不幸にさせられる。運命によって不幸になった人は、人々によってさらに不幸にさせられる。 ・被害者に責任を負わせることで、悪はそれほど不合理なものでも恐ろしいものでもなくなる。犠牲者を悪くいうのは、世界は見かけよりも住みやすいのだ、人が苦しむのはそれなりに理由があるのだ、といって自分自身を安心させるための一つの方法である。それは、幸運な人たちが、自分たちの成功は単なるまぐれ当たりではなく、それにふさわしいだけのことをしてきたからだと信じる役にも立っている。 ・この考えは、犠牲者をのぞいて全ての人の気分をよくしてくれる。被害者は不幸に苦しみ、さらに人から非難を受けるという、二重の苦しみを味わう。 3576 「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー ・神が全能でもなく公正でもなければ、道徳的に従順でいれば神の報奨がもらえるという打算を抜きにして、純粋な愛故に神に従い、道徳的になれる。かりに、神がお返しに愛してくれなくても、人は神を愛することができる。 ●なるほど。 ・ヨブは神を公平という概念を超えた存在と見る。 ・善に対してではなく忠誠心に対して報奨を与える物騒な古代の王。道徳的に欠けるところのないヨブを、忠誠心を確かめるためだけに苦しめ、最後にはたっぷりと報奨を与えて、゛うめあわせ゛をする。これが古いヨブの民話。 ●善や公平は、神を超える法ではない。神はそれらを超越している。 ●その神が公平だから信じるのではない。 ●こうして愛の神の観念が発生するのか。愛の放射源としての神。 ・ヨブは、神との間に裁定人がいてくれればと願う。神が神自身について説明しなければならなくなるような。しかしそれはできない。相手は神だから。 ・ヨブは言う、「わたしたちは公平など期待できない、理不尽な世界に住んでいる。神は確かに存在する。しかし、正義や善という限界に縛られない存在なのだ。」 ●心理療法家は、愛を伝えればそれでいい。裁くことも、世の中に公平を徹底させることも役目ではない。しかし、そうしたことは密接に関係していて、単純に区別できるものではないけれど。 ●神から発する愛を患者にも伝える。 ・正しい人にも不幸が降りかかる。しかしそれは神の意志によるものではない。神は全能ではない。これがヨブ記の作者の意図であると思う。神は全能であるという信念を放棄しようとしている。 3577 「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー ・公平な神がいれば心は安まる。人生はずっと楽になる。しかしこのような慰めは、無実の人の犠牲の問題を曖昧にしてはじめて、慰めとして働く。わたしたちがヨブであったなら、このような世界や神を信じることはできない。 ・神が正義の神であり力の神でないとしたら、わたしたちの上に不幸が訪れたときでも、神はやはりわたしたちの味方である。神は知ってくれている。不運や不幸は神のなさることではない。だから、わたしたちは神に救いを求めることができる。 ●なるほど。 ・わたしたちの問いは、「神様、なぜあなたはわたしをこんな目に遭わせるのですか?」というヨブの問いではなく、「神様、わたしのこの有り様を見て下さい。助けて下さいますか?」という問いとなる。わたしたちは裁きや赦し、報いや処罰ではなく、力と慰めを求めて、神に向かう。 ●そして神の救いは隣人を通してあらわれる。それが愛である。 ・聖書が語っているのは、なぜその人が不幸になったかではなく、不幸な人を特に擁護する神である。 ●この延長線上に福祉国家があり、社会活力の衰退があるのだろうか?そうではない? ・神に対して抗議することなく、降りかかった出来事に対して怒る。 ●なるほど、不幸が神の不信につながる、ドストエフスキーのようなことにならなくて済む。 ・何の理由もなく何かが起こる、この宇宙はでたらめだという考え。これを受け入れることができるか? 3578 「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー ・地震や事故は神の意志ではなく、神もそのことで怒ったり悲しんだりしている。 ・ミルトン・スタインバーグが「神の創られし神殿のいまだ取り払われざる足場」と呼んだ悪。これからも存在し続けるのか。悪の消滅はこれから時間をかけて達成されるのか。あるいは神はもうすでに役割を終えているのか。これからますます混沌が世界を支配するのか。 ・地震は神の行為ではない。神の行為とは、地震が去った後で生活を立て直そうとする人々の勇気のことであり、被災者を助けるために自分にできることをしようと立ち上がる人々のことである。 ・不幸に見舞われて、「いったいわたしがどんな悪いことをしたというのか?」というのは間違った問いかけである。「こうなったいま、何をなすべきなのか」と問うことが正しい。 ・痛みの原因は分からないかもしれないが、痛みの結果については選択できることがある。敵意や妬み、あるいは豊かな愛情。 ・ヨブが必要としていたのは、同情と思いやり、自分は悪い人間ではないのだという確信、そして優しい友人。 ・ヨブは、自分の身に降りかかった災難は、恐ろしく不公平な出来事なのだと誰かに言ってもらいたい。頭脳と精神を強く保つための助けを必要としている。 ・自分のせいではない苦痛に苛まれている人に、神は強さと勇気を与えてくれる。 ・本能をコントロールすることができる。人間であるということの本質。 ●こういえば、一般人は喜ぶだろうか。 3579 生きる感覚、生きる規範の違う人間がいる。何種類くらいいるものだろうか。 3580 現代社会を効率優先主義だと非難してみても、空しい。それはすっぱいブドウである。 「効率のレベル」が多様にある。 マスコミのばかげた騒ぎにつきあうことは空しい。知識人や文化人といわれる人の提示している知識や文化とはいかなるものであるか。テレビに映る馬鹿騒ぎとかわらない。 ではわたしはこの世で何をなすか。この問いは残る。 3581 「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー ・どんな不幸な子供時代を過ごしたとしても、全ての成人は自分の人生を選んでいく自由を持っていると主張したい。 ●過去が現在を縛る説への反発。これも耳障りはいい。しかしどうだろうか? ・創造し支配する神と、苦悩する神と。 ・「わたしたちこそ、わたしたちの人生について神に責任を負っているのだ」「神に仕えるために、神の命令に従うために、わたしたちはこの地上に生きている」 ●人はなぜ神という「装置」を必要とするのか。順位性社会を営むにあたって、現世の最高順位のさらに上にあるものを想定したくなる。それはありそうなことではないか? ・ヨブが本当に求めていたのは、神学ではなく、慰めの言葉だった。 ●これは大切。医者の心構え。これをメディカルマインドの三本柱の一つとしていいくらいだ。もう二つは科学の心と倫理の心。慰めと科学と倫理。 ●科学は真実を求める。科学は方法である。慰めは患者に向けられ、倫理は自分に向けられる。 ・ヨブは助言ではなく同情を必要としていた。苦しみを分かち持ってくれる愛情。誰かが自分の痛みを分かってくれているという実感。 ●利害関係のあるときには難しい。また、直接被害を受ける側になると、難しい。 ・悲しみに打ちひしがれている人に向かって、何を言えばいいかは難しい問題であるが、何を言ってはいけないかは、少しは簡単だ。 ●悲しみをストレートに表現するということは、周囲の人にとっては、迷惑なことがある。みんな面倒くさいのである。それでも悲しみを分かち合うとすれば、同情心が深いか、同情を見せないとすれば村八分になりそうな雲行きだと察知したときである。権力関係がここにある。 3582 垂直に掘られた海中トンネルのようなものを想像してみる。深い方が悲しみ、浅い方が喜びとする。まわりの景色は過去と未来である。やはり深いところには悲しみがあり、浅いところには喜びがある。 さて、いまが悲しいとしたら、海底深く沈んでしまい、まわりを見渡しても、過去と未来の悲しい部分だけが見える。これがうつの際の、うつ場面選択想起である。逆に、いまが楽しければ、過去と未来の楽しい部分だけが見える。 楽しい場面が見えた方が気持ちは楽であるが、どちらも歪んだ認知である。 垂直に掘られた現在というトンネルから抜けて、自分と現在・過去・未来を眺望する視点が必要である。 人間の記憶は「気分」をキーワードに整理されて格納されている。だから、ある気分の時に過去の似た気分の時の記憶が再生される傾向がある。それは、そのようにして、その気分の時の行動パターンを再生するためである。いちいち考えなくても、似た気分の時の行動や思考が再生されるから便利である。 3583 「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー ・責めないで抱きしめてくれる友が必要。 ●この人は責められたのだろうか。彼は神と自分を責める。まわりの人の一部は彼を責める。まさに二重、三重の不幸である。 ・そばにいて、耳を傾けること。 ・「まったくひどい話だ。どうやって耐えたらいいか、想像もつかない。」そして無言のままそばにいる。 ・1)全てのことには原因がある。2)起こったことの原因はわたしにある。この二つの傾向が人間にはあり、結局、悪いことの責任は自分にあると考えがちである。 ・赤ん坊の場合、何かを望めがかなえられる。全能感。この傾向から抜け出せない人がいる。 ●社会という、人間にとっての現実を行き始める必要がある。社会化。それはつまり、取引をするということだ。何かを我慢して、何かの利益を手に入れること。我慢はしないで利益を手に入れようとするのは社会化ができていない子供である。 ・自分の病気や孤独を盾に取ったり、子供の持っている後ろめたさに働きかけて、子供の注意を何としても自分に向けようとすることもある。 ・子供たちの幸せのために自分を犠牲にしてきたと言いたてて、一生かかっても償いきれないほどの負い目を子供に与えるユダヤ人の母が、文学作品の中に、お決まりの母親像として登場する。ユダヤ人の母は電球を取り替えない。「わたしのことは心配しないで、行って楽しんでいらっしゃい。わたしはこのまま、真っ暗ななかに座っていてだいじょうぶですから。」 3584 竹内君 ・君にとって他者とは何か。夢の中に、君にとっての重要人物が登場して物語が進行するまで。 ・この世で欲しいものはもうないという。君は何を与えたか、考えてほしい。大切な人に、何を与えたか。この世界に何を与えたか。 ・誰かを幸せにしようではないか。まわりの人たちを幸せにしよう。愛する人を幸せにすることで、人はどれだけ幸せになれるか、試してみないか? ・この世界を十分に味わったか? ・父と母。思い出は辛いかもしれない。しかし、人間の記憶は、現在の気分をキーワードにして再生される。現在を幸せにしよう。 ・弟と母。君の家は二子山部屋と同じだ。跡継ぎとしての自分。しかし自分より優秀な弟。まず第一に、君は実際自由だということを思いだしてはとうか。 ・どの治療者も君を投げ出した。父母も君を投げ出したかもしれない。しかし少なくともわたしは投げ出さない。君が人生をよりよいものにしようとする限り、そばにいて協力する。 ・しかしわたしが生きるのではない。君の人生は君が生きる。わたしが君の山に登っても意味がない。方法も君の方法でやるしかない。わたしはわたしの方法を紹介することもしない。そんなのは素人療法である。君が、本来の君の生き方を十分に生きられるように、援助する。それまでわたしは君を見捨てない。 ・人は他人のことは分からないと言う。厳密な意味ではそうだろう。そこに君の絶望の表現がある。しかしそれでも、わたしは君のそばにいて、君の話に耳を傾けたい。真の意味での対話を試みたい。時間はかかるだろうが、君を批判したり診断したりするのではなく、君を理解するために、君のそばにいて耳を傾けたい。 3585 空想的(誇大的)自我と現実自我の落差 それが彼女の課題 なぜ現実をあるがままに受け入れられないか あるがままの現実はつまらない。つまらなすぎる。これが理由?しかしそう感じているとすれば、ある種の鈍感さ、盲目があると思う。 良い現実ならば受け入れられる。しかし悪い現実ならば、空想との間で、どちらを採るか、選択の余地が生じるのではないか。一種の「利得」である。 3586 内科医師も抗不安薬や抗うつ剤を使う。しかし効き目が違うように思う。 つまりは心理療法部分の違いであろう。医者も心構えが違う。 患者としても、心療内科に来れば、それなりの「覚悟」ができるのではないか? 3587 学校では落ちこぼれ、家では王様。あるいは、心身症を出していれば、落ちこぼれから特別扱いの人間に昇格できる。 家ではぬるま湯、社会は冷たい水。 これでは社会に出ていけないはずである。 空想的なことばかり言っている子どももいる。 プロスポーツ選手になるとか、音楽関係をやりたいとか。現実を経験していない。だから現実がわからず空想が肥大する。だからこそ、現実に触れればとても大きく傷つく。 現実を分からせるのが親の役目である。 親は子の現実機能を育てないといけない。 子育ては、子を引っ張るのではなく、子が自分で伸びようとするのを見守ることである。双葉を引っ張ってはいけない。 3588 「くよくよするなといわれてもくよくよしてしまう人のために」北西憲二 ・価値規範が明確でない現代では、他人の思惑を推定し先取りすることで価値規範とする。推定には曖昧さがつきまとう。そこで対人恐怖他の病理が多発する。他人が望んでいるであろう自分の姿に合わせる。 ・どうしようもない問題はない。「ねばならない」に縛られているからそう思うのである。とらわれから逃れて、あるがままを受け入れればよい。 ・子どもは、他人の期待に応える生き方をしている。できる子、いい子、など。生活感覚が欠けている。現実が欠落しているので、空想が肥大する。肥大した空想は現実とぶつかると、傷つきが大きく、落ち込んでしまう。あるいは「キレル」。自分に対するイメージの振れ幅が激しい。合わせなくてはいけないと思っているものは、実は張りぼてのような中味のないものである。実体のないものに自分を合わせていこうとしている。些細なことで落ち込み、傷つき、怒り、不安になる。 ●現実を生き、知り、受け入れ、いいものだと思うことが処方箋。 ●現実よりも、空想を生きた方がいいと判断している。なぜか?さほど苦しい現実でもないのに。 3589 精神医療の現場での絶望。 治らない。 話が通じない。曲解される。被害的に受け取られる。 性格障害者に嫌な思いをさせられる。 どうしようもない。 3590 マスコミで流れる断片的な情報。部分から全体を空想的に組み立てる癖のある人、論理力の弱い人などは、すぐに妄想的、誇大的、被害的、完璧主義的になり、現実とは関係のない世界を作り上げる。 このような精神的状況を助長しているのが、マスコミである。虚像を売る産業である。人々は自分の体験から物事を考えることをやめる。権威ある人が何かをいえば、それを信じる。ただそれだけ。権威ある人であるマスコミはすべてを説明してくれないから、また、商売のために活動しているから、人々は踊らされる。 3591 登校拒否時を「安易に」休ませる態度。 患者の弁護士としての立場。社会正義の立場。社会維持を大切と考える立場。 個人で開業しているのだから、このあたりに関しても自由でありたい。 弁護士の立場。これは採らない。患者の利益のために、詭弁に近い論理構成までして、ことにあたるのはわたしは好まない。しかし、患者の状態を見誤っていたとしたら、その上に立ち判断は患者を苦しめる場合がある。だから、必ずもう一人の専門医の判断を仰ぐようにする。 社会の利益や社会正義を優先する立場。しかしこれも好まない。わたしは警察でもない。 公正を代表しようとも思わない。 その場その場でベストの選択をする。その際に、単純で誰にも共有できる判断基準があるとは限らない。 NTTでの経験からいえば、やはり社会にも会社にも寄生虫はいる。 子どもを甘やかす結果になるのか?保健室登校を認めるのは、かえって学校軽視につながるのではないか?そのような疑問はもっともである。 3592 好かれる人と嫌われる人。 好かれる人は、保険料を払って暮らしているようなものだ。保険料は負担になるが、安心はできる。共同体的存在。 嫌われる人は、保険料を払わなくてもいい。その代わり、危機にはとても辛い思いをする。 3593 心療内科治療の類型。 病態水準として神経症型。その類型として、以下のタイプがある。 まず心理が原因になるものと結果になるものがある。 1 心因型。心因を軽減する。 2 心配が現実の困難を何倍にもしているタイプ。心配を取り除いて、正味の困難にまで縮小する。 3 性格因型。 病態水準として精神病型。 4 分裂病型。 5 うつ病型。 6 未分化型。 子どもの場合には発達途上の特有の病態を見せる。 3594 典型的性格障害。自分で必要な努力をしないのに、結果だけは求め、得られないとなると他罰的になる。 このタイプの人は心因論他責型として説明されることを好む。 器質性と診断されるのは辛い。心因としても、自分の性格が悪いと診断されるのは辛い。自分は悪くなくて、誰かに責任があり、自分はむしろ被害者であると診断してくれれば嬉しいに決まっている。そのように図々しいことを求めてなお反省もしないのが、このタイプの性格障害である。 地道に努力しないで、それでも幸せにしろと人に要求する。 3595 心療内科では話は通じる。しかし、結局マイルドな精神病なのかもしれない。 3596 感情と記憶 ・両者とも海馬に関係している。 ・出来事の記憶は、感情というマーカーがつけられて、整理収納される。再生しようとして検索するときは、感情がキーワードになる。また例えば、香りや光などの類似が手がかりになることもある。 ・例えていえば、ビルのようなもの。各階はそれぞれの感情に相当する(喜怒哀楽)。記憶は感情をつけて整理され、その感情の階に収納される。その階で降りると、まわりの景色はその感情に分類されたものばかりが集められている。 ・そこで、うつの気分の場合にはうつの場面が選択的に想起される。 ・分類の細かさには個人差がある。若い人は、ムカック、キレル、カワイイ、程度で分類される。これでは現代生活を生きる体験を整理するのには足りないだろう。不安や葛藤の処理がうまくできないだろう。 ・情動はなぜ必要か。新たに類似の場面にぶつかったときに、過去の行動パターンを呼び起こすマーカーとして有効である。検索のキーワードである。キーワードが少ないと検索がうまくいかず、混乱する。葛藤処理がうまくいかなくなる。 ・健康な自我は、ビルのエレベーターをある程度自由に行き来できる。病的状態では、身動きがとれなくなる。その階(その感情)に固定されてしまい、同じ景色しか見えなくなる。 ・別の景色・別の階に行く方法が、自律訓練法である。また、一つの階しか見えなかったものが、いくつかの階が同時に見えるようになる、それが自律訓練法で達成されるもう一つの目標である。 ・とらわれがある。一つの感情状態に縛られてしまう。スムースに移動ができない。一種の視野狭窄。これを解除するのが成長である。治療である。 ・現在を変えれば、過去も未来も変わる。これは希望のもてる理論である。そして実際にそうだと思う。 3597 分裂病者は、自分の病気を正確に認識していない。さらに薬を拒む。なぜだろうか。 病識欠如は昔から指摘されている。病識形成に関係した部分を病気は侵しているのだと推定できる。現実把握の仕方の障害。自然な論理の障害。 薬に関しては何が言われているだろうか? 単なる薬嫌いとも思えない。眠気や怠さがいやだからとも思えない。リーゼさえいやだという。神経症やパニックの人たちは薬をありがたがる。分裂病者の拒薬にはもっと深い理由がありそうである。 独特の頑固さ、話の通じにくさがこの頃は目立つ。 3598 たとえば音楽を要約することはできない。音楽は体験である。時間の流れに沿って、体験する。 物語は体験を与える。二つか三つの認識に要約することはできない。 3599 「わたしが守らないとあの子はだめになる。」 その裏側にあるメッセージは、 「いつまでも保護を求める子でいてほしい。そうすればわたしの役目があってとても満足。求められるわたしでいられる。」 親子の中にある共依存。 3600 「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー ・説教するのではなく、「君の力になりたい」と伝える。 ・痛みを感じたときに怒りを感じるというのは、本能的な反応のようだ。 ・怒りの処理。愛する者を怒ってはいけない、神に対して怒りを抱いてはいけない、そんな風にしていると、怒りの処理ができなくなる。その結果人生を壊していく場合がある。神を怒るよりも、状況に対して怒るようにすればよい。 ・嫉妬。大人になっても、自分が人よりも多く愛されているという確証を求め続ける人がいる。親の愛の獲得合戦の延長。 ・神はわたしよりあの人を愛しているのだと思う。 ●運のいい人、幸せな人に対して、嫉妬する。 ・祈りによって奇跡的に癒された物語。しかし現実に癒されない子供はどう感じるか?神には癒す力はあるのだが、君のためにはその力を使ってくれない。神を憎めと教えるのに、これ以上のやり方はない。 ●不運な人を如何に癒すことができるか。 ・憎みあっている二人の店主の話。「神様はあなたの望むものは何でも与える。ただし、あなたの競争相手はあなたの二倍を得ることになる。金でも長生きでも。有名になることでも、素晴らしい子供でも。」彼は少し考えてから、「わたしの片方の目を見えなくして下さい」と答えた。 ・祈りは人と人とを結び合わせる。 ・宗教儀式は、結婚や死をいかにして隣人と分かち合うかを教えている。たった一人でそれに直面しないですむ。 ●その意味で共同体の価値は再認識されるべきだろう。 3601 フランクル 不本意な状況の中でも、なお主体的に生きることができる。 たとえば渡辺公子。困っているが、その体験を逆に活用することはできないだろうか? 苦しみの体験を意味あるものにすることができそうなのに。 デイケアの図。病状軽快の方向と、生活深化の方向。困難な状況にあってもなお、生活を深めることができる。 3602 痛みを覚えるという。感覚の覚である。おぼえる?記憶するとどうつながっているか?さとるとも読む。 3603 新聞で。借金が多くなってどうしようもなくなったら、自己破産してやり直せとの意見に対して、その時借金はなくなったとしても、借金を重ねた正確が治らないうちはまた同じことの繰り返しになる、自己破産が解決になるわけではないとの意見。そうだと思う。そして性格は容易には変わらない。この場合の正確は、不安処理の方法、葛藤処理の方法ということだろう。 不安処理としては、嗜癖行動が代表である。気持ちがいいからやるという場合と、不安が消せるからやるという場合と、違いがあるか? 3604 「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー ・一人ではない。見捨てられてはいない。そのことを確認し合う。 ●これが大事。病気の人には特に。 ・「いまわたしが置かれている状況は、わたし一人の手にはとうてい負えるものではないのです。」 ・祈りの目的は、神が共にいて下さるという確信を自分に与え、恐れを小さくしてほしいということ。 ●神に祈る。安定剤としての働き。人間が何を安定剤として用いているかを広く考察することは有意義ではないか?いろいろな活動を通じて、結局は、脳内の抗不安物質をコントロールしているのではないか?例えばアルコール、話を聞いてもらうこと、ギャンブル、仕事など。 ・祈っても奇跡が起こるわけではない。しかし勇気を求め、耐えがたい困難を耐えるための力を求め、失ったものではなく残されたものに心を留める寛大さを求める人たちの祈りは、かなえられることが多い。 ●「勇気を下さい。耐える力を下さい。残されたものに心を留める心のゆとりを下さい。」ということになる。 ・しかしその力は、周囲の人たちの愛に由来する。 ・恐れと疲労でいっぱいの時、苛立ちと怒りになってしまう。 ●そんなときこそ、周囲の人の助けが必要で、暖かい言葉が必要なのに、苛立ちと怒りを発散していては、まわりの人たちが敬遠してしまう。これはどういう事情だろうか?集団は、このような「不適応者」を排除する方向に向かっているのだろうか?恐れと疲労でいっぱいの人は、死んでもいいと断定するのが集団の力学だろうか? ●しかしながら、愛もある。不適応者も、いまなんとか助けて生き延びれば、後で集団の利益になるということだろう。 ●野生の集団の原則は、「現在」の適応状態であり、人間のように進歩した状態では、「未来も含めて」の適応が測定されるのかもしれない。 3605 しへき 物質しへき、家庭しへき、人間関係しへきと並べている。 どれも結局は脳内のある回路を刺激しているのだろう。「しへき回路」が想定されているわけだ。 しへきの反復性。このことと強迫性障害を比較する。 不安を処理するため? 最初に不安があるのかどうか。それも論点になる。 ケアテイカーは、自分より弱い、庇護を要する人を見つけて、自分が安定する。自分の安定のために人を利用しているだけだ。 ケアしている間、脳内の安定剤類似物質が出るのだろう。 3606 問題のある父親に育てられ、夫に再度問題のある男を選んでしまう。 このことを、「自分の愛の力でまともな男にして自分を普通に愛することができるように変えられれば、父を変えるという課題を実現できたことになる」と説明している。 それよりも、そのタイプの男といろいろやりあうこと自体に快感があるのだと考えた方がいいのではないか? そのような回路があるから、いやでも再度繰り返してしまうとするのは、どうだろうか? その方向に導く誘因があり、それ自体は快感だと考えた方がつじつまが合う。 3607 心の傷をいかにして癒すか。 傷よりも早く走ること。 3608 赤ん坊の全能感。 泣いて要求すればすべてが手に入る。(逆に、赤ん坊は、泣いて手に入るものだけしか欲求がない。) 母親は何を見返りに手に入れるか。世話をすることでとても満たされる感覚を手に入れる。赤ん坊の奴隷になって幸福である。 泣いて手に入る程度のものを、泣いて手に入れる。これが赤ん坊である。 これが思春期にまで延長していれば、「母子癒着」である。 赤ん坊の場合には、欲求も少ないし、母親がどうにかできる範囲のものである。オッパイでも、暖かい毛布でも、おむつ替えでも。しかし思春期になるとそうはいかない。欲求の中心は社会的なものである。仲間からの承認など。それを母親に要求するから、話は終わらない。 母親が見返りに手に入れるものも少なくなる。赤ん坊のように可愛いわけでもない。頼りない感じがどうしようもなく切なく可愛いわけでもない。むしろ「この子はあの可愛かったあの子なんだ」と思って可愛がろうとしている面もある。 3609 エストロゲンのスパートと従順性。自分の主人を見つける。生まれたときと、思春期。親と、配偶者。「まわりに合わせる」能力を高めるホルモンである。これから当分生きていく「社会」に自分を合わせる。 最近はエストロゲンのスパートが早い。これは、満足させてくれる男が周囲にいないことの原因になっているのではないか?栄養が良すぎる。発育が早すぎる。 男が社会的に成熟するのは遅くなっている。社会は複雑になり、そかも老人が増えているから。 女が生物として肉体的に成熟するのは早くなっている。 女は成熟した男性を求める結果、かなり年上の男性を好む。当然その年ごろの成熟した男性は結婚している。そこで、援助交際となったり不倫になったりする。 女性の生殖年齢は幅広くなっているが、エストロゲンのピークはかなり早く来て、急速に萎み、あとは男性と似た状態になるのではないか? エストロゲンのピークで、女性は大人の女としての感受性を形成する。これは刷り込みのようなものだ。早すぎるエストロゲン・ピークは、不幸である。未熟なモデルしかない。これでは未熟にしかなりようがない。 エストロゲン・ピークのときに、「大人」の成熟した感性を埋め込むようにしなければ、一生成熟はできない。 この大切なときに、未熟な男性と付き合っていたのでは感受性は成長しない。成熟した男性は歳が離れていて、多くは不倫だったりする。それでは幸せな成熟はできない。ここに根本的な矛盾があるのではないか。 初恋は感受性を決定する大切な体験である。いい初恋ができないのである。 肉体の成熟と社会・精神・経済的成熟とが大幅にずれてしまっている。これが援助交際の背景である。 3610 湘南こども心療内科。 ーーーーー こども精神科病棟がないのはつまり、力が弱く、自傷他害といってもたいしたことはないから。それだけのことだ。 鍵をかけたり、保護室に入れたり、そんな必要がない。 女子病棟が乱痴気騒ぎなのも、他害の程度が知れているからという面もある。順位性社会としてもあまりきつくないからという側面もある。 男子病棟は順位性社会で暴力の支配する場所である。 3611 脳と悩み。肉月は肉体の具象を。リッシンベンはその機能を。 考える、意志する、感じる、喜ぶ、ではなく、悩む。 3612 イライラと怒り、終わりのない苦悩。 患者はそれを実存の悩みととらえている。 医者はそれをうつ状態と見る。そこで薬剤をすすめる。患者は憤慨する。自分の悩みを病気と見るなんてひどい!というわけだ。 実際、どうなのだろうか。分かるようでもあり、分からないようでもある。 そのイライラは病気の結果なのか。実存の悩みの結果なのか。あるいは、そのイライラがあるから、悩みが発生しているのか。そんなことまで説明しても分からないだろう。 たとえば占い師や宗教家、人生の指導者のような人たちの役割を求められているのだろうか? 断定的な言葉を押しつければ、満足するのかもしれないのだが。 3613 「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー ・病状が好転しないと苛立つ。自分自身に腹を立て、医師に対して怒りを抱く。 ・子供の能力の限界を受け入れることができないで、苛立ち、あるいは自分を責める。 ・どうすればこれからの長い年月を耐え抜けるのだろうと途方に暮れる。 ・あなたは周囲の人々の愛を発見し、神の愛を発見する。 ・苦しみはある。神に祈ってもそれを取り除くことはできない。しかし苦しみの中で周囲の人とともにあることを発見できる。人生の悲劇や不公平に負けない力を見いだすことができる。祈ることで力を与えられ、愛を信じることができるようになる。「苦しみが訪れませんように」「喜びが訪れますように」と祈ることは適切ではない。「苦しみの時にも力と勇気を与えて下さい」と祈ることはできる。 ●入学試験に際して、天神様はお願いされる。全員の願いを聞きとどけるわけにはいかない。では、天神様はどのようにして合否を決定しているか? ・苦しみを乗り越えるために神に助けを求める。 ・では、悲劇は無意味なのだろうか? ・「どうしてこうなってしまったのか?」「わたしが一体何をしたというのか?」と問うのではなく、「すでにこうなってしまったいま、わたしはどうすればいいのだろう」と問うのがよい。 ・「現状はこうなのだ。わたしはこれから何をすべきなのだろうか」と未来を問う。 ●この悲劇に対して、どのように応えるか。神にわたしがどう応えるか。それが問題である。 3614 歩くと走るの違いを論議したりする。無意味である。どこからが走ることなのかと言ってもどうしようもない。心の問題と薬の問題も同じ。 「妻の場合は、心の問題なんで、薬をのんだだけでは解決しないと思います。何か根本的なところを解決しないといけないはずです。」いいご主人である。 「心の問題」とは何をさしているのか?脳と心の話か?この人は霊魂について考え抜いたことがあるのだろうか? この人は何を求めているのか? 家族というもの、特に夫婦というものは、長い間に同質性を増す。知らず知らずのうちに、精神病に巻き込まれて行く。決定的な妄想ではないとしても、しかし精神病に彩られる。その微妙さ。精神科医も注意する必要がある。 3615 「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー ・「人間は神の言葉である」。苦しむ人の重荷を軽くし、虚しくなった心を満たすべく、友人や隣人の心を奮い立たせるという方法を神はとる。 ・励ましてくれた人、勇気づけてくれた人たちこそが、「神の言葉」だった。 ●隣人愛を通して、神の愛が実現される。 ・人生は公平なものではない。 ・あなたがひとりぼっちでないことを知ることができるように、わたしをあなたのそばに座らせて下さい。 ・どうして正しい人に不幸が訪れるのか。この問題を、誰も避けて通ることはできない。わたしたちはいつの日か、ヨブ記の中の誰かの役を演じることになる。 ・「あなたは正義を求めていたのね。正義など、どこにもなかった。あるのは愛だけ。」 ・「神とは、人間に赦してもらうような、そんな存在なのだろうか?」 ・正義が貫かれる世界を創造しなかった神を赦し、あるがままの世界を受け入れる決心をした。世界に正義と公平を求めることをやめ、愛を求めた。 ・誰も人に愛を命じることはできない。 ・苦しみの中にあるにもかかわらず、不義の世にあるにもかかわらず、そして死にもかかわらず示されるとき、愛はもっとも自由であり、あるべき姿であるといえる。 ・愛は完全無欠を賛美することではなく、欠点のある人間を、欠点にもかかわらず受け入れることなのです。不完全な人間を愛し受け入れることによって、わたしたちはより善い人間、より強い人間になる。 3616 敏感さと退屈 ・富地さんのように、自分と他人を比べてしまって苦しい、他人が自分をどう見ているか考えると苦しい、など、このような過敏さがある。 結果として閉じこもって暮らすが、そうなると退屈である。 ・レセプターの様子を考えると、過敏ということはレセプターが多いのであって、従って、刺激は少なくても良いはずである。しかし退屈だという。 ・これは結局、刺激の選択性(刺激の種類、つまりトランスミッターの種類)を考えるか、あるいは、刺激・反応曲線の傾きが急激すぎるか、そのあたりで解釈することになるだろう。 ・刺激が少ない領域では、反応も少なすぎる。刺激が少し増えると、急激に反応が多くなってしまう。この結果として、退屈と過敏が同居することになる。 ・刺激の種類とすれば、次のようになる。ドーパンレセプターにも種類がある。トランスミッターは、何種類もあって、退屈なときと過敏なときは、別の回路が動いている。敏感と退屈は実は別のことであって、裏返しというものではない。敏感が薄いから退屈になるのではない。そのように考えられないか? ・自分に全面的好意を持っていると信じられるとき、彼女は安定する。それ以外の時、つまり、相手が中立のときと悪意を持っているときは、被害的に受け取る。悪意・中立・好意と並べて、解釈の中心がずれてしまっている。このようにも考えられる。 3617 不幸な生い立ちや不幸な事件はその人の未来を決定するだろうか? 不幸な生い立ちや不幸な事件は、その人の内的世界全部を暗くするだろうか?そうではないだろう。普通程度の知性があれば、そのような不幸は偶然の結果だと分かるし、そのような不幸は世界の一部分でしかないと分かる。決定されるほどのことではないと分かるはずだ。 苦しい嫉妬に駆られたり、苦しい恨みの感情にとらわれるだろうか?そんなことはない。 それはその人を外側から見る浅薄な目である。気にすることはない。人間はそんな単純なものではない。 そのような浅薄な見方が、要するに世間の見方である。そして専門家は二種類いる。世間の見方を純化した見方と、世間の見方を裏返した見方である。いずれも世間の見方そのままである。 それは結局、解釈力が足りないのである。了解能力がないのだ。 内界を絵でたとえる。絵が真っ黒になるわけではないのだ。絵の部分部分で効果的な黒を使えるようになるということだ。 絶望を知ったものほど、希望の意味を知っている。意志して希望することができる。黒を使うから、光が際だつ。絵に深みが生まれる。 絵でたとえる。全体の画面の中には悲惨な部分もある。しかしそれが全てではない。明るい希望にあふれた部分もある。その後の人生の経験を総合して、世界の悲惨さと希望のバランスを知り、全体として統合される。そうであってみれば、悲惨さも部分である。そして部分的にでも、深い悲惨さが配置されていることが、世界全体の深みを増すことになる。 3618 漢方診断 1。症状診断。 2。体質診断。 3。心の体質(性格)診断。 この三角形で処方する。 通常の漢方診断の本では、症状と体質を診て、処方する。しかし当院ではさらに正確診断を加味して処方する。 3619 夫は、優しいけれど、愛がない。 優しいけれど、暖かくない。 kindly but not friendly. 3620 人間が他の人を「判定」することの限界について。これには敏感でありたい。たとえば周囲の精神科医を見て、痛切な反省を要する。 自分の浅薄さをさらけ出さないように。 診断するということは、ときに攻撃するということと同値である。 3621 「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー ・失望させられる不完全な世界、こんなにも不公平や残虐、病気や犯罪、天災や事故の多い世界を、あなたは愛をもって赦し、そして受け入れることができるでしょう。 ・神は完全ではないと知ったいまでも、あなたは神を赦し、愛することができるでしょうか? あなたの両親はあなたが必要とするほどには賢くも、強くも、完全でもありませんでしたが、あなたは彼らを赦し、愛することを知りました。 ・どうして起こったかではなく、こうなってしまったいま、わたしはどうするか。それが問われている。 ・赦すことと愛することは、完全さには多少欠けるところのあるこの世界で、わたしたちが十二分に、勇気を持って、そして意義深い人生を生きるために、神が与えて下さった武器であるということがわかるのではないでしょうか。 ●なるほど。そうだと思う。 ・「悲しみにある人にとっていちばん必要なことは、説教の言葉などではなく、慰めを与えてくれる人なのです。暖かく抱きしめてもらえたり、ほんの少しでもだまって聞いてもらえたら、どんなに学識豊かな神学的説明を聞かされるより勇気を感じるものなのです」 ・「一人だけで嘆きや寂しさに耐えるのではなく、少なくとも二人でその人の生きていくことの意味や目的を見つめ直すお手伝いができるような気がします」 ・その人の人生観と、現実の人生との和解ができるとき、人ははじめて心に安らぎを感じるのだろうと思います。 ●内界と外界の一致または和解。 3622 当院の児童部門の診療案内 特に相談の多い分野をあげると次のようになります。 ・言葉の発達の遅れ 診断‥‥言葉の発達の遅れにはいろいろな原因があるので、まず原因を正しく把握することが第一です。難聴のように身体的な原因もあります。また、言葉を聞いて意味が分かるのにもかかわらず、自分で言葉を言うのは不自由な子もいます。この場合はある種のつまづきで、マカトン法などが有効です。 治療‥‥上に紹介したマカトン法などが有効です。お母さんに指導方法を覚えていただき、家で反復して練習します。 ・学習障害児(LD) 診断‥‥現時点での能力測定をしてみると、全般的には能力が低くないのに、ある特定の分野だけで発達の遅れが見られることがあります。学習障害のお子さんではこのパターンが多くみられます。発達測定テストを用い、同時に課題遂行時の様子を観察して、遅れのある分野はどこなのかを正確に見極めることがスタートになります。 治療‥‥個別集中指導で対処します。たとえば数の概念をしっかり覚えていただけば、その後の算数の学習はとても楽になります。 ・不登校 診断‥‥診断という固い言葉ではなく、「楽な気持ちで何でも言える」雰囲気がまず大切です。その中から問題点を知ることができれば一歩前進です。原因としては学習困難、対人関係の困難、いじめ、こうしたものが多いようです。睡眠リズム障害、朝の低血圧、子供の不安性障害など、生活指導と少量の薬物が有効な状態の場合もあります。 治療‥‥過去よりも未来に焦点を当てて話し合います。必要に応じて具体的な行動の指導をします。また、多くはありませんが、漢方薬を含めたお薬をおすすめする場合もあります。  家庭内暴力でお困りの方、また、親子関係の修復でお困りの方は、相談数も大変多く、方針決定も簡単ではありませんが、まずお母さんをはじめご家族を支えることを目標として相談をスタートする場合もあります。  不登校も長くなると子供さんの問題だけではなく、家族全体のあり方の問題になっていることもあります。問題を局所的にとらえずに、全体的に、長期的な目でとらえましょう。 薬について  子供さんや若い人には薬はなるべく使わないようにしましょう。これが原則です。発達途中であることを念頭に置いて、長い目で見守りましょう。  しかし場合によっては少量の薬を短期間使うことが、効果的な場合があります。変化のきっかけを作ることができるわけです。  この点については、当院の専門家のアドバイスを理解していただいた上で、最終的にはお子さんとご家族が決定するということになります。 3623 漢方診療案内 当院では漢方薬を処方する割合が高くなっています。理由としては二つあります。 まず、当院で相談の多い疾患が、漢方治療に適しているということがあげられます。うつ、パニック、自律神経失調症、更年期障害、不定愁訴、不安などです。老年期記憶障害、登校拒否などでも使うことがあります。 これらの治療にあたって、西洋薬を使用した場合に、副作用がつらいと感じる人がいます。精神的に不安が高まっているときに、さらに薬の副作用についての不安が高まることは、よいことではありません。その点、漢方薬を使えば、西洋薬のような不快感が少なくてすみます。 次の理由としては、患者さんの要望が強いことがあげられます。これまで漢方薬を使っていて、体に合うから続けたいと考えている人がたくさんいらっしゃいます。この信頼感はとても大切なことですから、当院としては、その漢方薬をベースにして、発展的に薬剤を工夫します。 薬剤の選択 漢方診断として 1。症状診断 2。体質診断 3。心の体質(性格)診断 この三角形で診断して処方します。 通常の漢方診断の本では、症状と体質を診て、処方します。当院ではさらに性格診断を加味して処方することにしています。 漢方薬の安全性 以前、漢方薬の副作用が話題になりました。小柴こ湯で肺に副作用が出て、死亡する場合があるとの報道でした。その他にも、いくつかの成分について、過量となったときの危険について注意するように言われています。このあたりは疾患、体質、既往歴を考慮しての医学的診断になります。 生薬の効きめのばらつき 煎じて飲むタイプの生薬では、有効成分のばらつきが避けられません。野菜を食べるときに、いい野菜とそうでもない野菜とのばらつきがあることは当然で、漢方薬の成分についても同じことが言えます。こうしたばらつきは自然産物の場合には避けられないものですが、製薬会社で品質管理をうまくして、有効成分が一定になるように工夫しています。また、会社によって品質管理の精度にばらつきがあるともいわれています。 さらに、一般売薬と処方薬局製剤では、品質管理に差があるともいわれています。 有毒物の除去 自然産物ですから、細菌などの有毒物の混入をどのように防ぐかについても重大な注意が払われています。生薬の場合にはその点を一つ一つについて厳密に確認することはできません。この点では、生薬よりも、顆粒製剤に利点があると考えられます。ただし、顆粒製剤でも、薬をつくってから時間がたつと安全とは言えません。一、二週間までが限度とお考え下さい。 3624 パニック障害とはどんなものでしょうか? ・最近、新聞・雑誌、テレビ、さらには書店の棚で、「パニック障害」について見かけるようになりました。当院にも多くの人が「パニック障害」の相談で来院しています。パニック障害についての入門編を解説します。 ・最近増えたのだろうか? 昔は、不安神経症、心臓神経症、過呼吸症候群など、さまざまな名前で呼んで、それぞれ別のものと考えていました。しかしこれらは根本的には、不安が非常に高まった状態が共通していると考えられます。その結果として身体にさまざまな症状があらわれます。根本をとらえて、パニック障害と名付けました。とらえ方が変わったため、増えたように感じられますが、昔から多くありました。 最近はよく効く薬物(特効薬といっていいでしょう)が使われるようになり、さらに自律訓練法や行動療法が効果的であるということが分かって、治療にも希望が持てるようになりました。治療すれば治る病気なので、このことを一般の方にも医療関係者にもよく知ってもらうことが大切になってきました。それで、最近よく目にするようになったわけです。 「こころの辞典」で紹介したように、若い女性に多く、過呼吸症候群をおこして救急車で運ばれる人の数は、東京都で一年に12000人以上との統計があります。決して珍しいものではありません。 ・精神病の一種でしょうか? 分類は、いわゆる精神病ではなく、心身症の一つと位置づけられています。ストレスと関連して起こる、ストレス病の一つです。 ・どんなときにパニック障害を考えるのでしょうか? 症状の例をあげてみましょう。「激しい不安」が根本で、さまざまな身体症状が伴います。どの身体症状が出るかは、人により場合によりいろいろです。  ・心臓がどきどきする。  ・呼吸が苦しい。  ・息がしにくい。  ・のどに何かつまったような感じがする。  ・めまいや耳鳴り、ふらつきがひどい。  ・冷や汗が出る。  ・手足やからだ全体がふるえる。  ・死ぬのではないかと思うほどの恐怖。  ・自分が自分でない感じ。  ・現実感が希薄になる。  ・一般内科などで身体の検査をしてもはっきりした理由が見つからない。 ・特定の場所・場面が苦手になる。例えば、電車、美容院、歯医者などが代表的。 ・治るのでしょうか? たいてい治ります。 ・何が原因でしょうか?過労やストレスでしょうか? 現在のところ不明です。しかし例えば、乳酸ソーダの話などは参考になるかもしれません。わたしたちが疲れ切ったとき、筋肉には乳酸ソーダという物質がたまっています。一種の老廃物です。この物質を注射すると、パニック発作が起こるという実験があります。つまり、過労状態の時にパニック発作は起こりやすくなるのです。この他にもいろいろなタイプがあるので、参考程度のことではありますが、「過労状態を避けること」「疲れたら積極的に休むこと」によって、乳酸ソーダを過剰に蓄積させないことが予防になると考えることができます。このような面からも、ストレスをコントロールすることの大切さが分かります。 ・治療はどうしますか?どのくらいの期間かかりますか?入院は必要ですか? 薬物療法、精神療法、行動療法、認知療法、自律訓練法、生活指導などを組み合わせて用います。 治療の期間は人によりさまざまです。ストレスコントロールが大切なのですが、ストレスをなくするためには仕事や勉強を一部諦めることが必要にもなります。その場合、どの程度妥協できるかが問題になります。多少の不具合をかかえながらも自分の人生にとって大切なことは諦めないように、調整しましょう。パニック障害が始まってからの年月が長い人は治療にも長い期間が必要になる傾向があります。生活に支障がない程度にまで回復することを目標として設定するなら、それほど長くはかかりません。 入院はたいていの場合必要ありません。しかしパニック障害の背景に別の病気があったりした場合には、入院加療をおすすめする場合もあります。 3625 聞き上手 ・心に思っていることを充分に言える。そして相手にうまく理解してもらえる。そのように感じるとすれば、相手は聞き上手である。 ・プロとしてはもう一段階ある。心の中で充分に形になっていない考えや感じを、形を付けて引き出される。それは質問がいい場合もあり、相づちがいい場合もある。きちんと時間をとって話をして考えているということが、役立つ側面もある。 心の引き出しがだんだん増えてくる。そのようでありたい。成長促進的面接である。 3626 絶対臥褥 保護室にいるのと似ている。環境刺激を最小にすることによって、ドーパミンを減少させる。まず一週間、DAを少なくして落ち着ける。それ以上では、アップ・レギュレーションが起こってしまうのでよくない。 3627 心療内科への反応 ・「紛らわしい」(患者を混乱させるとの趣旨?) ・「結局、除外診断でしょう?」(積極的診断や治療があるわけではないのではないかとの反応) 3628 心療内科 新しい疾患モデルの提案という側面がある。それは同時に新しい治療モデルの提案でもある。 むかしはたたりやお祓いの世界であった。 現在は身体医学モデルである。それが単なる「モデル」であることを確認する必要がある。 3629 「心療内科の標榜」(1) ・土居、小此木、荻野など、高校時代。 ・入学時の石川先生の講演。 ・フロイトやユング、みすずの本。 ・精神医学への一度目の絶望。身体医学の方法論から見れば、まだ光がさしていない。学生としては敬遠したくなる。新しい方法論というよりは、科学の方法論がまだ浸透していないだけと見えた。正統的科学的身体医学の内部から見れば、心身医学はやはり未熟で胡散臭い。 ・大学の心療内科の講義は面白くなかった。 ・夏休みの実習の時、一緒に実習した学生さん。「自律神経といっても、脳とはつながっているのだから、自分でコントロールできないわけでもないだろう」と語っていた。それも一つの身体観、治療観だろう。そんな人もいる。 ・心の研究は最終的には、そして基礎的には脳を研究することであると考えて、脳科学の分野に。 ・基礎医学への絶望。 ・身体医学に距離を置いて眺めてみると、精神医学の価値を感じる。正統的科学的身体医学の内部からではなく、一般常識の立場から考えてみると、精神の医学は意味があると感じられる。 ・精神医学開始。 ・精神医学への二度目の絶望。誠実であろうとすれば疲れ果てて長く続けられない。長く続けようとすれば腐る。ではわたしは何の役に立つだろうか? ・新しい疾病観と治療観の提示。 ・現在の科学の方法では救いきれない部分を、どうするか。あるいは、一応ケアされるけれども、充分であるか?例えば、心の問題。 ・患者の持つ伝統的な疾病観、治療観と比較して考える。後退か、前進か?プレとトランスの錯誤。 3630 「心療内科の標榜」(2) ・「紛らわしい」との意見。しかし、では患者はどうすればいいのか?医者は紛らわしくない患者だけを治療していればいいのだろうか? ・「除外診断でしょう」との意見。=くずかご。しかしこれは分類の不備を証明している。 ・心因性疾患は、人格の価値として、一段低く見られているところがある。 ・ストレスに対する反応としての症状ととらえる。 ・症状は、何かを訴えている。言葉以外の表現の経路である。 ・精神分裂病の見落としは、重大な問題である。 ・(率直な意見の表明は結局、他人の悪口になる。) ・伝統的身体医学への批判。 ・伝統的精神医学の主流は、伝統的身体医学の方法論で、伝統的身体医学の一支流になろうと目指している。 ・整体士。怪しげな売薬を売りつける薬屋。不安を煽り、商売をする。自分で需要を作り出す。この手の商売人のしたことの後始末も役目である。 ・権威や専門性を感じさせる検査。これが必要。例えば心電図のような。 ・世間は、心療内科も神経科も精神科も区別はない。ときに「きちがい病院」という人もいる。医者も、単に精神科では響きが悪いから、心療内科ならソフトでいいだろうという人もいる。 ・「神経」が悪いとの言い方。精神とどう違うのか? ・「妻は心の問題で、薬をのんで治るのとは違うんです」と夫が語る。これは何を意味しているのか?プレとトランス。 ・インフォームド・コンセントの実質。心療内科や精神科で神経症を扱うときには、インフォームド・コンセントのインフォームドの部分が本質的に重要である。それが治療であるとも言える。 3631 「心療内科の標榜」(3) ・くずかご的状況。紹介者の気持ちは、くずかご。はじめから心理的問題がある人もいる。治らないで続くと、心理的にも困難が生じる場合も多い。 ・そのようにして一般内科から放り出された患者を扱う。従って、処方にも、精神療法にも、工夫が必要になる。教科書的な決まり切った処方をして、治らなかった患者が送られてくる。それを何とかしろということだ。診断もついて、しかし難治性というのではない。「困った」人が紹介されてくる。治らなくても、性格のいい人はその一般内科の先生と長くつきあう傾向がある。はじめから心理的問題があり、一般内科で対処できなかった場合。治療が長くなっているうちに、心理的問題が浮かび上がってきた場合。また、冷え性のように、処方に困る症例の場合。 3632 頭痛について  医者であり、一般向け読み物のライターでもあるオリバー・サックスに「偏頭痛百科」という本があり、翻訳も出ています。最新の知識とは言えませんが、頭痛の苦しみはよく伝わってきます。  頭痛の原因を調べてみると、MRIやCTで何か病変が見つかることは圧倒的に少ないようです。大部分は写真に原因が写らない慢性頭痛です。致命的なことはありませんが、生活を大きく制限することも多いものです。  頭痛の分類については国際分類も変更があったりして、一定していません。言葉も実状を正確に表現しているものとはいえません。たとえば偏頭痛は(片頭痛とも書きます)「片側」だろうと思えばそうでもないのです。極端な例では「頭痛なき偏頭痛」についての議論もあるほどで、一般の人には大変わかりにくいだろうと思われる言葉です。  大胆に単純化して分類すれば、まず血管性、緊張性、心因性の三種に分けて考え、次にさらに細かい分類に進む、と考えたらいいと思います。これらいくつかの頭痛が一人の人に混在していることもあります。このあたりの見立てが大切です。  そんなわけで、頭痛の診断には、精密な問診が重要です。さらに心理的要因が深くかかわっていることも多いので、症状だけではなく、生育、性格、生活状況、ストレス因子、これらの把握が必要になります。 頭痛の相談ではどんなことを伝えればよいですか? 診察室でお伺いしたいことは次のようなことです。あらかじめまとめて、お話しいただければ幸いです。 (1)どこがどんな痛みか、詳しく。 たとえば、次のようなことです。 「ズキン、ズキン」「ガツン、ガツン」「拍動性」 「痛いと言うより、重い感じ」「頭がしめつけられる感じ」「頭に帽子をかぶったような」「ジワーッと」 「頭の片方が」「後頭部が」「目の奥のあたりが」 「刺すように」「耳の奥で響くような」 (2)いつ始まって、どのくらい続くか。  たとえば、「朝に起こり、5分くらい」「夕方に始まり、夜まで」「寝ているときにも」など。 (3)起こりやすい状況は何かあるか。  たとえば「生理との関係」「食事との関係」「睡眠との関係」「仕事」「ストレス」。 (4)頭痛の前後に頭痛以外の症状はあるか。  たとえば、「吐き気」、「涙目」、「めまい」、「図形が見える」、「肩こりがひどい」など。 (5)頭痛が始まったら、あなたはどう過ごしているか。楽になる方法があるか。  「一日横になってしまう」「5分くらい我慢する」など。 (6)何歳頃から始まったか。年齢が進むにつれてどう変化しているか。家族に頭痛持ちはいるか。 治療はどのようにしますか? 1 薬  大きく分けると、痛くなってしまってからの薬と、痛くならないように予防する薬とがあります。患者さんの個別の特徴に合わせて、抗セロトニン薬、βブロッカー、カルシウム拮抗薬、抗てんかん薬、抗うつ薬、漢方薬などを工夫して処方します。適切な選択に成功すれば楽になります。ただ単に「このタイプの頭痛だからこの薬」というわけではないところが難しいところです。 2 生活調整……頭痛のひきがねの発見して回避する  自分の頭痛のひきがねについてある程度わかっている人も多いものです。代表的なものをあげます。 (1)生理……生理前、生理中、排卵期、更年期など。生理との関係に気づいている人はとても多い。 (2)睡眠……寝不足など。 (3)ストレス……なんといっても一番多い。けんかした次の日にひどい頭痛が始まって、一日何もできなかった、など。 (4)食事……チョコレート、赤ワイン。チーズ、ナッツ。グルタミン酸をたくさん使う料理(オリバー・サックスの本では、「中華料理店症候群」として紹介している。日本では「味の素」。大部分の人は心配ないときちんと注釈している)。当院の外来ではあまり話題にならない。わかっているなら避ければいいだけだし、避けやすいからだろう。 3 頭痛日記  2であげた「頭痛のひきがね」を再度考えてみると、生理にしても睡眠にしても、「心身全体の調子が落ちている」ことが背景にあるようです。そうした総合的な生活と体調の様子をつかむために、頭痛日記が役に立ちます。頭痛が始まったとき、終わった時を中心にして、睡眠、食事、対人関係、仕事、などを書き加えて日記を付けます。そのなかから生活調整のヒントをつかむわけです。診察の時にとても参考になります。また、薬剤使用の時間を加えればさらに役立ちます。 3633 自己と非自己の区別が曖昧になる。空想と現実の区別が曖昧になる。この二つのことは同じことなのだろうか?どうつながっていることなのだろうか? 組み合わせるとすれば、自己=空想、非自己=現実、こうした組み合わせになるだろう。 3634 脳血管障害と不安 ふらつきは心因性か? 脳血管障害後、ふらつきがある。脳外科の医者は脳血管障害のせいではないという。心因性にふらつくことがあるのか? 何かの拍子にふらつく。後遺症なのではないかと不安が高まる。不安は出口を探す。人間は以前症状のあったところに再度症状を出す傾向がある。反復する胃潰瘍など。最初は器質性、次は心因性である。この人は脳血管障害の経験があったので、脳血管障害類似の症状を呈する。ふらつく。すると、「不安は的中した。やはり!」ということになる。 不安とふらつきは互いに原因と結果となって、悪循環して、固定化する。 ふらつきに不安を代入すると、不安と不安が悪循環することになる。不安と予期不安といってもいいかもしれない。 (診察中の発想思い出せない。原因と結果の連鎖が、脳血管障害の場合には特別なのだが‥‥) 3635 過敏性腸症候群(IBS) 「このごろ下痢で、トイレに行って出してしまうと落ち着くんだけれど、また痛くなる。そんなことの繰り返しで、外出もおっくうになってしまう。仕事にも支障が出ている。会社ではリストラの話が出ているのに、こんな体調では目をつけられてしまう。胃腸科で調べてもらったけれど、特に悪いところはないといわれた。病名は過敏性腸症候群といわれた。ストレスに関係する病気で、心療内科に行けば相談できるらしい」 とまあ、そんなわけで、過敏性腸症候群の人が当院にいらっしゃいます。 ストレスが関係して、自律神経の異常が発生し、腸に症状が出ると考えられます。タイプとしては、@下痢型、A便秘型、B下痢と便秘の交代型、Cガスがたまってお腹が張るタイプなどがあります。 診断 診断の手がかりとしては、以下の項目のうち、6つ以上あてはまれば、疑わしいといわれています(川上先生の表をアレンジして紹介します)。血液検査やエックス線検査で以上がないことが前提になります。また、お腹の調子以外に自律神経症状がないかどうか、ストレス関連症状がないかどうか、細かく調べることも必要です。 1 子供の頃、腹痛をおこしていた 2 激しい腹痛で、救急で医者に診てもらったことがある 3 以前からときどき腹痛がある 4 お腹をあたためると腹痛が軽くなる 5 排便すると腹痛が軽くなる 6 下痢、便秘、ガスがたまるなどで困っている 7 排便すると腹痛が起こる 8 腹痛を伴う下痢がある 9 下痢と便秘が交代でおこる 10 下痢と便秘が以前からときどきある 11 うさぎの糞のようにころころとした便である 12 うさぎの糞のようなころころした便が出て腹痛がある 13 便の中に粘液がまじっている 対策 症状に応じた手当と、原因に応じた治療の二つを考えます。 手当 まず症状は、下痢、便秘、ガスなどですから、それらを調整する薬を使いましょう。下剤や下痢止めですね。弱いものから強力なものまで、さまざまあります。これだけで解決するわけではありませんが、症状が緩和されれば、自分の状況について見通しよく考えることができるようになります。 治療 以下のような原因が考えられています。 @ストレス‥‥原因の中でももっとも多く、重要なものと考えられています。仕事のストレス、家庭のストレス、学校のストレス、更年期のストレスなどがあり、いくつかのストレス要因が重なっている場合もしばしばあります。 A性格‥‥神経質な人、気にしやすい人、責任感が強い人、几帳面な人などにおこりやすいようです。もちろんそれ以外でもおこりますが。 B体質‥‥もともと胃腸が弱い体質の人がいます。遺伝的に胃腸が弱い人もいるようです。このタイプの人はストレスが胃腸に出やすいようです。 C食事‥‥暴飲暴食、食欲不振、過ぎたアルコールなど、心当たりはありませんか? D睡眠‥‥睡眠不足。ストレスの原因でもあり結果でもあります。 以上の原因に対して、次のような治療があります。 @充分な睡眠。眠れないときには薬の助けを借りることも検討してみましょう。ストレスに対抗するために睡眠はとても大切です。 A食事の見直し。規則正しい食事、バランスのとれた食事内容が大切です。ゆっくり、楽しみながら食事ができていますか? Bストレス解消。これは言うほど簡単ではありませんね。仕事がストレスと分かっていても、どうしようもない状況で、多くの人は働いています。しかしそれでも、なんとか、現在よりも少しでもしのぎやすくするために、一緒に工夫を考えましょう。 C自律訓練法。短い時間で簡単にできます。何度かトレーニングして身につけて下さい。ストレス・マネジメントの初級編です。 Dカウンセリング。お話の中で自分の置かれた状況を整理してみましょう。話しても何も変わらないとあきらめないで下さい。自分が変わればまわりが変わることもあります。 E性格傾向の把握。心理テストなどを使って自分の性格傾向をつかみましょう。それを生活改善に役立てましょう。 F薬。ときに漢方薬や西洋薬で調整して、それがきっかけになることがあります。話し合ってみましょう。 3636 不安を症状とみるか、生活状況への反応とみるか。 不安は心の問題なのに薬で抑えるのはおかしいとする考え方。腹痛と不安を同列の症状としてとらえることができないのはなぜか?多分、自己違和的なものとしてとらえられていないのではないか? 不安は自己親和的であり、違和的なのは状況であると考えているのではないか? そのあたりをきちんと説明する。 3637 薬がほしい人とほしくない人。 効く薬がほしい人と、効かなくても副作用のない薬がほしい人。 それぞれの人に薬と病気についての歴史があり、妄想があり、思いこみがある。それは家族の常識でもあり、仲間間の常識でもある。そうした背景を正確につかむことが、治療の第一歩である。 「もっと効く薬!」と要求されても、額面通りに受け取ってはいけない。そんなことも知恵である。 3638 和洋合剤処方 互いのいいところを生かし、悪いところを打ち消し合う。 洋薬の副作用を減らす。和漢薬の効果発現の遅さを補う。 例えばかぜ薬。洋薬は効果早いが、眠くなり胃に負担がかかる。和漢薬は眠くならず胃にも悪くないが効果発現が遅い傾向がある。 3639 消費する人間 最近の若者の急激な変化と消費社会が関係あるのではないか。例えば、大人は商売のターゲットとして子供を考えている。経済観念の発達していない子供の欲望に訴えかけることで商売が広がる。そんなことをしていいものだろうかとの反省は広がらない。 例えば、「自己実現」といった言葉の背景にも、こうした消費社会のターゲットとしての人間像があるように思う。 こうした下部構造が上部構造を変えているのではないか。 もっと君の欲望を要求していいのだと社会全体がささやきかけている。抑圧は悪徳である。解放すること、それに伴い消費活動をすること。 仕事をする人ではなくて消費する人が増えている。 子供は純粋な消費者である。 1998年12月24日(木) 3640 患者の一部は医者を信じる。一部は文献を信じる。そんなことに腹を立てていても仕方がない。はやく区別すること。見分ける技術が大切である。どこが行き止まりかをはやく見つけることだ。それが行き止まりであることはどうしようもないのだ。ロマン主義では現実にはうまくいかない。 3641 精神分裂病という診断 例えば絵画をみるようなもの。これはルノワール、これはゴッホと、全体の印象は間違いなく伝わる。しかしそれを分析的に伝えようとすれば困難になる。 分裂病の診断はそのようなものだ。誤解の余地も多くあるけれど。 3642 生きている限り矛盾が発生する。たとえば社会的存在としての自分と生物としての自分と。会社と家庭と。そり矛盾をどのように解消するか。妥協点を見つけていくか。それが生活である。 矛盾という用語は古いけれど。 仕事と家庭。社会と自分。大人と子供。矛盾が突きつけられている。 3643 児童思春期の精神障害と心身医療の動向 場所の病理→脳の場合には場所の病理が症状になる。肝臓や腎臓ではこうではない。筋肉の病気では、足と腕と指先とでは症状が全く違う。 児童をとりまく社会の現状 子供はどんな環境を生きているのか?→消費者としての子供。もっと欲求することを要請されている。子供に商品券を与える日本という国。 愚かな消費者であることを要請されている。 3644 パニック。電車に間に合いたいと思って走る。ドキドキする。そのドキドキが不安につながる。 これは身体の反応が情緒を引き起こしているのではないか? たとえばジェッコースターでのドキドキが恋愛感情であるかのような錯覚に似ていないか。 3645 自己修復系と自己崩壊系。時間がたつにつれてどのように変化するか。 例えば振り子は自己修復系である。放っておいてもよい。 性格障害は一般に自己崩壊系かもしれない。境界例が落ちつかないのは、振動系を構成しているからだろう。 うつや分裂病は自己修復系に属するようである。適した環境を選びとって安定したり、時間が回復を助ける。時間がたてば収束する。 自己修復系は長い歴史を持つ。自己崩壊系は歴史は短い。進化論的に淘汰される。 3646 (患者・鈴木勝さん)自分は体調が悪いと感じている。しかし医者に、検査の結果、また現代の医学の知識に照らして、どこも悪くないですよといわれる。 さて、自分は絶対に悪いのに医者は分かってくれないと確信しているのなら、妄想である。 また、医者のいうことは頭では分かるのだが、どうしての不安がわき上がる。いったん不安がわき上がると、どうしようもない。自分ではとめられない。これは強迫性障害である。 不安が抑えられない。これをパニックの系列と見るか、強迫の系列と見るか。自己違和的かどうか。 完全に違和的=パニック(不安症) 中間=強迫性 完全に自己親和的=妄想 3647 「電車に飛び乗ったあとのドキドキがおさまるまで時間がかかる。このドキドキは走ったせいだと理解している。しかしそれでもドキドキがなかなかおさまらない。切り替えがうまくできない。」 これは不安の抑制系の障害ではないか?ふと不安が発生してしまう。しかし普段はそれを抑制することができる。 パニックやうつの場合、いったん発生した不安に対して、その発展を抑制して、さらに解消することができない。 不安の抑制系と不安の解消系の障害があるのではないか? 筋肉でいえば、乳酸の分解系である。 短距離型の筋肉(赤筋)は瞬発力に優れているが、疲労の結果蓄積する物質を解消する能力には欠けている。 長距離型の筋肉(白筋)は瞬発力には劣るが、エネルギーを大切に使い、疲労物質の解消にすぐれている。 こうした違いが脳神経細胞にもあるのではないか。 うつの人たちは集中力がある。意志や感情を持続できる。しかし切り替えはうまくない。 ここからmad細胞理論につながる。 3648 一人きりで風呂に入っている。シャワーの音の中に電話の呼び鈴が聞こえる。 感覚遮断が幻聴を引き起こす。分裂病者の場合、人と日常的に接してはいても、ドーパミンを適切に放出するような刺激になっていないのではないか。 「このタイミングでこの程度のドーパミンが出るはずだ」と予測する。予測と一致する刺激がドーパミンと関係する。 予測が外れているのが分裂病ではないか。 予測とドーパミン。 3649 強迫性障害 ・どんな場合を強迫性障害と言いますか?  この「こころの薬箱」シリーズで「手を洗うのが止められない」という翻訳本を以前に紹介しました。この本が強迫性障害の解説の本です。「もう汚くないことは分かっているのだけれど、そしてあまり洗うと手が荒れると分かっているのだけれど、それでも手を洗うのが止められない」のです。なんとなく分かりますか?手洗い以外にもたくさんの例が挙げられています。  「神経症の時代」という本では、倉田百三の強迫症状を紹介しています。(倉田は藤沢に住んでいたということです。)  有名人で強迫性障害の実例をたくさん挙げることができます。たとえば清潔強迫の結果「ガラスの部屋」に住んだ人。食べ物に対する奇妙な強迫があった人。有名人になると、自分の内面と妥協する必要がなくなり、内面がそのまま行動に出るので、他人にもわかりやすいようです。有名人でない場合には、自分がどのように評価されるか恐れるので、あまりストレートに外に出さないことも多いようです。  強迫性障害は、強迫症、強迫神経症などとも言います。なお、強迫は「脅迫」とはまったく関係がありません。もっと日本語として日常的な言葉で表現できないものかと思いますが、今のところは妙案がありません。  症状の紹介をしましょう。上記の本のタイトルの真似をすると、 「鍵を確かめるのを止められない」 「ガスの元栓を確かめるのを止められない」 「偉い人のいる会議の席上で、とんでもないエッチな言葉を言ってしまうのではないかという不安を止められない」 「頭の中で『いろはにほへと‥‥』が何度も鳴り響いて止められない」 「車を運転していて信号待ちしているときに、前の車のナンバープレートの数字を加減乗除して1にしないと気がすまない。信号が青になるまでに完成しないとその日は悪い日になるのでどうしても完成しないといけない。」 といったようなことです。  もっと微妙な例では、 「医者にはどこも悪くないと言われるが、自分はきっと病気だという考えが繰り返し浮かんできて不安になる」などもあります。これだけでは強迫性障害と即断できませんが、微妙にその要素が潜んでいそうですね。  まとめて言うと、自分の考えや行動がばかばかしいと分かっていて、止めたいと思うのだけれども止められない、それが苦しい。これが強迫性障害です。いやだと思っているのですがどうしようもない。しかし「何者かにさせられている」のではありません。嫌々ながら、しかし自分でやっているのです。  症状として薄いものになると、「慎重な性格」と思われる場合もあります。その場合は強迫性性格と呼んだりします。 ・背景についての意見  日本には強迫性障害の人はとても多いのですが、それは教育にその背景があるかもしれません。日本の親の子供に対するしつけは、片付けなさい、整理整頓しなさい、手を洗いなさい、清潔にしなさい、きちんとしなさい、テストの時には間違いがないか確認しなさい、等々、強迫性格を育てる方向の指導が多いのです。  しつけとしては、人に優しくしなさい、ユーモアを忘れないようにしなさい、自己主張をしなさいなど、強迫性性格に関係しないものも多くあるのですが、日本ではこうしたことはいわゆる「しつけ」とは考えられていないかもしれません。とくによい子たちは強迫性の成分をすこし多く持っているようです。  日本の親は薄い強迫性格の子供をいい子だという傾向があります。試験の点数の高い有名大学ほど、こうした性格傾向の人たちが多く集まっています。試験には有利な性格なのです。整理整頓が好きで、確認を怠らないとすれば、点数はよくなりますよね。本当の賢さとは関係ありませんけれど。 ・診断  典型的な強迫性障害であるか、あるいは背景に(たとえば)うつ病などの病気がないか、そのあたりの鑑別が大切です。表面にあらわれた症状に対して薬を使ったり精神療法を試みたりしても、それは表面的な対応でしかありません。 ・治療 薬物療法、行動療法、認知療法などがあります。特に薬は有望です。心理的なことになぜ薬が効くのかと考える人もいるでしょう。考え方は別にして、実際に効くということだけは事実として確かなことです。このあたりはまた脳と心に関して考える材料を提供しています。みなさんは脳と心と魂についてどうお考えですか? ・参考図書 「神経症の時代」(倉田百三、森田療法の森田、岩井などの評伝。その中心は強迫症とその治療) 「手を洗うのが止められない」(翻訳物) 「不安でたまらない人たち(?)」 3650 (基礎集団の問題) 子供の絵を日常見ている人がピカソを見たとする。また、未開民族の絵を収集している人がピカソを見たとする。そのときにどう判断するだろうか?いつも現代芸術を見ている人がピカソを見る場合。 その人の考える基礎になっている集団。それを基礎集団と呼ぶとして、それがどこにあるか。 いつも大人の精神障害を扱っている人が子供を診る。 子供一般が基礎集団で、その中での偏位として患児をみる人たちと、精神障害一般が基礎集団になって患児を診る場合と。 子供の精神疾患をどのように診断するか。子供は発達途上にあることを考えれば、異常と診断するのはためらわれることが多い。また、不思議なことに時間がたてばけろりと健常に復していることもないではない。だから、大人とはかなり違っている。 (許容度は大きい)→このあたりは内在する精神病理ではなく、自傷他害、つまりは迷惑の度合いで障害の程度を測っているところがある。子供に限らないが、脳病理と心の悩みの程度、社会の迷惑の程度、この三者を視野に入れて、病気の診断がなされる。議論はあるが、それなりの妥協点をみつけていくしかない。 子供だから、精神的不調の結果が大したことにはならない。自傷他害の程度の点で。 子供だから、親や世間は我慢する。許容度が大きい。 しかしまた、将来の自傷他害の可能性を考えると、楽観していていいわけではない。 (他害の内容) また、他害についていえば、大人でいえばまず刑法・民法がある。そして社会の公序良俗がある。子供の場合、事件として成立する程度ではないとしても、いじめなどの形で、周囲にいる「傷つきやすい子供」に迷惑を及ぼすことがある。大人の社会の常識では「その程度であれば自分で自分を守ったらいいのに」と思われる場面でも、大きく傷つき、自分を守ることができない子供はいるだろう。子供の中にはそのような子供もいるのだということを前提にする必要がある。 (拡張された自傷) また、自傷についても、今現在の傷ではなく、将来苦しむことになるであろう傷つきも含めて自傷とすれば、大人の場合の自傷(つまり自殺)とはやや意味が異なるだろう。 3651 「神経症の時代」渡辺利夫 TBSブリタニカ ・自然と社会は人間の本来に反することがある→不安。これは当然。むしろここから生の意志が生まれる。 ・機が熟する。 ・はからいを捨てたいと念じるはからい。これをいかにして捨てるか。 ・自己の主観を事実と見立ててこれに恐怖する。 ●主観と客観的事実を混同しているならば、これは真に妄想である。「空を怪鳥が飛んでいる」と言えば、それは他者によって検証可能である。「わたしは腹が痛い」と言えば、それは他者にとって検証不可能である。ただそれだけのことだ。「どうしてもわたしは腹が痛い」と言い続けるならば、「空を怪鳥が飛んでいる」と叫び続けるのと同等である。妄想と言った方が事実が明確になるだろう。神経質などという問題ではない。「そんなはずはないのだけれど、腹が痛いような気がして仕方がない」というのなら、神経質と言うべきである。 ・ ●とらわれの意識をどのように転換するか、あるいはそのままで受け止めるか。その課題にならば、自律訓練法が役に立つはずである。そのような目的を持って自律訓練法の解説を書けば役に立つだろう。 ●途中には精神医学用語としての混乱も見かけられる。しかしそれは仕方のない範囲かもしれない。 ・心の中に小さな波が起こる。それをしずめようとして波を起こし、さらに大きな波となってしまう。これは逆効果である。波をしずめるためには静かにしているのがいちばんよい。はからいを捨てて自然に身を任せることである。 ・杭につながれたロバが遠くに行こうとしてぐるぐる回るうちに、だんだんひもが杭に巻き付き、いよいよ杭から離れられなくなる。神経症のとらわれはそのようなものである。 3652 単純なことであるが、「精神分裂病」や「精神病」「うつ病」という符号が実体とは関係なしに一人歩きしている。 素直な心の人は、あるいは言葉の意味を信じる人は、漢字で表現されたものから意味を汲み取る。 ところが実際には分裂していない分裂病は多い。抑うつ的でないうつ病もたくさんある。精神で病んでいない精神病も多くある。 言葉に振り回されている。名前の付け方が悪いのではないかと批判が出そうであるが、命名の当時の状況からすれば仕方のない面もあると考えられる。 語源に遡って理解を深めようとする態度は、危険を含んでいる。 3653 課題(1999年1月4日(月)) 自律訓練法の教本を作る……いちいち他人の本を推薦しなくてもすむように。 こころの薬箱の話題 薬の説明   一般に薬について、服用について   個々の薬の解説 抗うつ薬 抗不安薬 自律神経調整薬 漢方薬 PTSD 耳鳴り 更年期障害 過剰診療の心配について 心理テストについて……何がどのようにわかるのか 自律訓練法について 森田療法に関して 3654 徳の問題も経済の問題にすり替えられていないか?あるいは影響されていないか? 豊かな時代、この豊かさを維持するために「消費」が必要である。 みんなが幸せな気分になるために微量のインフレが必要なのだ。 子供はどのように行動するか。子供はどのように楽しみを見いだすか。どのように生きがいを見つけるか。この答えは最近ではつまりは「消費」の問題であるように見える。 経済成長に寄与するかどうか、それが価値の源泉と言えば言い過ぎであるが、しかし微妙にそのような傾向がないだろうか? 3655 仕事か趣味か 仕事ばかりではたいへんだ。趣味を楽しみなさいという。転倒した話である。 本当は趣味など要らないくらいに仕事に没頭していればよいのだ。趣味を大切にするということは、それだけ仕事がいやだということだ。そのような人生でよいものだろうか?そのような人生を前提とした上で、趣味を大切にしなさいというなら、おかしな話である。 3656 親→教育者→カウンセラー→心療内科医→精神科医 普段正常を扱うか異常を扱うかの系列。 左ほど子供を正常として扱いたがる。右ほど異常と扱いたがる。 異常部分に目がいくか、正常部分に目がいくか。 精神科医の中にもかわった人はいる。「すべてはノーマルだ!」と。そうした人に信念はあるが根拠はない。 3657 精神病の中にもある神経症部分。 精神病になると環境への不適応は非常に大きくなるので、神経性的部分も大きくなる。 神経症 例えば、コンピューターで仮名漢字変換をすると、常に間違う。これが神経症。刺激に対して不適応な反応を返している。 精神病 ハードの故障。 3658 「神経症の時代」渡辺利夫 TBSブリタニカ ・日常生活の中で誰にでも不快気分は生じる。「そんな気分もたまにはあろう」と受け流せば何も起こらない。その生理的事実を病的異常と感じ取り、これを振り払おうと格闘し、それに敗れて心が転倒していく、これが神経質である。普通の人は不快の気分がおこっても、それはそれとして日常の忙しい生活の中に埋没し、やらねばならない雑事をつぎつぎとこなすうち、いつのまにか不快気分は消え去る。神経質の人たちが不快気分にとらわれるのは、彼らの多くが完全欲において強く、きまじめだからである。完全欲の強い人は「かくあるべし」という規範によりみずからを処する傾きがある。「かくあるべし」という規範は「かくある」という世の事実によってしばしば裏切られる。したがって「かかるはずではなかった」という不快気分に陥り、その気分に執着していく。 ●かくあるものとかくあるべしのあいだ矛盾と葛藤。 ・向上発展の欲が強いから、自己を内省的、批判的にみつめる。向上発展を求めるが故に、それを妨げる可能性のある身体的、精神的病覚に関心を持たざるを得ない。実際には異常でないにもかかわらず、これに主観的にとらわれ、このとらわれが心に膠着してしまう。 ・この主観的虚構性のからくりから患者を解放してやるならば、彼らは自己の向上発展を求めるその真摯さ故に、またねばり強い精神力故に、他の性格類型の人々よりも一層優れた人間活動の発揚をみせうるはずである。神経症者のこうした肯定的一面に光をあてたところが、正馬の症者観の特徴である。 ●ごてごてした日本語。すっきりしていない。飾ってもさほど麗しくない。 ・精神交互作用。 3659 答えはあなた自身の中にある。 なぜ答えがあると思うのだろう? 3660 教育の目的 1 エリート選抜 2 産業労働者育成 3 健全な市民の育成 3661 生きることすなわち消費という現状 食事、衣料、住宅、セックス、安らぎ、癒し、生きがい、プライド、すべては金を出して買う物になっている。 何を買うかがその人の生き方のポイントで、しかも、そこにまでアドバイザーがいて商売にしている。どの雑誌やアドバイザーを選ぶか、それがその人らしさ、個性という状態。 3662 病気が治らない場合。親に問題がある場合も少なくない。治療の行き止まりは親である。 渋谷さとみの母親。分裂病。娘はまあまあであるが。心身症でテスト前になると朝の腹痛。学校に行きたくなくなる。これは分かりやすい。 フェリスの拒食症の中村かなの母親。これは娘もとても変。しかし治療はまず母親から。この二例は成績のいい女生徒の例。 岩沢の母。子供は強迫症、分裂病の傾向。母がとてつもなくおかしい。 てんかんのMR。鬼瓦の人。母親が赤のボールペンで予診表を書いた。母親がやはり病気。 母親の理解がねじ曲がっているので治療が進まない。親が病識欠如。 子供の場合、病識は親が分担している。親が壊れていると、病識欠如と同じ。 親子のシステムが病気を否認している。子供が病気であるということ、また、母親が病気であるということ。 巻き込まれていることもある。 ある程度は仕方がない。子供を悪く思いたくない。判断は甘くなる。 毎日見ているのだから、異常と健常の判断は甘くなる。 どうにかなるのではないかと解決をのばしのばしにする。それを愛情と思う気持ちもある。 また、子供の「異常」はなにより母親のせいであるとみなされる。親戚や世間の目があるので、異常と認めたくない。病識拒否といってもいい状態。 いわゆる「育てかた」の問題ではないが、もっと深い意味で親の問題である。遺伝の問題もある。 3663 論文で書いているほどには誰も立派ではない。論文は実践の記録ではなく、創作ではないか。 ヒステリー性の患者ならば、そうした創作作業に協力してくれるだろう。それはヒステリー性患者との協同疾患の記録かもしれない。 精神科医療の現実は重い。 しかし考えてみれば、内科でも外科でも結局は死につながる。その点では精神科はやや異色である。最終的な行き止まりとしての死が重いのと、精神科でいう、どうしようもなさの重さ。 どちらもどうしようもない。限界点で行き詰まる。 精神科では最善を尽くしても報われないことが多い。治癒が得られなくても、お互いに最善を尽くしたという感覚が残ればいい。しかし、治療者の意図が誤解されたり、被害的に解釈されたり、あるいは患者の持つ対人交流能力の障害により、この最終的なすがすがしさがない。 内科などで、結局は死んでしまったとき、家族に感謝されるか、恨まれるか、これはやはり医者は辛い立場に立たされる場面もあるだろう。しかし、思うのだが、最終的には人間共通の感覚として、理解できるところが多いのではないだろうか? そのあたりが精神科医療には欠如していて、そのことを辛く感じてしまう人には毎日がとても辛いものになってしまう。 3664 子供の絵を日常見ている人がピカソを見たとする。また、未開民族の絵を収集している人がピカソを見たとする。そのときにどう判断するだろうか?いつも現代芸術を見ている人がピカソを見る場合。 その人の考える基礎になっている集団。それを基礎集団と呼ぶとして、それがどこにあるか。 いつも大人の精神障害を扱っている人が子供を診る。 子供一般が基礎集団で、その中での偏位として患児をみる人たちと、精神障害一般が基礎集団になって患児を診る場合と。 子供の精神疾患をどのように診断するか。子供は発達途上にあることを考えれば、異常と診断するのはためらわれることが多い。また、不思議なことに時間がたてばけろりと健常に復していることもないではない。だから、大人とはかなり違っている。 3665 欲求を満たすことと我慢すること 欲求を即座に満たすことを教育されて育った子供たち。欲求を満たすためには対人関係を破壊してもかまわないと思う子供たち。そもそもそのような利益の天秤がない子供たち。 我慢することに意味がないと思っている。確かにそうだろう。我慢しても実際の利益として報われることはないかもしれない。それがこの満ち足りた豊かな社会のありようである。 いちばん我慢をしない人がいい人生を歩いているのだろうか? 我慢は何によって報われるのだろうか? 我慢が何かによって報われると考えるのは虚妄なのだろうか? 心の中に倫理規範があり、倫理規範が確かに効力を持っているならば、我慢は報われるだろう。そうでなければ、報われないことの方が多いかもしれない。 新しいゲーム機が欲しくて親に頼む。だめだと言われたら祖父母に頼む。それでもだめだと言われたら大声で叫び、近所への対面を気にする大人の心理につけ込む。さらには‥‥結局は大人でいう境界型人格障害に似てくる。 対人関係よりも欲求充足が大切。この天秤ははっきりしているようだ。 3666 配偶者選択を間違ったばかりに、「人生に失敗した」と本にある。そんな薄っぺらなものだろうか。 確かに気候のいいハワイに住むことには意味がある。しかし寒くてつらい北海道に住んでみることも同じだけの意味がある。 要するに世界を確実に経験することである。どのくらいのものなのか、しっかりと経験することである。 それが暖かかったか寒かったか、そのことにはあまり優劣はない。 3667 順位性社会を生きている子供。それが現実である。社会制度としては平等であるが、本能は順位性社会を求めている。少年のあいだに順位を確定して、婚姻に備えるのだ。そのために順位を確定しなければならない。 制度を手直ししても、順位の本能は残る。 3668 人間に潜む邪悪さを顕在化させてしまう場所。たとえばインターネットはそのような場所である。またたとえば伝言ダイアル。最近の事件で。 社会全体が人間の欲望を開花させ最大化する方向に変化している。欲望を善用の方向に向け、平和を増進し、心の平安を増大させる方向の文化ではない。 人間の邪悪さは増幅される。人間の良心は窒息しかけている。 戦争兵器の開発。情報機器の開発。 3669 人と人とが憎しみ合い、争う。欲望と欲望を調停し妥協させる必要がある。それが政治過程である。政治的に成熟するのが大人になるということである。欲望の調停と妥協ができるということ。さらには欲望の善用ができるということ。しかしその意味では子供が多いままである。 争う場合のルールがあるはずである。ルールを無視していては動物以前の存在である。どの動物もルールに従って争っている。それが本能という装置である。 人間は本能が壊れている。壊れた本能部分を補うのは文化である。文化の伝達があってはじめてヒトは人になる。 人になりそこねたヒトが多いので社会は困っている。 3670 映像文化。行動で表現する文化。 文章文化。自己の内面で不満を処理する習慣。 3671 宗教の存在。→宗教とはいえないまでも、超越的なものへの感覚。 地域社会の存在。→顔の見える倫理。 総じていえば、倫理の消失。倫理とはつまり他人(他者からなる社会)の消失。 子供を魅了する「よいもの」「偉大なるもの」「憧れの対象」があるか。 子供を恐怖させる「恐いもの」があるか。 神のいない世界。 神のいない世界に倫理は存在するか。 他者が無視される社会。 他者がいない世界に倫理は存在するか。 不思議と謎のない世界。どのようにして自分の欲望を満足させるか、それだけが興味の対象。 3672 教育・啓蒙の効果 ・分裂病についての啓蒙→思春期(中学・高校・大学) ・学習障害についての啓蒙→親 3673 それは医療の問題なのか。教育の問題なのか。社会の受け入れの問題なのか。その線引きに関してはいつも議論がある。 たとえばフリースクールの運営者たちの態度など。学校に行かなくても「自由なはずだ」という。どの立場からの話であるか。 3674 大分類1 従来からの診断分類……時代により分類しきれない場合も多い 被虐待児。 多動、自己抑制のない子。 精神障害。 PTSD 強迫性障害 大分類2 攻撃的(外部に訴える) ひきこもり(自分に訴える) 心身症(体に訴える、外部と内部の境界領域が身体) 大分類3 不安・葛藤を処理する場所で分類する 行動化→行為障害、非行、暴力、自傷他害 身体化→心身症 内面化(精神化)→苦悩 3675 対人関係を内在化する→心の引き出しが増える 家族構成の変化。多様な立場の人の内面の表出に触れ、その人を内在化し、場合に応じて引き出しから取り出すこと、そういうことができない。 少子核家族化による影響 心の内部にいろいろな役割の人が住んでいること。多様なアイデンティティを時と場合に応じて発揮できること。 3676 社会全体が豊かになり、少子化も伴って、家庭の居心地の良さと社会の居心地の良さに差がありすぎる。 家庭は暖かく、社会は冷たい。そこで引きこもる。 3677 親業の変化 3678 血縁サポートが消失。地域サポートへ。 3679 過剰な個体化。 厳しい環境下では集団化。集団の一部となることによって自分を守る。主体性を一部犠牲にすることによって、保険をかけているようなもの。 豊かになれば、個人主義でもやっていける。しかし、そうだろうか?人生早期からの個人主義は何をもたらすだろうか? おそらく、個人主義で生き抜くためにはもっともっと豊かでなければならない。現状では中途半端な豊かさである。 だから軋轢も生じる。 3680 思春期スパート。その時環境は一定していた方がいい。そしてできればその時の環境がその後の人生の環境であればよい。行動様式を変えなくてすむから。 エストロゲン・スパート。人生に二度。二度とも、新しい人生のスタートの時点。それは合理的である。 3681 体験を格納する→感情の「旗」を立てて分類する。つまり、感情分類の網の目の数だけに分類される。感情が未分化だと体験を整理して収納することができない。 ひいては体験、葛藤、不安を言語化できない。つまり内面的に悩むことができない。結果として行動化や身体化する。 3682 最近の子供の行動化傾向 文化のあり方……映像 親のあり方……内面を問題にしない 家庭とは消費単位でしかない。その中の消費者として生きている。純粋消費者。企業は理性の未発達な子供をターゲットにしやすい。効率的販売。 倫理の変質。生産者の倫理から消費者の倫理へ。下部構造の変質が上部構造の変質に。(わたしたちは昔の人だからものを大切にしたいのよ)vs(こんな不便で汚いものは捨てなさい。みっともない。) 教育の変質。市民を教育しない。エリート選別と企業従業員の教育だけ。しかしそれすらも崩壊。 教育する側の問題。 茶髪からピアス、援助交際から非合法薬物まで 脳の構造→脆弱性 脳が壊れている。教育の限界。 幼稚園の変質。 学級崩壊。 公の場というものを尊重する気分に乏しい。 自分勝手な子供の増加。 中国の一人っ子たち。 3683 親は子供の外部理性である。それが壊れていたのではどうしようもない。 3684 男性ピラミッドと女性ピラミッド 女性ピラミッドのほうが価値多元的である 3685 母親の変化と母子関係の変化、そして子供の変化。 3686 登校拒否 暴力 摂食障害とくに過食 自傷行為 いじめ 校内暴力 児童虐待 ひきこもり(フリーターは以前は病的とみなされた。現代では必ずしもそうではない。かわってさらに重度の引きこもりがみられるようになった。) 3687 育てにくい子を支えきれない核家族 育てにくい子供と親への支援(多動、自己抑制のきかない子、衝動的) 学習障害、注意欠陥多動障害(→将来、行為障害や衝動統制障害に発展するか、発展を防止できるか) 3688 生育医療→小児科の拡大 3689 精神障害の早期発見と早期介入 3690 性周期に伴ううつ状態や行動障害 思春期の性の変化 3691 精神遅滞児がうつ病や精神病様症状を呈することは多い →適応障害から反応性の神経症状態になるのだろう。反応を起こしやすい。 3692 食事療法で発症を防止できた先天性代謝異常者が思春期以降に精神障害を発症することもある。 3693 児童虐待の発見、防止、介入の実際の方法→啓蒙 強い喪失体験の後の子供への援助→そのような援助があること、援助が必要で有効であることを啓蒙することができるか。 3694 年代  病態           背景にある家族構造 1950  赤面恐怖         家父長的家族 60   登校拒否         マイホーム主義 70   家庭内暴力、       ニューファミリー     摂食障害、     手首自傷 80   校内暴力・いじめ     シングルマザー     落ちこぼれタイプの不登校 90   児童虐待         夫婦別姓 虐待が後のボーダーラインや多重人格と関係しているか。(複雑型PTSD) 倫理構造の変化 「社会の中での自分」像の変化 3695 同一性感覚の希薄な境界性障害 同一性感覚はしっかりしているが誇大化して柔軟性を欠いている自己愛性障害 いずれも身近な対象との関係の中で自らを発達させる能力を失った人格 「子供の世界」の体験の欠落 母親のコントロールできない自らの感情を子供が代わって処理してやる関係=「世話役の子供」 世代間境界が薄れている 子供に代わって親のほうが憎んでしまう、親機能の放棄。 →親は理性や超自我を演じる必要があるのに、そうしない。むしろ子供の子供機能を奪っている。 強迫的に子供の生活に干渉する、細かい父親。 3696 →ひとことで言って、子供の質の低下なのではないか。 体験を咀嚼する力の衰退。 3697 女性は一方では伝統的な女性役割を期待される。また一方では主張的で競合的であることを期待される。同一性を保ちにくくなる。 3698 1986年から摂食障害激増。初診時からすでに社会機能低下、学業成績下位、父は非専門職。社会階層を問わない。精神病理構造は強迫性から衝動性へ変貌を遂げている。 →強迫性から衝動性へ。 →衝動性をはぐくむ条件があるはずである。それは何か。 荒れすさんだ心。深い愛情を実感したこともない。そのような光景。ただ餌を与えられている。 3699 摂食障害の発症契機……受験や異性交際 食べることと食の本能の直接的結びつきが失われた。食の象徴的意味が大きくなっている。 →?実際の患者さんたちがそのような次元で悩んでいるとは思えないような気もするが。 3700 家族療法においては世代間境界を明確にすることが有効である場合が稀ならずある。 3701 少子→家族内の対人関係が少なくなる。固定化しやすい。状況が変われば、それまで見たことがなかったような子供の言動が見られることもある。(レパートリーが少ないということだろう。) 少子化→親の期待の集中 対策は、質のよい対人関係を増やす、親の期待を適度なものにする。 3702 食を介して親の愛情の奪い合いが表現される場合がある。 3703 治療 子供が普段とは異なった役割を発揮し、異なった姿を見せることができる場所。大人の目が充分には届かない、子供たちの場。現実社会と診察室の中間のような場所。「たまり場」。 親の不安が過保護、過干渉となっているのではないか。 都市化、核家族化は知人や親戚などの地域サポートを失う過程でもある。 地域のサポート能力を高める。→行政的対応。 3704 家庭内暴力症例の臨床診断 293 器質性精神障害 精神遅滞 自閉性障害 ADHD てんかん 精神分裂病 34 気分障害 分裂感情障害 境界例 36 その他 176 その他の細分類 登校拒否を伴うもの 強迫症状や心気症状といった神経症症状を呈するもの 家庭内暴力のみ 非行を伴うもの 3705 家庭は生産的機能を喪失し、単なる消費生活の場となってしまった。 母親は過干渉、過保護に、子供は几帳面、まじめでよい子を演じる。思春期に至っても持続すると自立が妨げられる。 家庭内暴力の意味……自立と退行の混合 抗議 自立の試み 親を操作する 共生的関係の再構築 3706 家庭内暴力は減少し、薬物乱用などの欧米型の問題行動が増加すると予測される。 家庭内暴力が生じるためには、そこに濃密な情緒的交流が存在し、暴力という形で甘えを表現できる対象が存在しなければならない。しかし近年の少子化傾向はそうした濃密な情緒的交流を否定するものであり、子供が暴力を振るおうとしてもそこには暴力を振るう対象が存在しないという事態が生じうる。そのため、これまでのように登校拒否や家庭内暴力のように家庭内に閉じこもったとしても、そこでは精神的安定を得ることはできない。子供は外部の世界へと依存対象を求めていくか、一時的にしろ確実に不安を解消してくれるアルコールや薬物に走らざるを得なくなる。 児童虐待の増加。 →これは有効な指摘かもしれない。 3707 インターネット情報をなぜ信じるのか。そこにはハイテクという威光があるから信じるのだろうか。ひどい話である。悲しい話である。自分の周りにはいないが、どこかに立派な人がいると幻想する。インターネットのような仮想的な世界はそうした幻想をはぐくむ場となっている。 普通人は権威の前では批判力を失う。肩書きやハイテク装置の威力。 3708 キレル、ムカツクなどによって表現される、短絡・即行傾向や社会的逸脱行為が目立つ。 普通と思われている子供の、唐突な問題行動。 精神疾患の低年齢化。 正常と異常の境界の不鮮明なケース。 症例の重症化・遷延化 自殺は減少している。 諸問題の低年齢化。 思春期スパートの早期化。 短絡傾向。 認知能力の乏しさ。 共感性、相互理解の乏しさ。 耐性閾値が低く、即行的に外部に向く行動化傾向 →葛藤・不安を内面に保持し内面で処理することができない。 →人間は内面に世界のモデルを持っていて、その中で体験し直したり、シュミレーションを繰り返したりしている。そのような「内部の舞台装置」が消失しているのではないか。 医療の対象となる生徒 行為障害 多動 反抗性挑戦性障害 情緒不安定性人格障害(衝動型、境界型) 自己愛性人格障害 習慣と衝動制御の障害(間歇性爆発障害) 適応障害 精神障害 3709 たとえば大人になってパチンコをやめられない人。それは大人になって辛い思いもしているし、そのような人生を選ぶのも本人の事情があるのだという了解がある。つまり、それだけ恵まれない人生だということで、そのような人が発生するのはある程度はどうしようもないことだとの了解がある。 それが低年齢化して拡大・一般化しているということなのだろう。 困った人たちと子供たちはこれまでどうしていたのだろうか。戦争後の一時期が特異な時期だったのだろうか。 戦争で人口の一部が(偏った形で)失われた。そして危機に直面して独特な倫理的風土が醸成された。 3710 共感性の未発達。 内的対象関係が成熟していない。他人が心の中に住んでいない。 3711 少年非行の変質。 豊かな社会の一方、家庭や地域社会の機能低下。これを背景として、非行の増加、重症化。 3712 学校は多少難のある生徒でもほしい。売り手市場である。 すぐに逆転する〈いじめ・いじめられ関係〉。 3713 悩みを抱えられない。 →内面化の障害。 葛藤を悩みとして抱えることができず、動機という自分なりの理由付けさえなされぬうちに、何の逡巡もなく、一足飛びに実際の行為が行われる。 ブランド品ほしさの援助交際。 →なぜいけないと言えるのか。規範力が試されている。倫理が試されている。 鳩の社会に鷹が紛れ込んで得をしている。鳩は排除の方法が分からず、防衛の方法も分からず、倫理へのあこがれを言い続けている。 援助交際の二種 金ほしさと濃厚な対人関係ほしさ 「自己の欲望を満足させるためには、相手がどのように受け取るかということは予想せず、手段を選ばないで行動する、そのために周囲のひんしゅくを買い、時にはその手段が犯罪行為であるのに、反省という頭の回路が学習されていない例によく遭遇する」(北村) 「相手に与える恐怖や痛みを実感できない、共感できない点が最大の問題である」 他者の痛みが分からないのは、自己の心の痛みを実感できないことの裏返しであろう。 悩むことの前提条件が欠けている。 3714 全般に強迫性が不足している。しかし非行少年に強迫性成分が見られることもある。 強迫性の特徴 ・普段はおとなしいが、自分が傷つけられたと感じたときには爆発、執拗、残忍な暴行・傷害。 ・勉強(仕事)をするときは人の何倍もやるが、わずかなことで躓くと、すべてを投げ出してしまう。 ・人並みではいやだ。高望み。相応の努力もしないのに、自信たっぷりの万能感にあふれている。 ・尊大な自己像を抱いている。 ・過剰適応や几帳面はあまりみられない。 ・家族に強迫性性格者がいる。 社会適合的な強迫性を育てること。 こころを育てる場所と援助者を提供する。 3715 思い通りにならないときどうするか。 親が受容的共感的に接する。子供中心主義。子供の思いは何でも受け入れる。 ほどよい理不尽さを持つ親や教師がよい。 理不尽なところがあるから反発できる。 child abuse and neglect maltreatment 3716 子供はいかにして社会化するか。 自然は3年という出産周期を望んでいる。もし子供が予定通りに生まれないと、現在いる子供は母親からの「過剰な教育的処遇」という被害を受けることになる。一人っ子は2年ごとの反抗期をより著明に表すことになる。子供は二年ごとに反抗期を経験する。(Kanner L) 3717 男性=競争的、女性=協同的。どこまで文化であり、どこまでホルモンであるか。 3718 親が子供に自分の不安定な感情を向ける。 母親が家庭で仕事を片づけるようにてきぱきと育児をすると、乳幼児のこころは緊張し育ちにくい。 子供ロールモデルの欠如。たとえばテレビは何を提供しているか。 核家族では親子は境界のない葛藤的な集団力動に陥りやすい。 父母連合、世代境界、性差境界などの基本的家族構造を確立しにくい。 親自身が退行してしまう。 親が拒絶的に接すると、子には否定的自己像が形成される。 専門家との関係でこころを癒すのではなく、子どもがもっとも望んでいる母親との信頼関係を直に作り直す。 面接の中で、自分自身を振り返り、自分の親との隠された葛藤に気づき始める。 親としての成熟。 治療者との関係が安全基地になる。 自己の葛藤に気づくことにより、人は自由になる。自らの弱さ、卑劣さをしみじみ味わえるようになると、欺瞞的な自己防衛の必要も薄らぐ。そして伴侶や身近な相手を見つめる眼差しも深く寛容になる。 治療者に母親がつっかかってくるあたりが、治療的変化の正念場である。理不尽な葛藤が治療者にも誘発される。スーパービジョンが大切。 3719 壊れたときにどんな症状が出現するか、臓器によってかなり違う。 肝臓は原因(感染、先天異常、ガンなど)が多様であっても症状は似ている。脳は原因が同じでも、場所によって多様な症状が出る。 3720 Hysteroid dysphoria 拒絶に対する極端な過敏 自己評価は他人の承認に左右される。 ヒステリー的。 人格障害や神経症に二次的に生じる抑うつ。自己評価が他人の承認に左右されるために、拒絶に過敏で、反応的に抑うつ的になる。 ヤングアダルトの特徴 ヒステリー的色彩を持つ身体化症状 回避的行動化症状 3721 結婚は幸せの場ではない。人の道を極めるうえでの試練である。 困難な結婚も不幸ではない。個性化の場。人格的成長の場。 夫婦は文化摩擦や異文化接触の場である。家族文化を無自覚的に身につけている二人が衝突する。次第に新しい自分たちの家族文化を創り出す。 3722 学級崩壊 子供の質が変化した 面白いことにも集中力がなかなか持続しない 周囲を見ることができず自分のことしか考えない 落ち着きがない 家庭におけるしつけの問題 教育現場に適応できない教師 児童生徒だけでなく、教師も幼稚化している。 学校カウンセラー 週に2回だけやってくる人にどれだけ心を開くだろうか。 担任や養護教諭のスーパーバイザー。 3723 農業社会……大家族 工業社会……核家族 情報社会……単家族 これらの混在が、価値観の混在をもたらす。混在は混乱につながる。 大量生産のための効率を追求することは情報社会の理念ではない。 3724 子どもたちに備わった素質を自然に開花させる環境にない。自尊心が傷つけられる。 精神療法 困難や失敗にもかかわらず、ベストを尽くしていることを見つけ、評価できるところを探す。 思春期青年期の人格発達課題に注目。 言語表現を中心にした集団精神療法よりも、現実生活体験を味わえることを媒介とした集団活動が適切。 境界性人格障害の64%に両親による虐待、敵意、軽視などのPTSD。 3725 非定型精神病。更年期発症の場合、ホルモン剤。クロミフェン療法など。 内分泌が大きく変化する更年期は思春期と並んで、周期性精神病が発生しやすい。 3726 クレッチマーの敏感性格。 無力性要素に強力性要素がわずかに添加されたもの。 強力性格が全面に出て、無力性要素が背景にあるものを「広義の敏感性格」。 予後良好な幻覚妄想状態の病前性格は広義の敏感性格。 強力性格の勝った人は対人関係面での孤立や孤独に弱く、発症契機となりやすい。 3727 診断 薬が有効なもの 薬が無効なもの 時間がたてばよくなるもの・悪くなるもの 待っていいもの・対処が必要なもの 3728 医療としてのかかわり 教育との連携 学校 カウンセラー その他 医療から教育へのフィードバック どのように教育すればいいか 薬剤と教育・タイミングと薬剤選択 3729 医療と連携したことで何が変わるか? 薬剤だけ?→それでも小さくない問題。 3730 子どもをとりまく状況 子どもが変わった面と子どもをとりまく状況が変わった面と両方 3731 「大多数の子ども並みに」という目標は正しいか? 結局その人はどうしたいかである。でもそれは子どもだからはっきりしない。親は子供のための選択をしているとは限らない。 親の不安や無理解が子どもを苦しめているとき、治療者はどうするか。 3732 今の社会が人間を疎外しているのではないか?ではどうすればいいか? 子どもはどのように生活すればよいのか。 ひよこは自然にすくすく育つはず。しかし自然でない環境でどのように育てばよいのか。しかし自然でない環境で育つ必要があるからこそ、現代の状況があるのだ。 3733 医学的検査で問題が見つかるのではない。集団の中で処遇に困る子どもがいるのである。 たとえば色盲の検査のようなものならば状況が異なる。 3734 大人ならば、この人はもともとはこういう人ではなかった。なのにこうなった。病気だと思う。なおして下さい。となる。 子供は必ずしもそうではない。もともとそういう子供だったのかもしれない。それは治せるのか? 急性期医療や感染症、外傷などが解決されると残るのは先天性異常の問題である。それをどうするか。医学的に対応できる場合もある。たとえば酵素欠損症。しかしどうしようもないものもある。その場合には療育となる。 3735 相談っていうのは、本当は、本当に正しい道を教えてほしいのじゃなくて、自分が心の奥底で思っている考えを、自分以外の人の口から聞きたいっていうだけだ。(銀色夏生) なるほど。「自分以外の人」がそれなりに専門っぽい人だったらもっといいわけだ。 3736 家庭内での常識と、社会での常識がかけ離れているとき、子供は困る。適応障害になる。 例えば、家庭内で重要人物として扱われている子供が、社会に出るとまことに平凡なとるに足らない子供である。その落差に耐えられるか? 変な親が多いから子供に社会性が育たない。親に社会性がないのである。 結婚問題にしてもその延長にある。家庭内での自分と社会での自分の地位の落差に耐えられないのだろう。つらい現実を見るくらいなら、引きこもりを続け、あるいは未婚を続けたいのだろう。 3737 「治りました!」と言ってくれる患者をかわいく思う。治りませんと言う患者をだんだん疎ましく思うようになる。 しかし、患者が医者を頼っている程度からいえば、治らない患者こそが医者を頼っている。 3738 愛と恋 恋は感情であり、大脳辺縁系の営みである。 愛は知性であり、前頭葉の営みである。 下等動物に恋はあるが愛はない。人間に知性が発生して、はじめて人間に愛が発生した。愛とはそのようなものである。 3739 金と権力、才能と美貌。これらを持ったものは堕落の瀬戸際にある。 誘惑に身を任せるチャンスがあるとき、多くの人は実際に誘惑に身を任せる。 そしてその後に長い後悔が続く。後悔を忘れられるなら、生きやすい人生である。 3740 恋が終わって愛が始まるのではなく、恋が終わって、制度と慣れと習慣が始まる。 愛を築いていくには、愛は不安定すぎる。投資分を回収できない危険がある。恋ならば短期間のうちに結果が分かる。無駄と分かった時点で、それ以上の無駄な投資を続ける危険を回避できる。 カトリック教会が離婚を禁じている。この制度があれば、愛を忍耐強く築くことができる。不良債券化しないとの保証があるから。無駄にならないから。 愛のための投資とは、多分、我慢である。我慢が報われる日が来るのかどうか、それが問題だ。報われない可能性が高ければ、それ以上我慢することはできない。 短期的な恋愛のためならば我慢は容易である。結果は容易に見えるから。 3741 患者さんの体験。 考えを変えるとき、寝てしまうといい。 これは多分、脳の血流分布が変化し、座っているときと比べて、脳の別の部分が活動するからだと思う。 カウチが自由連想に適するのもおなじ理由。 3742 世界の意味や人生の意味についての考察。こうした問題は結局、こちら(考える主体)の問題なのだと思う。離人症の話なのだ。世界は同じ。それをどう受け取るかの問題である。 だから、世界の意味や人生の意味についての考察の形をとってはいても、結局、離人感の表現なのだと思う。 何かをどうかすれば、突然世界が意味に彩られるということではないだろう。世界を操作する方法ではない。むしろ脳を操作する方法である。 ということは、芸術は、どこにあるか?世界の側にではなく、脳の側にある? 感動を喚起するためには、離人感を吹き払う操作をすればよいわけだ。 芸術が生きる意味をくっきりと提示する。この世界の意味を明確に提示する。しかしそれは元来そこにあったものだろう。それを見えやすくすることが芸術というものだろう。 それとは別に、まったく新しい、自然ではない、創造物があるだろう。しかし脳の産物であり、脳の自然であるとも言える。 3743 配偶者選択。DNAは異種を選択しようとする。文化は同質性の個体を選択しようとする。この両者の妥協として、配偶者選択が行われる。 たとえば本妻は文化的同質性に従い、愛人はDNAの求める異種性に従う。 文化的同質性と遺伝子的異種性。この二つの圧力がある。 3744 人は男と女のピラミッドの中で、自分と相手の位置を評価する。評価の基準が価値観というもので、それが問題。価値観の多様化・相対化は自分の価値付けをあやふやにする。あやふやだから、後悔や疑念につながりやすい。 3745 1999-2-11(木)寒い日 エックルズも書いているように、「神のいない無意味な宇宙に耐えられない」。それは当然ではないか。 誰もが人生の意味を求めているのだ。 そう考えることの背景として、苦痛は報われるべきだとの考えがあるのではないか。 報いはなくて、ただそれだけのもの、そう考えることが難しい。 行動のすべてを金銭に換算して考える傾向と似たところがないか。 苦痛は何のためにあるのか。小さい頃、自分の苦痛を見て、同情し、報酬を考えてくれた父母が、これから先もいてほしいと考えて、宇宙と世界の意味などと言っているのだろうか。 3746 祈りの言葉。 朝、診療開始時の祈り。 途中で、困ったときの祈り。 途中で、嬉しかったときの祈り。 最後に、カルテを整理し終わったあとの、感謝と反省の祈り。 これらのものを友として診療を続けたいものだ。 3747 習慣は怠惰につながる。習慣は精神を眠らせる。 恋愛も時間がたてば熱狂が終わり、習慣が顔を出す。お互いの習慣がお互いを再び支配したとき、恋愛は完全に終わる。 自動機械、ロボットに近い。習慣は自意識を必要としない状態である。 パイロットなしの自動運転状態である。 怠惰な習慣にいつのまにか再び落ちついてしまう。それが大多数の人間である。良い習慣を維持すること、悪い習慣を意識して排除すること、自動運転状態を減らすこと。 習慣は覚醒の終わりである。コリン・ウィルソンの話に近い。 3748 自己実現という言葉に胡散臭さを感じる。実際何を意味しているのか、とても曖昧。曖昧で良いと思っている人たちに支持されている。厳密に具体的に考えたくない人に支持されている。 3749 「他人をほめる人、けなす人」より ものの価値は、それを手に入れるために要する費用(努力)によって測られる。ものの価値は、それを取得するために支払われた代価に基づく。例えば、大変苦労して登った山の写真。 しかし別の側面もある。それですべてではない。 たとえば、ものの価値は、それが今後生み出すであろう価値に基づくともいえる。偶然拾った株券が、今後生み出すであろう利益。取得するための代価は大きくないが、価値は大きい。 生産費用による価値と、市場による価値とに似ている。 それを取得するために支払われた代価によってものの価値を考えるとして、人がそのものの取得にあたってどれだけの代価を妥当と考えるかは、支払う前にあらかじめあるだろう。それだけの価値があるから、人は大きな犠牲を払って手に入れようとする。大きな犠牲を払ったから価値が大きいと考えるのは、妥当する場合もあるが、全般的真理ではない。 それに価しない人に、何物かを与えてはならない。悪い結果を招く。彼を破滅に追い込み、あなたも破滅する。それはボランティアでも愛でもない。悪行である。 何かを手にするためには、あなたはそれに価しなければならない。 例えば、謙虚で控えめで質素だった娘。結婚によって金持ちになる。裕福になったことを感謝するだろうと思うと大間違い。 労せずして富をつかんだ人の周囲には悪い取り巻きが集まる。彼らの間に愛はない。軽蔑があり、恨みがある。 二代目や三代目はこのようにして没落するのだろうか。 3750 なすがままといっても、悪意ある攻撃者に対してなすがままにせよというのではない。神の意向に対してなすがままにせよといっているのである。 3751 「他人をほめる人、けなす人」より 支配の問題 会社で有能な男性も、家庭では必ずしも優秀ではない。「召使いに英雄なし」である。 夫は世間での待遇の延長として考えているのに、妻は軽蔑し、子供にも軽蔑を吹き込む。「世間では立派ということらしいが、家庭ではつまらない人間だ」という。そのようにして支配権を確立したがる。 無益な権力ゲームである。しかしそのような人間は少なくないからしかたがない。 最初は権力的でなかった人も、権力的な状況に慣れていくと権力的になる。困ったことだ。 妻にすれば、夫のささいな欠点を見つけだすのは容易である。夫は仕事が忙しいのだから妻の欠点探しにばかり熱中してはいられない。この非対称が権力関係を生む。夫は対抗として金銭面からの支配や暴力による支配を試みる。 仕事も家庭もというのは難しい。基本的には競争社会だから、家庭を犠牲にして仕事に打ち込む人にはかなわない。仕事で勝とうと思えば家庭は犠牲になる。そうすると妻に支配される。仕事で負けても、家庭で勝とうと思えば、こんどは「家庭には熱心だが仕事はできないだめな夫」と妻に批判され支配される。 この点では妻は批評家の立場に立てるから強い。 支配欲の強い人とはつきあうのが難しい。 支配されることの利益が明白ならば別であるが。 3752 自分の弱さと他者の寛容を利用する人たち。 なるほど。精神病者の一部はまさにそうだろう。また、「だってできないんだもん」と居直る人たち。「きちんとやったのに‥‥」と言い訳をする人たち。そのようにして強い側の人を苛立たせる戦術である。局所的な権力闘争である。このような細部が人間を消耗させるのではないか。 ただ他人の足を引っ張って、悪意のある喜びに浸っているのだ。他人を苛立たせるのが面白い。局所的な権力闘争に勝利する。このような人に関わり合っていると人生の時間がいくらあっても足りない。 人生は無限ではないのだから、自分を守る必要がある。こんなところで我慢する必要はない。 「他人をほめる人、けなす人」より 弱くてもろい人物は善良だとは限らない。 3753 精神に効く薬を恐れる理由。 体より精神が「自分自身」に近い。当たり前であるが、取り替えのきかない、自分自身の中核部分に近いと感覚している。そこを薬でコントロールするのはまずいと感じるわけだ。 それは健全だし常識的だと思う。 しかしそのように重要な部分だからこそ、自分の側でコントロールする必要があるのではないか?病気は一時的にせよ、感情や思考に対する自分自身のコントロールを弱めてしまう。その事態を薬を補助として使うことによって、回避できるのではないか?薬を適切に使ったほうが自分の思考や感情に対する自分のコントロールを維持できるのではないか? 3754 人徳の問題。これは無視できない部分がある。結局は人間がやっていることだから。 この人のもとで、患者さんのために力を発揮したいと思えるような状態。 モラルの問題。志気。やる気。気概。自分は立派なことをしているのだと信じられること。いいことをしていい人生にすると信じられること。 仕事の内容とともに、このリーダーのもとでなら、と感じさせることも大切だ。それが人徳であり、人間の力だ。 共有可能な価値観を提示することかもしれない。 目標設定、評価のシステム、こうしたことを通じて、よりよい人生の時間を作っていけるようにする。 3755 「一人と一人の優しい心、どうして一つにまとめられない」 という歌があった。昔のコマーシャルソング。 優しい心はあるのに、その自然な発揮を阻む何かがある。それが人間の幸せを台無しにしている。そう思う。 人間のいい心や優しい心を殺してしまう何かがある。何かといっても、結局は人の心の話である。ほんの少しのところなのである。 極限状況での話ではない。人間と人間との日常的な場面での話である。 診察室でもしばしば語られる。「あの人と話しているとなんとなく、どうしようもなく、イライラしてきて、そんな対応になってしまう。そんな言葉を吐いている自分がいやで、どんどん自分を嫌悪していく。」そうだろう。人の心にはそのようなどうしようもなさが現実にある。あると意識して、対処する必要があるだろう。 それにしても不思議なものだ。どうしようもない部分があるのである。 北風にならず、太陽になれという。診察室で患者さんにそう言う。しかし、自分でもどうしようもない場面がある。それが人間の気持ちというものだ。 3756 手渡した名刺をおいていってしまう人がある。そのくらい上の空だということだ。 こちらに落ち度がなくても、過剰な不安や思いこみの強い解釈によって、いろいろな誤解をしているのだろう。そのあたりまで含めて、ケアを考えなくてはいけない。 3757 摂食障害治療プログラムを作ること。 ・各種検査のセットを確定する。TEG、SCT、STAI、CMI、絵画、ロール。目的は、背景病理の検索、中心葛藤課題の把握、経過の把握など。 ・治療技法‥‥食事日記、精神療法、家族面接、薬物の使用など。 これらをすっきりと構造化して患者に提示できないか。このようにして治るのだと提示することが本質的に大切ではないか。 3758 閉じこもり・治療拒否の場合のアプローチの工夫。どうするか? ・「病気ではない。しばらく暖かく接して下さい」といえば時間を稼げる。しかしそれでは残酷というものだ。公務員的な「逃げの姿勢」を感じる。その人はその発言が治療的だと考えてはいないだろうけれども。 ・とりあえずできるのは家族面接。その中で生育歴・家族歴・既往歴と現在症をまとめることができる。本人の心理テストはとれない。もっと本人に関する情報を収集できないか。ビデオを撮影してもらったりできないか。 もっと工夫が必要だ。 3759 行動賦活系と行動抑制系 通常は10:10 行為障害では20:10 ADHDでは10:5 行為障害にADHD合併では20:5 知能が高いか低いか、集団内で認められているか否か、家庭内で認められているか否か、こうしたことが病像を修飾する。 強迫性障害やチックについてはどうか? 一口に行動賦活系といっても、いろいろあるのだろうか。 3760 「パニックディスオーダー」上島国利編集 国際医書出版 2415円 「パニック・ディスオーダー入門」B.フォクス著 上島・樋口訳 星和書店 1800円 「痴呆のケアと在宅支援」露木敏子著 星和書店 1650円 「恥と自己愛の精神分析」岡野憲一郎著 岩崎学術出版社 4500円 「心理療法の常識」下坂幸三著 金剛出版 3800円 3761 やる気を起こす。乗せる。 どの分野でも先生として指導する場合には必要。 自分のいいところを認知していただく。 3762 拒食症の子に食欲増進のための漢方薬を投与していた産婦人科医がいる。 もっとやせなければいけないとする訂正不可能な確信(妄想)が病気の根本である。説得は不可能。親に隠れて食事を捨てている。大人の話は分かる。しかし受け入れない。栄養が、骨が、出産の時に‥‥、そうした常識も分かる。それでもやはり拒食を続ける。そのような認知の病気である。精神病と考えて対処しなければ道は開けないだろう。 食欲がなくて食べられないのではない。努力をして食べないのである。そんな子供の食欲を増進すればどうなるか。苦しみは増大する。食欲が勝り、食べたとしても後悔に苛まれ、吐く。「ああ負けてしまった」と涙を流しながら吐く。そして今度こそはと強く決心して拒食を再開する。 そうなると拒食と過食・嘔吐の反復となり、慢性化する。 食欲と、それを抑制しようとする心の、戦い。拒食と過食の振り子。 食欲と妄想の戦いといってもいい。食欲を増進させれば、妄想はさらに強まるだろう。さらに強い意志を持って拒食を試みるだろう。否定されるとますます燃え上がり強固になるのが妄想というものである。 そうではなくて、妄想を抑制する方向が正しい。 拒食のない過食。これは愛情飢餓のような側面もある。鳥の親が小鳥に餌を与える。食事は親の愛情そのものである。口に食べ物を詰め込むことで、愛情を確信したいのだ。 背景にまたは前景に、母親・娘関係の問題があることも多い。 産婦人科医は、生理がないなら注射をしましょうと平気でホルモン注射をする。こんなことがあっていいものだろうか。 3763 学生の場合には、時間がどんどんたってしまう。時間をかけて‥‥などといっていると友達とどんどん離れていってしまう。そうした不適応が二次的な神経症状態を引き起こす。 3764 ストレスへの対処法 ・休息→寝る ・能動的→歌う(カラオケ) 寝るときには必ず緊張がとけている。歌うときも、リラックスしていないと歌にはならないだろう。 強制的リラックス法の一つといえるかもしれない。 例えば、ストレスを歪み、ストレッサーを負担と訳す。負担はいいが、歪みはもうひと工夫が必要か。 3765 安定剤ですといわない。「神経の過度の興奮を抑える薬です」と説明する。「神経過敏を調整する薬」など。 「精神を」といわず、「神経を」という。 「ストレスに対する抵抗性を強める薬です」もいい。 「心に余裕が出ます」これは心理的次元に偏りすぎだろう。 3766 気力と努力と体力。 3767 摂食障害に対する説明。 背景病理。 食欲だけの問題ではないこと。 3768 病気でないといってくれた人はいい人。 病気だから治療が必要ですといった人は悪い人。 人は逆恨みする。 3769 ストレスがかかったとき、免疫力が低下する。これは一見するとおかしい。ストレスにさらされると病気になって死んでしまうことを意味するから。なぜか?なぜそのような個体が生き延びてきたのだろう? 多分、進化がセレクトしてきたものは、ストレスに強い個体ではなくて、ストレスを感じない程度に環境に適応的な個体なのだろう。本当に適したものだけを残す。これが大切な進化の戦略である。それ以外は生きていなくていい。 笑うとNK細胞が増加して免疫力が強くなるというのも同じ。笑うくらい適応のいい人が残る。 3770 ストレス・サポート そばにだれかがいてくれる。 受け入れてくれる場所がある。 3771 人工化学物質汚染について DDTから始まってPCBなど各種の物質が長期にわたって影響を与える。 ・時間の要素‥‥長期の影響は推定しきれないこともある。 ・複合汚染‥‥複数の物質が体内で、また環境中で、どのような影響を及ぼすか。 また、胎児の問題では、影響を評価するまでにさらに時間もかかるし微妙な問題である。 薬もこうした人工化学物質の一つである。危険をどのようにして評価するか。安全をどのようにして保証できるか。難問である。 3772 薬の副作用についての問題 薬のせいでおかしくなったと騒ぐ。たいていはもともと変な人なのだ。だから薬をのむようにいわれたのだ。そして次第に症状が悪化した。それを薬のせいにしたがるのである。 薬を飲んで良くなった人。しかしその人は他人には何もいわないだろう。 薬を飲んでも悪くなった人。薬のせいで悪くなったと言いふらすだろう。 3773 母親が壊れていると、どうしようもない。ゆりかごが壊れているのだから。あるいは世界のモデルが壊れているのだから。母親に合わせて精神世界を構築してきた子供は外の世界では生きていけない。 以前から母親がおかしいとの説が繰り返し語られてきたことには理由があったと、いまわたしは思う。一種の逆転移といっていいかもしれない。 臨床家が否応なしに感じることなのではないか。 3774 老人介護とこころのケア。 こころのケアはどれくらい大切にされているか。痴呆老人だからどうでもいいだろうか? 体は心を養うためのものではないか。人が家に住むことにたとえると、心が体に住んでいるのだ。家を修理するのは住む人のためである。同じように、体を修理するのは心のためである。 3775 心療内科やメンタルクリニックに来るのはある程度革新的な人たちである。保守的な人たちは来ない。 自分はある程度風変わりであるという自己認知を持っている人ならばクリニックに来やすい。 あるいは、そんなこともまったく考えないようなナイーヴな人。 3776 心理療法の進め方 前田重治 症状形成の意味は、ひとくちでいえば、心身の再統合の試みであり、自我の防衛のためである。現実からのストレス、自我が処理困難な出来事や葛藤、欲求阻止などに出会った際、一歩退却した形で、心の統合や安定が図られる。その場合のさまざまな防衛の方法や退却のしかたによって、症状が形成される。 症状や障害を形成することによって、歪んだ形ではあるが、心身の適応(自己の回復)をはかっているものである。 心理的にいえば、患者の自我は弱いために、すぐに自我防衛にしがみついて症状を形成するし、一方、そのような防衛に縛られているために、ますます自我が現実性を失って弱くなっているともいえるもので、そこに悪循環が形成されている。 ●昔の行動様式を持ち出して応用してみる。一時的にはそれでいいが、いつかはその先に踏み出す必要がある。 新しい、より適応的な行動様式を開発して身につけることができるかどうか。 3777 母親が分裂病で、母親機能不全状態にある場合。遺伝的にも不利で、かつ環境としても不利である。従って、父親が分裂病である場合よりも、予後は不良である。 遺伝子もゆりかごも壊れているから。 しかし、分裂病にも進化論的に有用なところがあるからこそ、現代まで残っているのではないか。脳の進化の圧力がある限り、分裂病は発生するのではないか。進化の必然として、試行錯誤がある。トライアルである。その中でいいものが残る。環境に適しないものは分裂病と判定されているのかもしれない。 こうした分裂病論も可能であろう。 こう考えれば、単に壊れている脳と、分裂病的に壊れている脳とは別のものであるかもしれない。 3778 基礎的条件 一日30万円、250日として7500万円。 給料以外の支出……800万円。 現在給料……税 今……5414……2750 1……646……a 2……320……b 3……320……b 給料計……1286 経費計……2086 税合計……a+2b+2750(x) 操作後の給与と税 今……3700……1200 1……1000……300 2……1000……300 3……1000……300 給料計……3000 経費計……3800 税合計……2100(y) 節税効果……x-y=650+a+2b 多分、a=50 b=20 だとすれば、740万円。 四人で分けると、 600 100 20 20 の上積みとなる。 ーーーーー さらに効率を追求すると、 操作後の給与と税 今……3100……800 1……1200……350 2……1200……350 3……1200……350 給料計……3000 経費計……3800 税合計……1850(z) x-z=a+2b+900=990 850 100 20 20 ーーーーー 現実的案 操作後の給与と税 今……4560……2000 1……1500……400 2……320……b 3……320……b 給料計……2140 経費計……2940 税合計……1200+2b(p) x-p=a+350=400 今……300 1……100 3779 クリニックの立地をみても、患者の都合を考えているか、医者の都合を考えているか、分かる。たとえば茅ヶ崎クリニック。 3780 患者さんに感謝していただける。本当に嬉しいことだ。 薬が効く。カウンセリングが効く。 3781 重いボールは、動かし始めには骨が折れる。しかしなかなか止まらない。軽いボールは動かし始めるのは簡単であるが、すぐに止まる。ポーの小説の中にあるという。 このたとえ。 物事をなかなか始めない人は、しかし、いったん始めるとなかなかやめないと解釈できる。 例えば、石橋を叩いてもわたらない人。いったんわたるとなかなか止まらない。強迫性性格のような。 また例えば、うつの人が、ひとつの考えにはまりこんでしまえば、抜け出せない。ここにもやはり質量の法則があるのではないか。 年をとって質量が軽くなると、運転しやすくなる。たとえばハンドルを切りやすくなる。まだ若くて質量があるうちは、ハンドルを切っても曲がってくれない。 考えの狭窄を解消する方法。同じ思考回路にはまりこんで抜け出せない。 自律訓練法。 ズームの訓練。自分の現状を相対化する試み。 ズーム倍率を自在に変換する訓練。 3782 カウンセリングが過度の自己拘泥をさらに促進し固定するとしたら、治療阻害的である。 摂食障害者(背景に自我障害がある人)の日記のようなもの。手記。アダルトチルドレン系の用語が見え隠れしている。その世界の言葉で自己規定をして、世界の解釈を新たに組み立てているようである。一種の洗脳である。 それがいいことなのかどうか。アダルトチルドレンの場合にはあまりいいことではないように思う。 こうした場合、宗教やオカルトのように、「わたしはこれから少し特殊で一般社会の通念からはかけ離れた世界観を提示しますよ、注意してね、これをそのまま社会で通用させようと思っても当面はうまくはいかないかもしれませんよ」などと注釈をつけながら洗脳するのであればまた許されるだろう。しかしそうした側面を隠蔽して、治療や医学の装いで語られるとしたら、問題があるのではないか? 3783 検査結果によらず、訴えの内容だけで診断する領域では、性格障害者の餌食になりやすい。それをどうするか。たとえばいつまでも会社で仕事をしなくてすむようにするために医者を利用する人たち。NTTでも湘南心療内科でもみられる。またたとえば整形外科で交通事故後遺症の認定を求める人たち。 今後は、事故や犯罪被害の後にPTSDの認定を求める人たちも増加するのではないか。当院でもいるにはいたが、あまり大問題にならずにすんだ。 性格障害者の餌食にならず治療的であるためにどうするか。 患者の望むものではなく、「患者の治療自我の望むもの」を想定して治療にあたる。しかしそれが治療者の思考の反映でしかないとしたら?NTTや公的機関では逃れられない。しかし私的医療機関ではどうだろうか?わたしにはできないと宣言することも許されるのではないか? 3784 新聞投書で見る、紋切り型で大げさな表現。自分の感情を適切に表現する力がない。紋切り型とはつまり、「ものすごく」の延長で、程度がはなはだしいことを表示しているに過ぎない。 3785 才能がある、権力がある、金がある、美貌がある、こうした人たちは傲慢になりやすい。それは分かる。 病気の人も傲慢になりやすい。 権力とは、人よりいい思いができることだとしたら、病気であることもその一つとなりうる。病気も権力となる。 病気なんだからやさしくして。病気だから働けない。病気だから静かにして。すべて権力の行使である。 マイナスの状態であるのに、周囲の人の優しい心を餌食にして権力となる。 3786 ショパンのピアノ曲のような女 自分の流した涙の美しさにうっとりしているような 3787 自分の才能の方向と自分の努力の方向が一致しているか? そのあたりを伯楽に指導してもらうことが有効である。 3788 苦難 自分を磨くための絶好の機会である。与えていただいたことを感謝する。 苦難の代償・報酬として、神が何かを用意してくれると信じられるか?信じられるならいい。信じられないとしたか、この苦難の意味は何なのか? わたしたち周囲の人間が、その人を助けたい。苦難が意味あるものであるようにしたい。たとえば、苦難に際して周囲の人たちの愛が感じられたと体験してほしいものではないか。 傷は痛い。しかしその傷から、愛が染み込んでくる、そのようでありたいものだ。 3789  こんにちは。梅の花をそこここで見かけます。お元気でお過ごしでしょうか。  湘南心療内科が開院して一年たちました。はやいものです。皆様のご支援によるものと思います。どうもありがとうございました。  今後はより一層、患者さんのために何ができるかを考え、勉強を続けていきたいと思います。よろしくご指導下さいますよう、お願い申しあげます。 1999年3月2日 3790 まったくわけが分かっていない人 最初から知能に欠損がある人、病気のせいで困惑して健常な判断力を失っている人。こうした人たちに対して、どのように接するか。自分で決めたことだから勝手にすればいいと、自己責任の原則もいい。しかしそうではなくて、もう少し保護的に接することはできないか、考えたりもする。そして限界に突き当たる。逆恨みされたり、誤解されたりもする。しかしそこでくじけないで、患者さんのために最善のことができないか。それがプロの腕ではないか。 彼は会社を辞めて会津に帰りたいという。そこで、家を4月までに売って、会津に新築の家を建てたい。はやく売りたいとのこと。心配になったので、妻に来院していただいたところ、妻も同じ意見。まず会津のアパートにでも落ち着いて、その後でゆっくり家がいい値段で売れるのを待って、売れたらその後で新築すればいいのではないかと考えるが、そうでもないらしい。なにか田舎の人たちに対してのメンツでもあるのだろうかと思うけれど。 3791 川崎の小学校で 学級崩壊に見舞われた50歳の男の先生。六年生の担任。五クラスあって、ほかは五年からの持ち上がりだった。彼だけが新しい担任。前任者は、二十台の男性で、子供たちとは友達付き合いをしていた。夜も七時くらいまで遊んでいたりしたらしい。彼に代わってから、「抑圧的」と児童には思われた。父兄から文句が出ていた。 クラスでけんかがあった。拳で殴って、殴ったほうが小指を怪我した。親が出てきて、学校で怪我をしたのは学校の責任だと言った。その親は現場労働者で、片目がない。 学級崩壊状態になって、同僚も冷たい。あからさまな悪口を言ったりする。もう学校にいられない。校長は「運が悪かった。六年の担任にしたのはわたしだから、わたしにも責任の半分はある」と言ってくれている。教頭は校長と反目していて、彼にもきつくあたる。休んだまま出てこなければ、転任させると言う。 小学六年、中学三年など、最終学年は二月、三月に荒れると聞いていた。その通りらしい。 とにかく、子供の分別がないのが問題。親の分別が子供と同様にないのが次の、またはそれ以前の、問題。 親戚でもいれば、そんなことをさせておいては親族である自分たちの恥だ、自分たちも愚か者だと思われてしまっては大変だなどという感覚も生まれるのかもしれないけれど。しかしそんな条件にも欠けている。 3792 楢橋さん 60台で同窓会。70になると自然消滅。 会社を辞めて暇になって人と会いたいと思う。同窓会を思いつく。しばらくはいいが、70も近くなると、亡くなる人もいるし、病気になる人もいて、集まろうといってもあまり楽しい集まりにはならないことが多い。そして自然消滅する。 3793 摂食障害 患者さんがある程度増えた現時点では、摂食障害患者はあまり歓迎ではない。従って、宣伝もしたくない。 摂食障害患者治療は実りが少ない。まず彼女らは認知の歪みがひどい。被害的で関係妄想的である。 次に母親に問題のあることが多い。 さらに、心療内科に来る前に、婦人科で月経をコントロールする治療を受けていたり、「食欲を出す薬」を飲まされていたりする。それは医療に対する不信感の素地となっている。 しかし標準治療プログラムを作るとしたらどうするか、考えてみるのもいい。 ・両親と兄弟の生育歴、性格傾向、対人接触の特性などを調べる。→家族療法の感覚で。家族システム論を採用すれば、「悪者」をつくらなくてすむ。みんないい人だけど、家族になったときに、不都合が生じているのだと説明。 ・特に、母親に、「あなたも治療対象である」ことを理解してもらう。 ・本人の生育歴、性格傾向、対人接触の特性。 ・食事日記・内面の日記・「家族の関係」に焦点を当てた日記。 3794 治療を標準プログラム化する。 ・プログラムが鍛えられる ・患者に応じて細分化できる ・仕事に漏れがなくなる ・データとして有効なものが残る うつ治療標準プログラム パニック治療標準プログラム 不眠症治療標準プログラム 不登校対処標準プログラム 治療の最後に、今後に備えて、「病歴、処方歴、注意事項、未来の主治医に」などを書類にして渡したらいいだろうと思う。点数にはならないけれど。 人間ドックの結果報告のレポートのようなもの。 3795 濃厚な心理治療を求めない人もいる。 心理テストを見ただけで恐くなったという人も先日一人いた。そのあたりを上手に見抜くことが必要。面接の中でそのあたりの感触を患者からつかみたいが、時間がかかる?一応治療アンケートはあるけれど。書かない人も多いのはなぜなのだろうか。 3796 閉じこもりについて、レセプターのこと、過敏さのこと、このあたりから説明する。メカニズムが分かれば安心感があるだろう。 3797 拒食と過食の振り子。この様子を正確に描き出せないか。そしてどうすればいいか? 3798 笑えばがんに強くなるのではない。笑うくらいの人は強いということだ。弱い人が無理に笑って、それでがんに強くなるのではないだろう。 3799 高級感情の函養。これが市民社会を構成する市民を育てるための教育の根幹である。 3800 グローバル・スタンダードとはつまり、アメリカと同じように愚劣な生活をしろということだ。 3801 人間は一皮めくるとなんてグロテスクなのだろう。人の心というものはグロテスクでピカソの絵そのままだ。 以前はピカソの絵はことさらなグロテスクさとわたしには映った。いまはそうではない。この世界のグロテスクさを写し取ったもの、グロテスクさの純化と見える。 3802 コンプレックスをかかえている人は権力志向が強い。たとえば、校長先生になりたがって、自らの良心を圧殺する。 日の丸、君が代に関して通達を受けた後、自殺した校長。 3803 医者は刑事ではない。真実をつかむことが仕事ではない。こころを癒すことが仕事である。そのために知るべき適切な範囲というものがある。 3804 精神病ではありません。ストレス病です。 この認知を周知徹底させたい。 3805 夕暮れ時に、沈む夕日をみながら砂浜を散歩をする。そんな患者さん。茅ヶ崎風である。海辺で一人泣いたり。大声で叫んだり。 3806 「彼はわたしに関心がない」と手首を切ったナガホ。ずっとずっと眠っていたい。もう起きたくない。寂しいから。手首を切った時を思い出すから。 「彼は優しいでしょう?」といっても、「彼はわたしに感心がない」と言う。 3807 ただひたすら聞いて書いて明細化する。「なぞる」ように聞く。じっと聞く。語るように励ましながら聞く。語ることが癒しである。 何か意見を言えと求められても、そんなことに応じる必要はない。うっかり言っても失望されるだけだ。 言っていいことは理論的公式と患者の頭の中にあることだけだ。あとは患者の頭で考えてもらい、患者の口から出してもらう。うまく口から出てこないなら、最後の形だけは治療者のほうでつけてあげる。それだけである。 3808 1999年3月7日(日) 日曜の朝、邦楽の時間。源氏物語の女性の死後の魂の嘆き。今朝はしみじみと感じられる。人の世の無常。 3809 今ここで患者の外側に見えている症状は、基底にある障害に対する反応である可能性がある。ここを考慮すると、症状の見立ては複雑になる。 3810 何をなおしたいのか。どうなりたいのか。患者と母親の両方に確認しつつ治療を進める。治療の進展につれて何度も。 いいことだ。 3811 とにかく今を大切にしよう。 思い出の中であれこれ考えて、今思うが、今現在を大切にしよう。生きているのは今なのだから。 今を未来のための投資にしてしまうのはやめたい。今は今のために輝かせて味わいたいものだ。 愛と恋もこのようなものかもしれない。愛は未来に向けての投資である。恋は今を輝かせることである。 そればかりではないけれど。 しかし愛で現在が輝くという場合、やはり未来のしあわせを空想の中で先取りして楽しんでいるのではないか。 未来なんか信用できない。 たとえば人は死ぬ。死なないまでも心は変わる。事情が変われば人間は変わるのだ。 3812 集中力 集中しているときは野球のボールの縫い目が見える。テニスボールの番号が見える。バイオリンをとてもゆっくりと演奏しているような感じがする。 そのようなものだという。 また、無心になったとき、テニスの試合をしていて、「ああわたしはこんなにいい試合をしている」と感じる。バイオリンの演奏をしているとき、ホールのいちばん後ろで演奏を聞いている自分がいて、いい演奏だなと思っている。そして同時にバイオリンをひいている。 脳の内部の結合状態が一段レベルがあがるのではないか。部分部分のコンピューターを直列や並列につないで、結果としてさらに巨大なコンピューターになるのではないか。それが集中ということだ。 脳の各部分が別々の作業をするのではなくて、一つの作業を分担するようになる。それが集中である。 3813 摂食障害標準プログラム ・基礎データ 本人だけでなく家族についても、生育歴、病歴(CMIも利用)、性格傾向(TEG、SCT)、風景構成法(個人のものと、家族協同で交互にかいたものと→これは当院の特色ある治療とすることができるだろう) ・面接は本人面接と家族面接、同席面接を混合する。→プログラム化して手渡しておく。父親や兄弟も定期的に参加。 ・食事日記。 ・家族関係日記。学校日記。 ・担任教師、教育カウンセラーとの連携。 ・まず家族に落ち着いていただく。必要なら薬。 ・家族の話を聞いて、カウンセラーがまとめて反復する。→理解しましたよというサイン。 ・必ず治る。しかし時間がたたなければ治らない。治るとはどういうことかについて各人の意見を聞く。→治療目標の明確化を繰り返す。 ・背景病理の見定め。 ・摂食障害で患者にはどんな利益があるか。家族関係はどう変化したか。そのあたりを整理する。 ・参考図書? ・家族は何をすればいいのか分からずに途方に暮れている。具体的な指示を出すことができればよい。 3814 せっかく目の前にあるしあわせを、自分から拒絶するタイプの人がいる。フロイトも指摘したように。 人間の行動と思考のパターンは、各個人が実際に使用するパターンの数でいえば、実は数少ないもののようだ。それが性格である。 3815 うつ病治療標準プログラム ・基礎データ 生育歴、家族歴、現病歴(CMI)、性格(TEG、SCT)、風景構成法 ・精神療法(はじめ受容的に、次第に教育的に接する→プリント使用。病気の説明と療養の注意) ・家族に対して教育的面接→プリントを使って 3816 パニック障害治療標準プログラム ・基礎データ 生育歴、家族歴、現病歴(CMI)、性格(TEG、SCT)、風景構成法 ・薬物調整 ・自律訓練法 ・被爆トレーニング(薬と付き添いの指定→結果報告) 3817 不登校標準プログラム ・基礎データ 本人だけでなく家族についても、生育歴、病歴(CMIも利用)、性格傾向(TEG、SCT)、風景構成法(個人のものと、家族協同で交互にかいたものと→これは当院の特色ある治療とすることができるだろう) ・面接は本人面接と家族面接、同席面接を混合する。→プログラム化して手渡しておく。父親や兄弟も定期的に参加。 ・家族関係日記。学校日記。 ・家で何をしているか。 ・担任教師、教育カウンセラーとの連携。 ・学校ではどうだったか。 ・まず家族に落ち着いていただく。必要なら薬。 ・家族の話を聞いて、カウンセラーがまとめて反復する。→理解しましたよというサイン。 ・必ず治る。しかし時間がたたなければ治らない。治るとはどういうことかについて各人の意見を聞く。→治療目標の明確化を繰り返す。 ・背景病理の見定め。身体病はないか。 ・不登校で患者にはどんな利益があるか。家族関係はどう変化したか。そのあたりを整理する。 ・家族は何をすればいいのか分からずに途方に暮れている。具体的な指示を出すことができればよい。 ・参考図書? 3818 不眠症治療標準プログラム ・背景病理の検索 ・薬歴調査 ・性格検査(TEG、SCT) 3819 カラオケの効用 別の自分になれること。装うことに通じるのではないか。 心のいつもの場所ではないところが活性化される。自分の別の面が活性化される感じがする。 ヒーローになったりヒロインになったり、不倫をしたり、いろいろしている。 3820 子供の抱く不安や過剰なエネルギーを親が受け止めることができない。親が規範としての常識を設定できない。心の内と外の壁を設定できない。親はこうしているよと提示できない。親はすでに低エネルギーになっているから壁を設定する必要がない状態で生きている。 不安のエネルギーは心の外にあふれ出て、嗜癖行動へと進ませる。行動化。性嗜癖、食嗜癖、万引き、パチンコ、薬物など。 3821 未婚のままで生きているのは一種の引きこもりである。 3822 個人面接や家族面接を通して、治療者、患者、家族が、共通の感情や思考を持つこと。何かを共有するに至ること。 何かを共有している間柄になること。 共同体ができる。 sensus communis は意味が多少違うが、「複数人によって共有された何か」といった意味付けはどうだろうか。意味付けというよりは連想であるが。 3823 摂食障害は治ると、下坂幸三先生の本。長く診ていれば治る。短期で転職していたりするから、治ってゆくことが分からないだけだと書いてある。 なるほどそのような条件が疾病観に影響を与えることはありそうである。 3824 内面が表情に出るのではない。表情がまずあって、内面の性格を次第に形成する。従って、顔は内面を映していることになる。 内面が先にあるのではない。表情が先にある。そのような表情を持つ人はどのような対人関係を発展させるかについての体験を積み重ねる。結果として、表情に応じた内面ができる。従って、表情から内面を読みとることができる。 たとえば下卑た心は下卑た表情によって作り出される。下卑た表情を持っている人は、まわりの人から下卑た人間として扱われる。その結果として、次第に下卑た表情にふさわしい下卑た心を持つようになる。 3825 お説教は無駄。あるいは逆効果。 分からないのではなくて、分かっていてもできないのである。説教で言われることくらいは分かっているのだ。 説教するなら、分かっていてもできない、そこのところをどうすればいいか、説明しないといけない。 3826 安定剤を使わない治療を考えてみたい。栄養剤の系統のものでどうにかできないか? うつならば休息していれば治るはずだろう。休息時のプログラムを考えてやればそれでいいのではないか。 3827 最近の子供たち。 他人の真剣さが入っていかない。 他人の真心、やさしい気持ちが入っていかない。 3828 小医は病気を治す。中医は人を治す。大医は国を治す。 小医は症状に処方する。中医は症状と体質に処方する。大医は症状と体質と性格に処方し助言する。 3829 心身医学と精神医学 腹が立つ‥‥怒る 頭が痛い‥‥苦悩する 頭が上がらない‥‥劣等感を持っている こうした関係についての考察が大切 身体言語 3830 公文式の秘訣 できることを反復していれば、次のステップのことが自然にできるようになる。 できないことを克服しようとするから、自信をなくする。苦しい。 できることを反復していれば、自信ができる。嬉しい。好きになる。 自分のできないことは何かを考え、それを敢えて克服しようとする。それは能率的なようでいて、実は苦しい道である。 患者さんたちはその道にはまりやすい。 いきなり難問集に挑むようなものである。 3831 天気と心 明日の天気が分かる人は、昔は適応に有利だった。現在はそうではない。虫垂のようなものだ。陸で暮らしているのにエラがあるみたいなものだ。 3832 家持が好きだというおばあちゃんが来ていた。 うらうらと照れる春日にヒバリ上がり心かなしもひとりしおもえば わがやどのいささむらたけ吹く風の音のかそけきこの夕べかも 越前に赴いたとき、馬で水を渡る歌が好きと言っていた。 握手を求められたので、応じた。 3833 安定剤を使わない治療を考えてみたい。栄養剤の系統のものでどうにかできないか? 3834 ポケベルなどの同報機能を使って、心療内科の患者の心のケアをできるのではないか。例えば、過食や拒食の人のために何かできるのではないか。 寂しい人たちのために。 3835 音楽テープを作ることができないか。著作権の問題があるけれど。なんとかできないか。? 3836 「学校は好きですか?」などという馬鹿げた話。学校は手段である。 人生で何かが欲しいから学校に行こうと思う。そういうものだろう。学校自体は好きなはずはない。 3837 うつ状態は、ふつうわたしたちが経験する「憂うつ」の延長ではない。失恋のあとのつらさはそれぞれに覚えがあるだろうが、その延長として想像するなら、それは間違いである。事態を理解していないと言ってよいだろう。 うつ状態は心身を巻き込む、異次元の事態である。経験しなければ分からない。実際に体が動かなくなる。筋肉の疲労、首や肩のこりは尋常ではなくなる。「精神」の病ではなく、心身の病である。 「うつ病」や「うつ状態」には日本語としてすでに特有の色合いがついてしまっているので、ここでは「ストレス性心身過労状態」とでも言いたい。 日本語で一般に「うつ病」と言えば、現実には憂うつになる理由もないのに憂うつになる精神病、あるいは、現実の困難とは釣り合わない程度の憂うつを呈する精神病、ととらえられるだろう。「そんなに心配する必要はないのにどうしてそんなに落ち込むんだろう」というわけである。本来の、精神病としての「うつ病」の場合には「現実把握」がずれてしまっている。貯金通帳に五百万円あるのに、無一文になってしまったと嘆いている。それが精神病としての「うつ病」である。 しかし、「ストレス性心身過労状態」では、そんな現実把握のずれはない。現実の困難に対して必死に自分を奮い立たせようとしているが、体がついていかない。そのうちに不眠、食欲不振、不安やイライラ、憂うつ、おっくう、悲観的思考傾向などが出現して、一歩も前に進めなくなる。そんな状態である。 これは状況次第で誰にでも起こる。証拠としては、家族を調べてみても、特に遺伝傾向がないことが多いことがあげられる。 几帳面で責任感が強い人に起こりやすいが、そういう人たちは、(悪く言えば)過労から逃げるのが下手で、エネルギーの限界まで頑張ってしまう傾向があるから、「ストレス性心身過労状態」になりやすいというだけだ。彼らだけではなく、平たく言えば、誰にでも起こる。過労から逃げられないとき、誰にでも起こるのである。 治療は、体の治療も必要である。こころのケアだけでは足りない。だから、薬を使う。人間の感情や考え方は、薬で変えられるようなものではない。しかし、ひどい不眠、食欲不振、筋肉のこり、こうしたことには薬がよく効く。このあたりが少し楽になれば、体に余裕ができて、ひいてはこころにも余裕ができるという筋書きである。 3838 話をしたあとの、後味が悪い人がいる。そのあたりが性格というか、病気というか、微妙なところである。 3839 心療内科こぼれ話 湘南心療内科 こころとからだの治療に役立つ話 ・「腹が立つ」身体言語が症状化する現象 ・公文式(苦悶式!)の原則 ・漢方薬の話 ・薬の副作用 塩で高血圧 砂糖で糖尿病 ・パニック障害の成り立ち 身体メカニズムと心理メカニズム ・不安の正体 ・薬は「症状+体質+性格」に対して処方する→・前景症状と背景病理 ・心理テストで何が分かるか ・うつ病について ストレス性心身過労状態 うつの時の過ごし方 治癒の過程・いつ復帰するか(笠原説) ・夢の話 タンクローリーが横転し、周辺に火事。崖崩れ。丘に逃げる。墓の上に立っている。誰かが「○○の墓だ!」と叫ぶ。ぎょっとして目がさめる。 ・自律訓練法とは何か 3840 TEGの結果報告の様式を整えること CMIも。できるはず。 3841 心身がリラックスしているときには血管がゆるみ、血流が増大する。その結果、体温が上昇する。 反対に、不快なストレスが加わった状態では、血管は収縮し、血流が減少する。そり結果、体温は低下する。 では、血管をゆるめて、血流を増大させ、体温を上昇させれば、リラックス状態が得られるのではないかと考える。それが自律訓練法のはじめの考え方である。 3842 強烈な対人関係への嗜癖をやめること。 ほどほどの対人距離を満足を持って味わえること。 しかしそれが難しい。美人や才能のある人は、こうした罠に陥りやすい。美人に生まれた代償である。 3843 冠さんは、何の言葉でも即座に逆から言える。そんな特技もある。頭の中で積木を並べ替えるようなものだという。そんなこともあるものか。 3844 薬のやめ方。今日からきっぱりというのはよくない。次第にのみ忘れが多くなって、だんだんやめるというのがよい。 3845 エゴグラム 今回の心理テストはエゴグラムと呼ばれるもので、その中でも、東大心療内科で通常使用しているものです。 エゴは「自己」ということです。エゴグラムは、自己の状態を分析したものです。 精神分析学では自己の状態を超自我、自我、エス(またはイド)と三つに分けます。それぞれ、「道徳的判断」、「理性的判断」、「各種の欲望」と考えていいでしょう。 エゴグラムでは、さらに細かく、五つの領域に分けて考えます。 @批判的父親 A養育的母親 B理性的大人 C自由奔放な子供 D他人の目を気にする子供 どの領域も人間として社会で暮らしていくには必要なものです。しかしそれぞれのバランスはどうでしょうか?エゴグラムではこの五つの領域のバランスが明らかになります。それを分析し、さらに生活の中での提案をしていきます。 3846 W型説明  あなたのタイプは典型的な「苦悩パターン」です。 分析  あなたは自分の目標を高く掲げ、努力します。理想を求め、良心に従い、責任感が強い人です。しかし他人の目を気にするところがありますから、他人に合わせ、必ずしも自分の思った通りには実行できません。そこでいつも結果には満足できず、自分を責めることになりがちです。他人と暖かく、楽しく交わることは苦手ではないですか?その結果として、ストレスをため込み、ゆううつになりやすいタイプです。 提案  完璧主義をやめて、仕事や生活を楽しむ余裕を心がけましょう。  あなたは他人に対して干渉しないほうだと思いますが、そのことが場合によっては冷淡と映ることもあるかもしれません。相手への思いやりをもっと表現してみても良いかもしれません。  自分の感情をもっと外に出しましょう。感じたことをためらわず表現してみましょう。カラオケでもいいです。  自分の自信のあることから実行してみましょう。 3847 逆N型 A低位 FC高位 分析  自己主張が強いので、現代社会ではうまく生きられるでしょう。しかし、ときに感情に振り回されてしまうことがないか、点検してみてはいかがですか?思いこみが強すぎて、損をすることはないですか? 提案  まず、落ち着いて、周囲の客観的な状況を分析してみましょう。冷静な分析が大切です。自己点検だけで不足の時には、人に聞きましょう。客観的にはどう見えているか、聞いてみましょう。  自分を大切にしながら、同時に、周囲とも協調できれば、とても良いですね。 3848 へ型 分析  あなたは円満パターンです。社会の中で円満に活動できます。問題ありません。 提案  強いて言えば、広く情報を集め、冷静に分析する、そうした態度をますます深めて下さい。 3849 N型 NP高位 A低位 あなたは典型的な「献身パターン」です。 分析  「鶴の恩返し」の鶴のような人です。自分のことは後回しにして他人のことを考えてあげるタイプです。周囲の人の評価も高いと思います。  でもそれも現代社会では適応的とは言えないときもあります。まわりはもっと自分本位な人が多いのではないですか?ときに苦しいと感じることはありませんか? 提案  まず、客観的な状況の分析から始めましょう。冷静に客観的に考えてみましょう。そして人にも尋ねてみましょう。「あなたの立場からはどう見えていますか?」と。  もし、苦しいと感じることがあるなら、自己実現とは何なのか、自分の人生は何なのか、もう一度考えてみませんか?何かに尽くすことがあなたのすべてですか? 3850 逆N型 NP低位 A高位 あなたは典型的な「自己主張パターン」です。 分析  どちらかといえば他人と妥協せず、自分のしたいことを積極的にできるタイプだと思います。頼もしいし、現代社会ではあなたのようなタイプの人が求められています。どんどん活躍して下さい。しかしそのことがときには自己中心的と他人に映る場合もあるかもしれません。 提案  もし、自己中心的と他人に思われる場合があれば、あなたにとって損なことですから、あらためて相手の意見や感じ方をよく聞いてみるように心がけたらいいと思います。 3851 M型 あなたは典型的な「人気者パターン」です。 分析  明るく朗らかで、人気者ですね。思いやりがあって、面倒見が良いのではないですか。しかしときに周囲には「わがまま」と映ることがあるかもしれません。 提案  冷静な判断、広い情報収集を心がけましょう。あなたを頼ってくる人は多いと思いますから、その分、自分を律することが必要です。 3852 右下がりパターン あなたは「ボス型」です。 分析  あなたはリーダーシップが強く、集団を引っ張ることができます。ときにカッカときて、血圧が上がりそうになることがありませんか? 提案  子供心を思い出して下さい。心の余裕をどのようにして持ち続けるか、思い出して下さい。ときどき忘れていませんか? 3853 NP低位  かんしゃく持ちタイプです。場面によってですが、思いやりに欠けると周囲に映ることがないでしょうか。振り返ってみて下さい。 責任感は強く、判断は厳しいですから、相手に対しても厳しくなりがちでしょう。攻撃的となってしまう場面もあるかもしれません。  しかし社会人ですから、それほどには攻撃性をあらわにはできません。抑制しているうちに、我慢しきれなくなり、かんしゃくとして表現されることがあるのです。  まず、いままで以上に他人に対する思いやりの姿勢を持って下さい。他人の話をよく聞きましょう。あなたが判断をするのはそれから後で良いのです。  次に、責任感や批判力があなたを幸せにしているか、考え直して見ませんか?仕事はとてもできるがね、‥‥というのでは人生の喜びの半分を手放しているようなものではないですか? 3854 A低位  現実希薄タイプです。高い理想を掲げ、倫理感情も高い人です。しかしそれを現実的な方法で実行することはすこし苦手ではないですか?そのために欲求不満になります。  自分のことは見えないのに、他人の欠点ばかり見えるのではありませんか?  問題解決能力を高めましょう。まずは、広い情報収集です。次に、冷静な判断です。偏見や噂、不確定な情報に惑わされないようにしましょう。  さらには、自分の判断の適否についてアドバイスしてもらえる人を持ちましょう。  判断がついたら、素早く実行しましょう。  実現不可能なことを空想して悶々とするよりも、一歩、自己実現に近付くことができます。 3855 FC低値  あなたは「忍の一字」タイプです。感情を抑圧し、葛藤状態に陥りやすいでしょう。  自己主張はあるが、自然な感情を表現できず、悩むでしょう。  感性を磨き、それを自然な形で表現することです。倫理感も高く、思いやりもありますし、協調性も充分にあります。あとは自分の内側にある良いものを他人に自然に伝えられるかどうかだけではないでしょうか。  カラオケでも絵、短歌、エッセイ、何でも良いです。自分を表現しましょう。 3856 AC低位  管理者タイプ。あなたは管理者としてはとても有能です。エネルギッシュに活動します。社会秩序を守り、仕事もばりばりこなし、周囲への思いやりも充分にあります。周囲からの信望も厚く、遊び心もあります。リーダーシップを発揮できる、頼もしい人です。  しかし自分の信念は容易に曲げないのではないですか?  もし、信念を貫く余り、周囲に嫌われているとしたら、あなたにとって損なことです。まわりの雰囲気、いわば「風」のようなものをつかむようにしたいものです。 3857 台形型 CP AC 低位  「自他肯定タイプ」です。周囲への思いやりも高く、仕事はこなし、楽しく遊び、生活をエンジョイできます。現代社会に適応的です。  このタイプの人は、ときどきは、自分だけが幸福であればよいというマイホーム型のこともあります。社会的責任と個人主義の妥協点を見つけていきましょう。 3858 台形型 NP A 高値  「ボランティアタイプ」です。周囲への思いやりも高く、仕事はこなし、楽しく遊び、生活をエンジョイできます。現代社会に適応的です。奉仕精神が旺盛という場合が多いようです。  多くはないのですが、時に、「人の気持ちも考えないでお節介する」ということになりかねません。相手の話をよく聞いて、気持ちを尊重しましょう。  奉仕することの喜びとはまた別に、自分自身を解放することも学びましょう。気持ちを外に出すようにして、カラオケでも、日記でも、試みましょう。 3859 台形型 A FC 高位  極端に言えば、「自己中心タイプ」です。同時に周囲への思いやりも高く、仕事はこなし、楽しく遊び、生活をエンジョイできます。現代社会に適応的です。創造性に富む人たちが多いようです。  場合によっては、「自分さええよければ」という考えになることがあるようです。それは自立しているということで良い面でもありますが、社会の中では摩擦を生む場合もあります。他人の気持ちはどうか、よく聞きましょう。同時に、社会のルールやけじめ、しきたりを考え直してみても役に立つかもしれません。しかしあなたのいいところはなくさないで下さい。 3860 U型 NP A FC 低位 あなたは典型的な「葛藤パターン」です。 分析  責任感や使命感が強いので、それはとても良い面なのですが、ときにはそれがあなたを縛ってしまいます。そしてあなたは他人に対して言いたいことが言えない控えめな面がありますね。それは協調的な人という評価につながっているのですが、我慢することも多いでしょう。「‥‥ねばならない」と思いながら、社会の中では遠慮して我慢しているのですから、ストレスがたまります。どちらかといえば否定的発想の場合も多いのではないでしょうか。 提案  まずいろいろな場面で自分の気持ちを自由に表現してみるようにしましょう。カラオケでも会話でも。  次に、情報を多角的に収集して分析し、不足の部分は他人によく相談しましょう。  あなたは他人に対して干渉しないほうだと思いますが、そのことが場合によっては冷淡と映ることもあるかもしれません。もうすこし他人との関わりを深めたほうがよい場面もあるかもしれません。そんなことも頭に入れて他人と接してみて下さい。 3861 U型 NP A 低位 分析  批判力と厳しさが特徴で、かつ、がまんするタイプですから、ストレスをためてしまうタイプです。心の葛藤はときに身体症状となって表現されます。イライラしながら我慢していて、ついには爆発することがあります。  ときに衝動的行為が見られるのではないでしょうか。そのときは取り返しのつかないことになることもあるでしょう。 提案  まず、相手の話を落ち着いて聞きましょう。ゆっくりと関心をもって耳を傾けるのです。その後に、広く情報を収集し、冷静に分析しましょう。  協調性は充分にありますし、自分を律する強い力も持っていますから、それを生かしましょう。 3862 レディースクリニックは印象がいい。 取り入れたい。 レディース外来の日を作ってもいい。専任の医師をおいてもいい。 3863 U型 A FC 低位 分析  批判力と厳しさが特徴で、かつ、がまんするタイプですから、ストレスをためてしまうタイプです。心の葛藤はときに身体症状となって表現されます。他人の世話をすると自分のイライラを解消できる人がいるものですが、このタイプ人です。  「わたしがこんなに無理をしてみんなのためにしてあげているのに」と不満が積もるのもこのタイプの特徴です。このように他人を批判して、ますます尽くすことになりがちです。 提案  現代社会では、「わたしから特に言わなくても、わたしの努力は分かってほしい」といった気持ちは、あまり有効ではありません。場合によっては「甘え」と受け取られてしまうでしょう。 提案  まず、自分のつらさを正直に周囲に伝えて、分かってもらいましょう。伝える技術を工夫しましょう。そして周囲の状況について、充分に情報を集め、冷静に分析しましょう。客観的にどう見えているか、まわりの人に聞いてみるのも良いことです。 3864 N型 NP高値 FC低位 分析  「頼まれたことはノーとは言えない」タイプでしょう。自分のことはいつも後回しではないですか?  周囲からは「頼りになる」とほめられていますね。でも、自分の中の「本当の自分」は悲鳴を上げてはいませんか? 提案  自分が楽しむとは、どういうことでしょうか。「他人の楽しむ様子を見ることが自分の楽しみだ」と、そういう部分も大切ですが、そればかりではうまく行かないのではないでしょうか。  自己実現という言葉を再度考え直して見ませんか? 3865 N型 A高値 FC低位 分析  「仕事中毒」のパターンです。能力は高いので仕事は楽しいでしょう。しかし、自分の立場や考え、感情をはっきりと言えないところがあるので、つらい場面に至ることもあります。  頼まれればノーとは言えないのではないですか?でも、それでは自分はどうなりますか? 提案  「楽しむ、休む」ということも、人生の大切な要素でしょう。より深く楽しみ、休息してみませんか?  知識や情報は充分ですから、それを豊かに表現してみましょう。芸術に親しみ、心を耕しましょう。 3866 逆N型 NP低位 FC高位 分析  自己主張が強く、現代社会にはとても適応的です。しかし、ときに周囲とぶつかります。悪くすると、他人への思いやりが薄いと周囲には映っているかもしれません。また、自分のしたことへの罪悪感が薄いと映っているかもしれません。そのあたりであなたは損をしていませんか?  どちらかといえば葛藤の少ない健康なタイプですが、周囲の目には注意して下さい。ちやほやされている反面、反感を買っているかもしれません。 提案  まず、人の話をよく聞きましょう。時間をかけて傾聴しましょう。自分を大切にしながら、同時に、周囲とも協調できれば、とても良いですね。 3867 夢 人は体験に「感情のラベル」を貼って、引き出しにしまい込む。(具体的には海馬の情動・記憶の回路)。 体験にどのラベルを貼って良いか、迷うこともよくある。体験が大きすぎる場合は分割しないといけない。多様な側面がある場合にはその一つ一つにラベルを貼る必要がある。 その場合には夢の中で作業する。それが夢の意味である。夢を見なくなった頃、人はその体験を咀嚼・消化・吸収したことになる。心の引き出しの中には、「悲しみ」「歓喜」「恨み」などの分類ラベルが貼ってある。 どのくらい細かい分類であるかは、人によって異なる。未分化な分類を使っている人は、いろいろな体験が未整理で未分化なままで収納されている。それはとても原始的な状態である。 3868 記憶 記憶も何層もの階層構造になっている。 抑圧された記憶がある。 false memory syndrome 抑圧があるから、夢がある。変形されて出現する。しかし、なぜ出現するのか?夜、夢の中では検閲がゆるむからという。なるほど。よくできた話である。 3869 寝ているあいだに悩みは噛み砕かれる。解消され、解決が見えてくる。悩みを抱えつつ、眠ること。眠っているあいだに、大切な作業が進行する。 3870 男性機能不全の治療としてバイアグラを使う。しかし考えてみれば、彼らは若い魅力的な女性に対してなら勃起するのだから、むしろ、女性の側の機能不全と言うべきではないか。妻たちは夫たちを勃起させる機能の不全を呈しているのだ。 3872 月並み精神療法。それが一番である。患者の常識、患者の思考回路に寄り添うことである。それが求められている。 3873 光よりも速いもの。 走る波。 3874 馬鹿と天才は紙一重。 天才と秀才の違い。 秀才は適応力。天才は独自の思考回路。 独自の思考回路がたまたま偶然に自然を写し取っていれば天才であり、外れていれば、狂気である。 一般能力の高い子は、器用にピアノもこなす。しかし天才ではない。 3875 「仕事が忙しいことは娘も分かっているはず何ですがね」と言う。だからいけない。 3876 ひょっとしたら、出産は子供にとっても母親にとっても、とても性的な体験ではないのだろうか。 男が女の乳首をなめたり吸ったりして、性的に興奮するのはなぜだろう。 3871 1995年の薬の本を手元に置いて使っています。わたしは古い薬しか使いません。副作用についての情報が充分に検証された薬を使いたくありませんか?しかも薬価は安い。 3877 NABAではダイアルQ2方式で放送サービスをしているという。やってみたいものだ。ネタはある。医師の話。患者さんの体験談の紹介。 3878 今宵は何に乾杯なさる? 保護室の落書き。 3879 石橋をたたいてもいいから、渡りなさい。 3880 強迫症。岩を削るだけでなく、水位を上げることも治療である。 3881 ぎゅっと抱きしめる。直接感じる、理屈抜きの愛。 3882 脳は知覚、処理、運動の三つの部分からなる。 脳を鍛えるとは、この三つの部分を鍛えることである。 より多様で繊細な知覚。いろいろなものを見る。 正確で早く深い処理。いろいろなことを考えてみる。 精緻で迅速な運動。いろいろなことをしてみる。 3883 放ったらかしの子供たち。登校拒否にもなる。 3884 支配層は自分の子弟を高学歴者としたい。しかし一方で、自分たちの支配を維持するために、優秀な人材を自分たちの陣営につけておきたい。そこで、高学歴者は優秀な人と、エスタブリッシュメントの子弟との混合となる。そのような選抜試験を工夫する必要がある。 そこで、本質的な頭の良さを試すテストと、親の生活の程度を試すテストとの両面を持つようになる。論理的思考は前者であり、くだらない知識の集成は後者である。数学や現代国語の論理操作能力は前者である。地理や歴史などは生活程度の反映である。 3885 個人的体験の伝達。詩の言葉。 解釈者としての詩人。創造的解釈。 3886 我慢強い人柄。 しかし損ばかりしているわけではない。どこかで損得が合っているから、我慢強い人柄が続いているのだろう。 3887 恋愛 たとえば不倫。障害があるにもかかわらず、好きだと感じる。その場合には、自分の気持ちを確認することができる。好きだという気持ちを確信することができる。 だから、障害のある恋愛は強い。 妄想は一般にそういうものだろう。普通でない考えの方が、「自分はそう強く思っている」と確信できる。 3888 食欲中枢と性欲中枢 バイアグラの使用にあたり、あまり満腹でないときのほうが効果がある、バイアグラを服用した後は食事をしないほうが勃起し易いなどの観察があるらしい。 なるほど。 男性の場合には、性欲中枢と攻撃性の中枢や食欲の中枢が近くにあるのではないか。だとすれば、どれかが満足させられれば、他のものも満足させられる。つまり、鈍る。 女性の場合には性欲中枢は満腹の中枢と近いのではないか。満腹になると性欲が亢進する。すると、食料が豊かなところで子供を残すことができる。進化論的にも合理的である。 3889 小学校で ゴミを拾わない子。「自分のゴミじゃないから」という。 その場合、ゴミを拾ういい子たちはどう思うだろうか?せっかくいい家庭で、いい人間、いい社会についての観念をしっかりと持っているのに、学校に来て、そうした信念が揺らいでしまうのではないか?それは良いことではないだろう。そこを大人は守ってあげたい。 通勤途上で 朝、クリニックまで歩いてくると、たばこのポイ捨てを平気でしている人に多く出会う。また、農協の不動産屋の前では職員が道を掃除している。ポイ捨てをする人たちは、自分のゴミを他人が片付けていることをどう思っているのだろうか。 百歩譲って、ポイ捨てをする人たちはしかたがないとしても、せっせと掃除をしていい社会をつくり、いい人間でありたいと思っている人たちの心を殺してはならないだろう。そこを援助したい。そこを助けたい。 うつの人 うつになる人たちはそんな要素もあるのではないか。この社会の理不尽さに押しつぶされていないか?一部の人間の邪悪さに押しつぶされていないか? だとすれば、援助したい。助けたい。 3890 患者はいつも薬が強すぎると考えたがる。何か起こると、薬のせいではないかと考えたがる。そうした傾向に対して防衛的に対処しておく必要がある。 つまり、弱い薬を出すこと。プセラボーで充分である。 しかし時に、やや強い薬を出してしまい、苦情が出る。たとえば強迫性障害に対するアナフラニールである。これは評判が悪い。できれば出したくない薬である。 以上のことはよく分かっているつもりであるが、しかし、ときどき失敗している。 よくよく自戒すべきである。 3891 男性機能不全の治療としてバイアグラを使う。しかし考えてみれば、彼らは若い魅力的な女性に対してなら勃起するのだから、むしろ、女性の側の機能不全と言うべきではないか。妻たちは夫たちを勃起させる機能の不全を呈しているのだ。 3892 1995年の薬の本を手元に置いて使っています。わたしは古い薬しか使いません。副作用についての情報が充分に検証された薬を使いたくありませんか?しかも薬価は安い。 3893 テレビで不登校の子供をお世話する施設の紹介。いつもの路線。 学校は「自分たちの組織を守ることばかり考えている」などという。 やはり背景には産業構造の変化があるのではないか。(その一方で、環境ホルモンやアルコール、タバコによる遺伝子、胎児期への影響があるだろう)。産業は知的に能力の高い人を要求している。その要求に応える形で教育が構成される。その中で「落ちこぼれ」が発生する。 おおむね、人々は精神障害を知らない。ものごとを「心の傷」に還元したがる。 「五体不満足」という本が売れている。脳がしっかりしていればいいということだ。五体は不満足でも、脳が満足ならいい。「脳不満足」でも幸せに生きていけるか?それが問題である。 性格の病気。結局、自分の求めるものが得られない社会で、いかに生きていくかということだろう。 「ダメ同士」で集まることがいいことなのか?デイケアと同じで、難しい問題である。あからさまに反対はできないが、問題があることも事実である。 行動化して訴える人が本当に苦しいのだろうか?行動化さえもできない人たちはどうなるのだろう。行動化すればちやほやされると分かっている。そこのところが嫌らしい。 3894 「まず薬を飲んで落ちついて」このセリフもいけないことがある。「精神的に落ち込んでいるのに薬を飲めとは何事か、専門家なら、気持ちが元気になるような話をしてくれ」と「お門違いの」要求をする馬鹿がいる。 思い込みが強いのは患者の特性である。説得は受け付けない。人の話が聞けるようなら病院には来ない。 病院に来て聞きたいのは真実でもなく医者の話でもない。自分で思っていることを他人の口から聞いて安心したい、それだけだ。だから、患者が思っていることを反復して言ってあげる、これが治療のすべてである。 馬鹿はどこにでもいるから仕方がない。このような馬鹿だと悟ったら、早々に対処する。「あなたはちっとも病気ではない」「薬なんか要りません、前向きに、プラス思考で」「もう君は治っている、君は自分が思うより自己洞察ができている」「君には充分に力がある、ただ、その力をせき止めているものがあるから、それを考えて取り除いていこう」「君には自分でも気付いていない心の深層の問題があって、それが現在の症状を形成している」など。 真実などは信じるに足りない。治ればいい。治らなければ悪い。 3895 うつだと言って来院。休んで下さいというと、「でも、……」となかなか納得しない。この場合、うつ病ではなく、分裂病である。 だから、そんなときに、「なぜ分からないのか」と躍起になって説得してはいけない。逆恨みされるだけである。 また、相手からアドバイスを引き出しておいて、「(フン、そんなアドバイスか、)でもそれはできない、なぜなら……」と相手をやりこめるように発言するタイプの人がいる。こんな人にも付き合っていてはいけない。「あなたはどうしたいのか」と話を進めるのがよい。あるいは家族に話をする。 正常論理が通じる相手に話をすること。それ以外は、接し方を変えること。 とにかく、憎まれないこと、恨まれないこと。今泉先生を見よ。反面教師である。 真実が問題ではない。いかにして好かれるか、それが問題である。 3896 絶望のあと、しかしそれでも世界と人間を信じたい。そのような芸術。 3897 ひょっとしたら、出産は子供にとっても母親にとっても、とても性的な体験ではないのだろうか。 男が女の乳首をなめたり吸ったりして、性的に興奮するのはなぜだろう。 3898 月並み精神療法。それが一番である。患者の常識、患者の思考回路に寄り添うことである。それが求められている。 3899 光よりも速いもの。 走る波。 しかしここでは観察者の問題があるから、光より速いものとして観察することはできない? 3900 馬鹿と天才は紙一重。 天才と秀才の違い。 秀才は適応力。天才は独自の思考回路。 独自の思考回路がたまたま偶然に自然を写し取っていれば天才であり、外れていれば、狂気である。 一般能力の高い子は、器用にピアノもこなす。しかし天才ではない。 3901 「仕事が忙しいことは娘も分かっているはず何ですがね」と言う。だからいけない。 3902 今宵は何に乾杯なさる? 保護室の落書き。わたしはここに輝きを見る。 3903 石橋をたたいてもいいから、とにかく渡りなさい。 3904 NABAではダイアルQ2方式で放送サービスをしているという。やってみたいものだ。ネタはある。医師の話。患者さんの体験談の紹介。 3905 強迫症。岩を削るだけでなく、水位を上げることも治療である。 3906 脳は知覚、処理、運動の三つの部分からなる。 脳を鍛えるとは、この三つの部分を鍛えることである。 より多様で繊細な知覚。いろいろなものを見る。 正確で早く深い処理。いろいろなことを考えてみる。 精緻で迅速な運動。いろいろなことをしてみる。 3907 放ったらかしの子供たち。登校拒否にもなる。 3908 我慢強い人柄。 3909 支配層は自分の子弟を高学歴者としたい。しかし一方で、自分たちの支配を維持するために、優秀な人材を自分たちの陣営につけておきたい。そこで、高学歴者は優秀な人と、エスタブリッシュメントの子弟との混合となる。そのような選抜試験を工夫する必要がある。 そこで、本質的な頭の良さを試すテストと、親の生活の程度を試すテストとの両面を持つようになる。論理的思考は前者であり、くだらない知識の集成は後者である。数学や現代国語の論理操作能力は前者である。地理や歴史などは生活程度の反映である。 3910 個人的体験の伝達。詩の言葉。 解釈者としての詩人。創造的解釈。 3911 ぎゅっと抱きしめる。直接感じる、理屈抜きの愛。 また例えば、患者さんに感謝してもらう。そのことは直接の、理屈抜きの、喜びである。